第21話 イントッカービレ

 ――喫茶店「イントッカービレ」。


 住宅街のなかにぽつりと存在する、小さな店だ。『触れてはならぬもの』という、すこし昏さを漂わせる名の通り、店内は薄暗く、ごく抑えたボリュームでイタリア・オペラの佳曲が流れている。


「それじゃ、すこし休憩だね」


 窓際の席に着く。誠の好みでいえば、喫茶店に入るにしても、駅前通りのチェーン店に入るほうが気が楽だった。飲食物にしても、基本的に出されたものは全て有り難く頂くのが信条であり、味覚についてどうこう言うような嗜好の偏りはないのだから。しかし、これから話すべき事は、そういった明るい店の喧噪に掻き消されては困るものだ。


(……とはいっても、ここは親父に連れてきてもらった事があるだけなんだけどな)


 馴染みのない店内とはいえ、アリツィヤの前でそわそわする事だけは避けたかった。


 件のアリツィヤは、静かに周囲の調度品を眺めている。瀟洒しょうしゃな舶来小物が、素人目にみてもセンスよく並べてある。そのうちのどれかが、アリツィヤの興味を惹いたのかもしれない。


「――ご注文はいかがいたしましょうか」


 アルバイトと思われる女性店員が、誠とアリツィヤの席に近づいてきた。端正な制服を着た、誠よりもいくぶん年上に見える女性だ。


「あ、俺は……アメリカン。アリツィヤは?」


「私はプラムティーをお願いします」


 注文を受けると、店員はカウンターの奥に佇むマスターに近づいていった。


「……今日は、どうもありがとうございました」


 誠がアリツィヤに向き直ったときに、アリツィヤは改めてそう告げた。


「いや、俺がついてきたいから来ただけだから。一緒に映画を見れたし、こうしてお茶も飲める。いい土曜日になったよ」


「ええ」


 それから、注文した飲み物が届くまで、誠はアリツィヤと映画の話をした。

 だが、さして時間もかからずに配膳されたコーヒーと茶の香気が、しずかに会話に幕を下ろした。

 誠は、目の前でプラムティーの香りを楽しむアリツィヤに訊いた。


「プラムティー、好きなの?」


 その質問に、アリツィヤは微笑みとともに答えた。

「ええ。プラムは、私の祖国の特産物でした。今は帰ることはできませんが、この香りが、あの国を思い出させてくれます……」

 しずかに目を閉じて、アリツィヤはカップからたちのぼる湯気に唇を触れさせる。はるか遠く隔たった故郷を、彼女は想っているのだろうか。

 その仕草はとても優美だった。だが、どこか寂しそうだ……とも、誠は思った。


 ――アリツィヤの過去。今日は、それを訊かなければならなかった。

 意を決し、誠は口を開く。


「……アリツィヤ、今日はね、いろいろと訊きたいことがあるんだ」


 アリツィヤは、全てを承知したかのように、頷いた。


「……ええ。私も、誠さんに話しておかなければいけないことがあります」


 ――ここ数日で立て続けに起こった出来事は、はっきりと『有り得ないこと』の範疇に入るだろう。それを、ひとつひとつ解き明かしていかなければならない。


「まず、最初に。……以前、アリツィヤは魔術師で、さっき遭ったあの男……ベルクートに追われてる、って言ってたね」


「はい。彼は、『賢人会議』という組織に属する、聖句術師……『神』に祈りを捧げて、力を得る魔術師です。賢人会議の目的のひとつは、過去の知識を備えた魔術師を捕獲して、その知識を手に入れることです。捕らえるのが難しいか、あるいは知識に価値がない場合は、抹殺することもありえます」


「ずいぶんと粗暴な集団だな。そうまでして、他の魔術師を狩る理由って?」


「それは……私たちが、彼らの倫理に反しているから。私たちは、彼らに『完成者』と呼ばれています。その名の所以は、……私たちが、不老をもたらす生命の秘術の、成果だからです」


「不老ってことは、歳を取らないのか?」


 誠の手にしているコーヒーカップの水面が、揺らいだ。不老。だとしたら……。


「ええ。私は、およそ五百年ほども前に、東欧の小さな国に生を享けました。騎士の娘として生まれ、魔術を修め、そして宮中に魔術師として勤めることになりました。そして、国王の命により、私は不老の者へと……変わったのです」


 ――変わる。その言葉を、アリツィヤはひどく忌避するかのように呟いた。ただの人が『完成者』へと『変わる』ためには、どのような手続きが必要となるのか。だが、今はそこまで問いつめてしまいたくはない、と思った。

 できることなら、話題を変えたい。


「……それから、他にも訊きたいことがあるんだ。アリツィヤは『ロートラウト』という人物のことを知ってるかな?」


「ええ。よく知っています」


「その人物は、俺に……『アリツィヤを守れ』と言ってきた。そうすれば、いま起こっている出来事について、教えてくれる、と。その人がどんな人なのかは分からない。ただ、その人は――」


 その次の言葉は、既に心の内には浮かんでいた。だが、この期に及んでさえ、その言葉を口に出したくはなかった。

 だが、口ごもる誠の言葉を継ぐように、アリツィヤは言った。


「……そうです。ロートラウトは、私の『生贄』でした」


 ――生贄。改めてアリツィヤの口から聞いたとしても、やはりその言葉は禍々しかった。


「……そうだったんだ。でも、それならなぜ、ロートラウトはアリツィヤのことを守れと言ったんだろう」


「ロートラウトの魂は……私と共にあります。私が消滅すれば、ロートラウトもまた滅びる。彼女もまた、あなたに伝えたいことがある筈です。それゆえに、いま滅びることを拒否しているのでしょう」


「彼女? ロートラウトは女性なのか?」


「はい。彼女は、私の祖国にとっての敵国の人間でした。私の生贄たる資格があったために、捕らえられ、儀式に供されたのです」


「…………」


 まるで、映画のような話だった。しかも、ホラー映画の筋書きで、さしずめアリツィヤは悪役、ロートラウトは犠牲者といったところか。だが、過日のできごとを語るアリツィヤの面持ちはひどく痛ましかった。また、このことを語っていたロートラウトの口調は、ひどく淡々としたものだったことも覚えている。


 誠はアリツィヤに訊いた。


「アリツィヤ。……俺は、ロートラウトのことを全く知らないんだ。どうにかして、ロートラウトを交えて話をすることはできないかな」


「大丈夫です。彼女は、ここでの会話を訊いていますし、私も、ロートラウトの話した言葉は、すべて知っています。……そうでしょう? ロートラウト」


 アリツィヤは、そう虚空に呼びかける。


返事はない。


「ロートラウトと私は、感覚や知識を共有しています。彼女は騎士であったから、私は彼女の剣術をいくらか再現することもできます。逆に、彼女もまた、私の魔術・聖句術に対する理解を得ていることでしょう」


「なるほどね」その言葉によって脳裏に呼び出された映像は、アリツィヤとベルクートが争っていたときの光景だ。短剣を構えたベルクートと、大剣を掲げるアリツィヤ。確かに「らしくない」武器だな……思いながら、誠はまだ熱いコーヒーに口を付けた。


「それで、アリツィヤはこれからどうするの?」


 単純な質問だった。だが、誠にとっては、これが最も重要な疑問だ。

 アリツィヤは、何を求めて、ここまで辿り着いたのか。

 彼女はけして辛さや寂しさを口にすることはない。だけど、とても大事な、色々なものを捨て、諦めなければ、このような旅程は成立しないし、数多の敵と戦い続けることもできなかっただろう。


 誠はしずかに返答を待った。


「…………」


 しばし口ごもっていたが、やがてアリツィヤは答えた。


「……私の目的。それは、私の『王』に見えることです」


 至極、単純な解答。


「王……。アリツィヤにとっての王様なのかい?」


「ええ。かつて私が宮中に在った時の君主です」


「そうか。でも、その人の命令で、アリツィヤは……今、こうして此処にいるんだろう?」


「……はい。王の力となるために、私はこの生命を……得たのです」


 ――自己犠牲、とでも言うべきか。だが、そこに字義通りの気高さは感じられない。


(……それじゃ、ただの盲従じゃないか……)


 そうとしか思えなかった。だが、辛そうに語るアリツィヤにあえて問いただしたとして、それが何になるのだろうか。

――訊きたい。が、傷つけたくない。躊躇いという天秤の両端には、そんな矛盾した感情が架けられている。


「それじゃあ、その『王』は、このあたりにいるのかい?」


「……『王』は、ご自身もまた、すぐれた魔術師でした。かれの求めた魔術は、私の生命の秘密と同様に、現代の魔術師達が『禁忌』とするものです。――それは、『異界』への門を開くための力。その力により、かの方は、時を同じくして、様々な場所に存在することができるのです。故に……いかに現代の魔術師達が追いすがろうとも、かの方を掌中に捕らえることは不可能なのです」


「要は、この世界のどこにでも、『王』は存在できるって事かい?」


「可能です」


 いわゆる「テレポーテーション」のようなものか、と、既存の概念から類推するしかなかった。


「異界への門を開き、そこを自在に通行する……か。確かに凄い力だと思う。アリツィヤには、その力はないのかい?」


「私にはありません。知る限りでは、現存する『完成者』のうち、その能力を持っていると思われる者は、わずかに二人だけです。そのうち『王』はいま話したとおりで、もう一人はどこかに……おそらく異界に隠遁しているようです。だから、この世界において異界を識る者は、事実上『王』のみなのです」


「なるほどね」


 常世からは手出しの出来ない筈の世界、か……と心の中で呟きつつ、誠はコーヒーカップの中を見つめる。立ちのぼる香りは、ふだん飲み慣れているコーヒーに比べたら、多少は違うような気がした。

 しかし、それに思いを馳せる暇もないくらいに、アリツィヤの語る話は耳慣れない単語に満ちていた。


 すこし、会話が途切れる。

 室内のどこかにあるスピーカからは、しっとりとした男声楽曲が流れている。

 どこか哀切を感じさせる歌声に耳を傾けるだけの余裕が、はからずも生まれていた。


(……味気ない会話だな)


 こんな尋問じみたやりとりなど、望んではいなかった。

 できるならば、そういった疑問をすべて先送りにして、ただアリツィヤの笑顔だけを見られたなら。そのための努力ならば、なんの気後れもすることなくできたことだろう。

 だけど。そうやって得た淡い幸福が、ひどく脆いものであることは分かっていた。自分自身の力だけでは、アリツィヤの抱えた秘密になんの介入もできないことなど、分かり切っている。


(……それじゃ、だめなんだ)


 せめて、今から起こるであろう出来事に、納得していくための、……そして、できうるならば、「これから」に変化をもたらすだけの力が欲しかった。

 しかし、つい漏らしてしまったのは、こんな言葉だった。


「――アリツィヤ、今日は嫌なことばっかり訊いて、ごめん」


 すこし長い沈黙を破った言葉は、そんなつまらない謝罪。


 本当は、もっと楽しい話をしたかった。確かに俺はそんなに面白くない奴だけど、アリツィヤに喜んでもらえるのなら、なけなしの冗談を絞り出したって良かった。

そう思いながら、カップの取っ手をつまむ。家で淹れたものよりもずっと美味いはずのコーヒーの味も、今はまったく分からなかった。


 アリツィヤも、すこしほろ苦い表情を浮かべながら、プラムティーをひとくち飲んだ。


「……いいえ。私こそ、誠さんの優しさに甘えて、伝えるべきことを伝えないまま、今日まで過ごしてしまいました。そのことを、まずはお詫びすべきでした。……ごめんなさい」


「いや、いいんだ。――それでは、最後にふたつだけ、教えてほしい」


 カップを置いて、誠はアリツィヤの紅い瞳を一度だけ見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る