第8話
少しだけ傷つき感傷的になって帰宅したあの日の話し合いは、当然の如くすべてが海の主導のもとに決着した。
陸はとっとと反論することを放棄したが、かるたは案外頑固なところがあるようで、あの海に対して根気強くご辞退を申し上げ続けていた。
しかしまだまだ役者は海の方が何枚も上で、数時間後には海の運転で京都に向かい、大家さんへの挨拶やら引越し手配のための荷物の下見やらを済ませていたのだった。
ただ一緒に連れて行かれた陸は道の確認と駐禁対策で連れて行かれたようなもので、殆どを車の中で過ごしていたのだが。
夏行家の両親にはすでに海が話を通してあるので、それでもう構わないと海は言ったのだが、ここだけはかるたがどうしてもご挨拶をさせてほしいと譲らなかった。
とは言っても直接の対面が叶うわけではない。
陸たちの父親はバイオテクノロジーの研究員で、長年大手企業の研究室に勤める普通のサラリーマンだった。
それが陸が大学に入学してすぐに、宮崎県のある山間部の地域振興策に魅了され、引き止める会社を早期退職し自然が大好きな母親を伴い見事なフットワークで居を移してしまったのだ。
そんなこんなで夫妻は現在、宮崎県の中山間地域に期間未定で住みついていた。
そういう訳で、今回はフェイスタイムで挨拶を済ませ、後日、と言ってもいつになるかは分からないが帰宅した折にまた改めてという話で落ち着いた。
その日はかるたを京都におろし、物置きとなっている祖父母の部屋を片付けるために海と陸はまた大阪へ舞い戻った。
京都からの帰り道、海はかるたの両親が、かるたが十歳の時に事故で亡くなっていることを話した。
認知症を患っていた独り暮らしのお年寄りが車を運転し、対向車線に飛び出して正面衝突だったこと。
お年寄りに身寄りはなく、認知症を患っていることを誰も気付いていなかったこと。
三人共が即死だったこと。
「かるたちゃんな東京生まれやねん、標準語やろ。事故の後、叔父さんの家に引き取られて京都に来たらしいんやけどな、その叔父さんもなんか事情あって今は広島にいてはるらしいわ。かるたちゃんもその辺のことはあんまり話さんから詳しくは知らんねんけどな」
海はハンドルを指でトントンと鳴らして付け加えた。
「あんたも同じ家で暮らすんやし、一応教えとこうと思ってな。そやけど特に気とか使わんと普通にしといてあげて」
何か事情があるんだろうとは陸も思っていた。
でもそこまで辛い体験をしているようには全然見えなかった。
家の都合で寮に入れられて、親と確執がある世間知らずのお嬢様とか?などと考えた数時間前の自分が恥ずかしく、陸は唇を噛みしめた。
「俺…ある日いきなり家族が誰もおれへんようになるとか想像もでけへん」
「そんなん、あたしかってそうや」
普段はマシンガンのように喋りまくる海はそれ以上は話さず、静かに車を走らせていた。
引っ越し当日のかるたの荷物は陸の想像をはるかに超えた少なさだった。
最低限の家電は、かるたがリサイクルショップで買ったものだったが、それはどれもスクラップ置き場から盗んで来て店に並べたものではないかと疑うような代物ばかりだった。
家具と呼べるのは折りたたみ式のテーブルと小さな本棚、カラーボックスが2つに、あとは衣装ケースがいくつかくらいのもので、テレビすらない殺風景な部屋に陸は愕然とした。
「寮には備え付けの家具があったので、一度には色々と揃えられなくて…」
陸は恥ずかしそうに説明するかるたに、なんと言えばいいのか分からず、ただ
つい二日前に、かるたの境遇を聞かされたところでこの部屋の状態を見るのは精神的にかなりキツいものがあった。
引越し当日はどうしても仕事を休めない海は、前日かるたの部屋をこしらえるのに文字通り商店街やホームセンターを荷物持ちの陸と共に走り回った。
母親が使っていたベッドや物書きデスクなどを運び入れ、海の部屋で殆ど使われず埃をかぶっていた小型のテレビも設置し直した。
仕上げに可愛らしい既成のカーテンとセンターラグを敷くと女の子の部屋が出来上がった。
実際女の子の部屋など入ったことのない陸は、ドギマギしているのを海に気づかれないように必死で平静を装った。
不用品の処分を大家さんにお願いすると、残りの荷物は引越しと言うよりは長期の旅行に行く程度の量で、すべての荷物を積み込んでも車内にはまだ十分スペースがあった。
車には二人とも余裕で乗り込めたのだが「かるたちゃんを乗せて事故でも起こしたらえらいことやから!」との海の指令で荷物は陸が一人で運ぶことになり、かるたは最後の掃除を終え次第電車で来ることになった。
確かにそれが正解だっただろう。
ただでさえ運転慣れしていない陸は、交通量の少ない第二京阪高速の走行車線を制限速度を大幅に下回る速度で走り、何かの故障かと
違反ではないのですぐに放免となったものの、白バイ隊員には心配そうに何度も何度も大丈夫ですかと念を押された。そんな姿をかるたに見られていたら、それこそ本当に事故を起こしていたかもしれない。
そんな訳で、普通なら一時間と少しの道行きに二時間近くを要し、かるたが到着する直前にどうにかこうにか家に辿り着いたのだった。
自分の部屋を見たかるたは驚きの声をあげ、次にひたすら恐縮し、最後は陸の方が照れてしまうほど喜んだ。楽しそうに荷物をほどき始めたが、少ない荷物は海が帰宅する前にウォークインクローゼットの空間を大きく残した状態で片付いた。
と言っても、もちろん陸は「なにか足らんもんとかあったら遠慮なく言うてな」と言い残し、家に女の子と二人きりという異常事態の中リビングで一人ソワソワと落ち着かない時間を過ごしていたのだが。
夏行家の両親への挨拶も無事に終わり、母親は「こんな可愛い子と暮らせるんやったら大阪に帰ろかなぁ」などと言い出して父親を慌てさせた。
「引越しの日はソバを食べやんとあかんな」
そう言って海が、かるたを連れて行ったのは商店街を数分歩いたところにあるキリン飯店という小さな中華料理屋で、夏行家行きつけの店だった。
「引越し蕎麦って日本蕎麦のことやろ、ここやったらラーメンやん」
店の見かけはチープな感じだが味は本格的で、陸も特に不服はなかったが大阪人としては一応は突っ込むのが常となっていた。
「あんたなー、大学生にもなって中華ソバって日本語知らんのか?」
「いや、そーゆーこととちゃうやろ」
「嬉しい!私ラーメン大好きです。今日は寒いし食べたかったんです」
かるたが手を打って喜ぶ。
「そやろー!ほんまにかるたちゃんは、よう分かってるわー。今日みたいな日はラーメンと餃子とビールやで!こんばんはー」
海が店の扉を開けると平日なのにけっこうな客が入っていた。
「小籠包に麻婆豆腐もなっ!この店古くさいけどほんまに美味しいから」
陸が説明をしながらかるたを通し後に続いた。
「いらっしゃい海ちゃん!久しぶりやなぁ仕事忙しいんか?陸ちゃんっ古くさいてなんやの失礼やなー、あんたこの間な、」
幼い頃から顔馴染みの小ぶりのビヤ樽のような体型のおかみさんの口が突然止まった。
おかみさんの視線の先にはかるたがいる。
「ええー?ちょっとちょっとちょっとー!あんた陸ちゃん、えらいまたべっぴんさん連れてからどないしたん?えー?ちょっと待ってー、まさか陸ちゃんの彼女?いやぁちゃうな、それは無いっ!無いな!そやけどほんまに可愛らしなー芸能人みたいやなー、なんやオバちゃん緊張するわー」
おかみさんは大きな地声でまくし立てながらかるたに近寄り、両手をエプロンの脇でゴシゴシと何度もこすると「握手してもろてもええ?」と、かるたの前に丸い両手を差し出した。
かるたは、おかみさんの手を見つめたまま固まっている。
「鮮烈な大阪デビューやな、かるたちゃん」
海が大笑いして、陸も吹き出した。
店にいた客も一緒に笑っている。
外では雪がちらつき始めていた。
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