第42話
一日休めば熱も落ち着くと言う彰夫の予想に反して、発熱のピークは夜にやってきた。
熱はあるとはいえ昼間はこう着状態だったので、これ以上熱も上がるまいと、好美も多少気を緩め、看護の手を休めて自室で休んでいる。
夜の闇が訪れた頃に、彰夫は眼が覚めた。熱で眼が覚めるということもあるのだと、彰夫は初めて知った。身体がだるく息をするのも苦しい。好美に助けを求めようとするが、声が出ない。すると、勢いよく彰夫の部屋のドアが開き、好美が彰夫のベッドの様子を見に来てくれた。
さすが好美だ。来て欲しい時に来てくれる。助かった。しかし、覗きこむ彼女の瞳を見て、彰夫は絶望的になる。来たのは黒い瞳のテルミだった。
「あらぁ、苦しそうね。わたしを馬鹿にした罰かしら」
彰夫は言い返す力もない。
「バッグを離さなかったのは褒めてあげる。でもこんなことで、私が納得したなんて思わないでね」
水が欲しい。声が出ない彰夫は濁った眼で、テルミに助けを求めたが、彼女はそんなことを意に介する様子がない。
「彰夫はお水が欲しいみたいね。あたしはお酒が欲しいの。今夜も飲みに行ってくるから…。じゃあね」
テルミはそう言って部屋を出ていった。勢いよく閉められた入口のドアの音を、ベッドで耳にした彰夫は、自分は本当に取り残されたのだと諦めた。
やがて熱が、彰夫の頭を麻痺させてきた。覚醒と睡眠の狭間を笹船のように漂いながら、ついに浮力を失い、夢と現実が混沌とした濃度の濃い海の中を、ゆっくりと沈んでいく。
やがて彰夫は、海底にマグマの噴出する開口を発見した。赤く染まった開口部から発せられる熱で、周りの水が瞬時に気泡となって上昇していく。その熱が離れている自分にも伝わってきた。浮き上がらなければ…。
しかし、もがけばもがくほど、身体は海底のマグマの開口部へ向けて沈んでいく。
いよいよ熱が肌を焦がすほどの距離まで沈み、ほどなくすれば立ち昇る水蒸気と同様に、彰夫の身体もマグマの熱で気泡となって、跡形もなくなるだろう。力も尽きて動けなくなった彰夫は覚悟を決めた。
その時、彰夫の腕を掴むものがいた。
彰夫の身体は力強くぐいぐいと引き上げられ、マグマから遠ざかっていく。彰夫は自分の腕を掴むものを見た。美しい人魚だった。
人魚は見た目に反して凶暴だと言われている。繁殖期になると、人間の男の血肉を喰らって、子を産むそうだ。彰夫は助かったのか、それとも新たな危機に遭遇しているのかわからなかった。
人魚は自らの尾ひれを力強く躍動させて、彰夫を水面へと引き上げていく。光に満ちた水面へ出た人魚は、彰夫を岸の岩辺へと運び横たえた。
「水をください」
彰夫が残された力を振り絞って人魚に言うと、人魚は海水を口に含み、自らの口で優しく彰夫の口に移してくれた。海水は不思議なことに真水に変わっていた。
映画『パイレーツオブカリビアン』では、確か人魚にキスをされた宣教師がすべてを捨てて、彼女の世界に潜って行くんだっけ…。
人魚の柔らかい口唇を感じながら、彰夫はそんなことを考えていた。唇を離した人魚の顔を見た。そのあまりにも美しく優しいその眼差しの中にある瞳は、黒いダイヤのように輝いていた。
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