第25話 挑発
町橋内科診療所を後にして、誠とアリツィヤは門外に立つ。
小雨は降り続いていたが、二人は雨露に濡れることをいとわなかった。
外に出て誠が気づいたこと。それは、肌に感じられる異様な感覚。何者かに不可視の掌をそっと押し当てられ、己の生命活動を測られているような。……これは錯覚ではない。誠は、そう思った。
「何か、おかしいぞ」と、アリツィヤに告げる。
「……かなりの広範囲にわたる結界です。しかし、ベルクートが用いていた結界ほどの効果はありません。ただ周囲に認知されることを避け、私たちの存在を知るためだけのものだと思います」
答えたアリツィヤは、不可思議な呪文をすばやく唱え、誠の首筋の裏に触れた。
「…………!」
ぱしん、という、軽い感電のような衝撃が疾ったが、それはすみやかに収まる。
「大丈夫です。いま用いた術は、誠さんと私の魔力を共有するためのものです。……申し訳ありませんが、あなたの魔力を借り受けさせて下さい」
「俺に魔力なんか有るのか?」
「ええ。どのような人間にも魔力は存在し、その総量はほとんど変わりません。限られた魔力を、如何に巧みに用いるか。それが駆け引きの要となります」
「そうか。じゃあ、遠慮無く使ってくれよ。……そういえば、使いすぎたらどうなるんだ?」
「限界まで魔力を引き出すことは、精神の汚損、そして崩壊に繋がります。かなうならば、避けなければなりません」
妙に抽象的な言葉に、うそ寒さを覚える。
「……ごめん、前言撤回。ほどほどに使ってくれ」
「わかりました。……それでは、誠さんに行使してもらいたい魔術は、私が示してゆきます。私の心を、落ち着いてよく読んでください」
無茶を言う、と誠は思った。これまでの人生で、真に「戦い」と呼ぶべきものなどはなかった。かつて中学生のころに、クラスの不愉快な同級生との、拳を交えた諍いならば経験したことがある。だが、それは今ほどのプレッシャーを生みはしなかった。
だから、誠はこう答えた。
「……期待しないでくれよ」
そして、視界に「彼ら」の姿が入る。
夜闇のなかに浮かび上がる姿は、白い導師服に身を包んだ、敵と認識するにはひどく若い男女だ。
どちらも十四、十五の年頃に見える。
片割れの少年は、アリツィヤの姿を認めると、ひどく傲然とした笑みを浮かべた。
「……探したよ、完成者。ありとあらゆる追手を蹴散らして、よくもまあこんな所まで逃げ延びたものだね」
誠には聞き覚えのない言葉だったが、それを解するアリツィヤの知覚を受け取ることで、少年の発言は理解できた。だが、その嘲弄に満ちた言葉の響きだけは、そんな回り道をせずとも肌に伝わってくる。
少年の言葉に、アリツィヤは答える。
「……今はまだ、あなた方の手に落ちるわけにはいきません。退きなさい」
その通告は、だが、少年には何の感銘をも与えなかったようだ。
「ふん、君にはまだ、そう答えるだけの意志があるようだね。感心するよ。……ほとんどの完成者は、長い偽りの日々を生きるうちに、いつしか『なぜ自分はいま生きているのか?』という疑問を忘れてしまうものだ。君はそれを忘れていない。だが、今の君には、その貴い意志を具現させるだけの力はあるのかな。……ないのであれば、ここが君の生命の終わりだ」
と、少年はアリツィヤを指さしたのちに、その手の親指をゆっくりと大地に向けた。
無言のアリツィヤの表情が、すこし険しくなる。その表情に、少年は笑みでもって返し、言う。
「これ以上のつまらない前説はよしておこうか。君が何を言おうが、僕は君を討伐することを止めたりはしない。逆に、僕が何を言おうが、君は僕を退けようとするだろう。……ならば、会話などは無駄なことだ。無意味な一語一語に代わって、僕たちが交わすべきものは――これだろう」
その言葉とともに、少年の周囲に巨大な炎の柱が轟然とせり上がった。
「ただ、互いに名前を知っておくことは悪くない。……そうすれば、より鮮やかに殺意を顕すことができるからね。君の名前は既に知っている。『アリツィヤ』。いい響きだね。聞いた瞬間気に入ったよ。僕はルーカ・リナルディ。君を灼き滅ぼしに来た。そして……」
と、少年……ルーカは、自らの後方に佇立する少女を親指で差した。
ルーカと同じ、白い導師服をまとった少女は、何も言わない。
「キアラ・リナルディだ。僕たちふたりの手から逃れた魔術師は、まだいない」
ルーカとキアラ。二人の姿が、アリツィヤと誠の眼前に立ちふさがった。
アリツィヤはそんな二人を見据えたまま、言う。
「若く、力ある魔術師よ。あなた方を見くびるつもりはない。……ただ」
「ただ……何だ?」
ルーカが聞き返すと、アリツィヤは口許に靱い笑みを浮かべて、言った。
「そろそろ、あなた方は『引き際』というものを知るべきでしょう。それを学び損ねたなら、さらなる知識を得ることになる。――『敗北』というものを。いい機会です、ここでそれを学んだのちに、祖国に帰りなさい!」
それは、挑発だった。少なくとも、誠にはそうとしか聞こえなかった。
優しい婦人としてのアリツィヤは、戦いに臨むときには、このような苛烈な言葉も厭わない。
(……売り言葉に買い言葉、だな)
こういうところにはついていけないな、と誠は思った。
当然のように、少年は挑発を真に受けてしまう。
「……野良犬め! 生きながら、何度でも、何度でも灼き潰してやる……!」
ルーカは激昂し、それに伴って側面に展開している火柱はその勢いをいや増した。
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