第9話 現実(リアル)の知人

「わ、どうしよ……っ」


 振動を続けるスマートフォンが、朱莉あかりの手の中で跳ねる。それを取り落とさないように必死にバランスを取りながら、緊張で口の中が渇くのが分かった。

 待ちわびていたはずの着信では、あった。悪戯だと思われて無視される可能性も十分にあったんだから、こうして折り返してもらえただけでも震えるほどの僥倖ラッキーだった。だから、早く電話を取らないと。やっぱり悪戯か、なんて思われる前に、ちゃんと話をしないと。


 でも、頭では分かっていても、身体は言うことを聞いてくれなかった。知らない男性からの電話を――こちらから架けておいて勝手だけど――取るのは、緊張するなんてもんじゃない。話す前に洋平ようへいが遺したメモを手元に置いておかなくちゃ、と。慌ただしく辺りを探るのも、ほとんど時間稼ぎのためだった。

 それに――すぐに通話ボタンを押すことができないのは、緊張や話づらさだけが理由じゃない。全く根拠のない恐怖も、朱莉の動きを鈍らせていた。


 この電話をかけてきているのは、本当に生きた人間だろうか。つじ隆弘たかひろ氏で間違いないだろうか。もしも、女の声が聞こえてきたらどうしよう。朱莉は、のりこさんの声なんて聞いたことがないんだけど。でも、多分、女の子らしい高い声なんじゃないかと思う。少し甘ったるい感じの、明るい声。あのSNSの投稿から想像できるのはそんな感じだ。その声が、ちょっと何余計なことしてるの、とか語りかけてきたら。今度は朱莉のスマートフォンから、あの白いが出てきたら。掴まれるまでもなく、恐怖と驚きで心臓が止まってしまうだろう。


 でも、このまま無駄に時間を費やして、チャンスをふいにしてしまう訳にはいかない。折角のりこさんに繋がるかもしれない人と話すことができるんだから。辻氏とコンタクトを取るために、決して少なくない額のお金を使っているんだから。洋平の仇、というか。人を死に至らしめる心霊現象を、放って置けないと思ったはずなんだから。


「待って、ちょっと、待って」


 相手に聞こえるはずがない無意味な呟きは、自分に覚悟を促すためのものなのだろう。声を出すことで、これからのやり取りへの心構えにできるように。どもって不審がられたりなんかしないように。

 朱莉は、振動するスマートフォンをしっかりと握り直し、「通話」のボタンをタップした。そして、耳元に構える。


「もしもし、矢野やのと申します。辻さんで、いらっしゃいますね……?」

『……はい』


 スマートフォンから聞こえてきたのは、男性の声だった。これといって特徴のない、若い男性の声だ。これだけでは辻氏の人柄なんて分かるはずもない。でも、とにかくもかけてきたのは男性だったということ――女性ではなかった、のりこさんではなかったということに、朱莉は深々と息を吐くことができた。おかしなことだけど緊張も少しだけ解けて、次の言葉は多少は滑らかに口から出てくれる。


「突然のお電話で、大変失礼しました。武井たけい法子のりこさんのお知り合いの方で、間違いないでしょうか」

『はい。……武井は、昔の知人ですが』


 戸惑う気配を見せつつも答えてくれる辻氏の声に、朱莉の安堵は深まる。彼が、怪しい電話の相手にも敬語を使ってくれる人だということ。それに、近しい人を電話口では迷わず呼び捨てにするところから、社会人としての常識がある人ではないか、と期待できる。何より――武井法子の知人、で当たっていたらしい。もしも辻氏がのりこさんの恋人や親族だったとしたら、知り合いという表現は違和感を持たれることになってしまっていただろう。


(本当に、すごくラッキー……! こんなにちゃんと話せるなんて……)


 思いのほか話はスムーズに進むのかもしれない。緊張だけでなく、今度は興奮も手伝って、朱莉の鼓動と呼吸は荒くなる。それを必死に抑えながら、朱莉はあらかじめ考えていたことを頭の奥から引っ張り出そうとした。


「あの。私は、武井さんとはネットで知り合って……どうしても、現実リアルのお知り合いの方のお力が必要な状況でして」


 初対面の相手に嘘を吐くのは、あまりに罪悪感が大きい。後からそれを知られたら、信じられない、協力できないと言われても仕方ない。だから、必ずしも本質を明かしてはいないけれど、嘘ではないと、朱莉が自分に言い訳できるギリギリのラインの切り出し方だった。もちろん、相手の反応を見て、少しずつ軌道修正もしなければいけない。辻氏が武井法子の現状を知っているのか、どの程度の関係なのか、言葉の端々に滲む情報や感情を、見落とさないようにしなければ。


『……武井とはこの数年会っていなくて。どうして自分に連絡が来たのか分からない、戸惑っている状況でした』

「はい。分かります」


(亡くなってることを知らない……?)


 辻氏の言葉に懸命に耳を傾けながら、朱莉は一瞬あれ、と思った。武井法子が亡くなっていることを、朱莉は確かに知っている。はっきり目に見えたとはいえ、あの透けたような質感に血の気のない白い肌は絶対にこの世のものではなかった。でも、彼女が洋平や、葉月はづき千夏ちかというモデルと同じような状況で亡くなったのかは分からない。つまり、自宅や病院で、すぐに遺体が見つかるような状況だったのかどうか、は。

 だから、辻氏が彼女を生きているかのように言っていること、それ自体は不思議じゃない。朱莉が聞き咎めたのは、状況、という表現だ。これではまるで、戸惑っていたのは過去のことで、今は何かしらを納得しているかのように聞こえてしまう。


『だから、同級生にあたって彼女の現状を知らないか、折り返す前にあちこち聞いてみたんですが』

「……はい」


 違和感をどう捉えるべきか考えながら、朱莉は相槌を打った。もう一言二言、突然すみませんでした、に類することを言おうとしたのだけど。彼女が息を吸う間に、辻氏はやや早口に、遮るように続けていた。


『誰も知らないんですよね。あいつが今どこに住んでるか、何をしてるか。地元を離れて就職したら、そんなものかもしれないとは思うんですが』


 辻氏は、武井法子のことをあいつ、と呼んだ。さっきまでは、堅苦しく苗字を呼び捨てにしていたのに。その口調は、ふたりはただの知り合いではなかったのかもしれない、と邪推させてしまうほどだ。客観的な評価、あるいは事実としてはそうだったとしても、辻氏の心の中には、それ以上の想いがあったということも考えられる。……その考えに至ってしまうと、のりこさんのことなんてどう説明したら良いのか、練っておいたはずの言葉も喉で詰まってしまう。


『……武井に、何があったんですか? 伝言って……どうして、どうやって、貴女が……? それに、自分の電話番号は――』

「あの、本当にすみません。武井さんは、ご自身では貴方と連絡を取ることができない状況なんです」


 辻氏が過去形を使った理由は分かった。多分、彼も武井法子の身に何か良くないことが起きたのを予感している。最初に留守番電話のメッセージを聞いた時は不審しかなかったとしても、共通の知人にあたってくれた段階で、放って置けない状況だと認識してくれたのだろう。


(それなら――)


 端的に言った方が、話が早い。そう、一瞬の間に計算を働かせると、朱莉は辻氏が息を吸い込んだ隙を素早く捉えて、爆弾を放った。


「武井さんは、多分もう亡くなっています」

『な――』

「お住まいは、○○市ですよね? 勝手にご連絡先を調べるようなことをして、本当にすみません。でも、私もお伝えするべき方にお伝えしないと、と思って必死だったんです。私も、住所は××ですから、辻さんさえよろしければ直接お会いしてお話させていただければ、と思うんですが」


 そして相手が絶句している間に、さらに追撃をかける。流れで自分の住所を明かすことになったけれど、構うものか。これくらいで特定されることもないだろうし、何より、相手の情報を掴んでいる不気味さを少しでも薄めるためにも、こちらも自分をさらけ出す姿勢を見せないと。


「土日でも――なんなら、平日でも。こちらが都合を合わせますので」

『…………』


 辻氏は、どこから電話をかけているのだろう。考え込むように黙り込んだ彼の背景からは、微かな雑音のほかに物音はしなかった。電車の音や、どこかの店内のBGMも。では、自宅だろうか。家族は同居しているのだろうか。洋平を亡くしたばかりで、しかも、辻氏の知人の死を突きつけたばかりの朱莉だから、勝手なことだと分かっていても、相手の生活環境に思いを馳せずにはいられなかった。


『……予定を確認してからまたかけ直します。少し、待っていただけますか』


 朱莉の想いなんて、もちろん電話の相手に伝わるはずがない。辻氏は、彼の胸の中で結論を出してくれたらしい。やがてスマートフォンから響いてきた声には迷いがなく、何かしらの決意を秘めているように聞こえた。

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