第25話
「あの…」
彰夫は背後から声を掛けられて、メモ作業の手を止めた。振り返ると、そこに好美がいた。
「もういらしてたんですね。声をかけて頂ければよかったのに…」
そう言いながらほんのり赤らめる好美の顔を見ると、今日はうっすらお化粧をしているようだった。際立つ鼻筋と濡れた唇。愛らしく跳ねたまつ毛は、こんなにも長かったことに今まで気付かなかった。服の雰囲気も、過去会った時とちがった印象を受ける。今日のために、お化粧やおしゃれをして来たのか。
「すみません。早く好美さんの作品を見たかったもので…」
「画商でもないのに、必死にメモしながら絵を観賞する人を始めてみました」
「ああ、これは…」
彰夫はメモを慌ててポケットにしまった。
「何をメモしていたんですか?私の作品の批評?」
「いや…、絵のことじゃないんです。急に晩飯のレシピを思いついちゃって…」
好美は探るような眼で彰夫を見つめた。
嘘を見透かされる狼狽というよりは、長く好美に見つめられることへの狼狽で、彰夫の顔が上気した。彰夫の口が勝手に動きだした。
「僕は美術の知識など無いですから、批評なんてとんでもないです。何を描こうとしているのか、何が描かれているかなんて、まったく理解できません」
「ただ…、こんな自分でもひとつだけはっきりと言えることがあります。好美さんの作品は無条件に美しいと思いました。この絵を見て、あらためて好美さんに魅かれる理由がわかった気がします…」
その言葉を聞いて、好美は口に手をあててうつむき、凍り付いたように動かなくなってしまった。
しまった!心の奥底に鍵を掛けてしまっておいたはずの気持ちが、思わず口からこぼれ出た。
「ごめんなさい…。好美さん、許して下さい。変なこと口走っちゃって…」
内向的な好美の性質を考えると、異性にこんなこと言われたら、引かれるに決まってる。明らかに失言だった。彰夫は自らの軽率さを後悔して視線を床に落とした。
「本当にごめんなさい。気分を害したでしょう。出直してきます」
頭を下げて、アートミュージアムを立ち去ろうした彰夫は、自分のジャケットの袖が引かれるのを感じた。
「約束したでしょう。ご案内はまだ終わってません」
そう言いながらその複雑な笑みを浮かべる好美。その表情には、こわばる体に鞭打ってようやくつかんだ彰夫の袖を、決して離すものかという決意が現れていた。
彰夫はそんな好美を振り切って帰るわけにもいかず、好美の案内に従って作品展を見て回った。失言に懲りた彰夫は、今度は下手なことをしゃべらずに、良い聞き役になろうと心掛けた。好美は言葉は少ないが、丁寧に解説してくれた。
やがて作品をひと通り見終わると、意外にも彼女は会場を出て美術大学のあちこちの施設まで案内を始めた。彰夫が帰ってしまうのをすこしでも遅らせたいがのごとく、その施設の隅々まで案内する。
そのうち彰夫は周りの学生たちが、驚きと好奇の目でふたりを見ている事に気づいた。学生ラウンジで好美と仲良くコーヒーを飲んで、あらためて周囲の視線の先を探り、彼はようやく理解することができた。それは彰夫に対するものではなく、好美が男と楽しく時をすごしている事への驚きと関心なのだ。
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