彷徨のアリツィヤ

谷口 由紀

第1話 アリツィヤ

 ――深夜の街並みが、歪み始めていた。



 街灯が放つ青白い光が、狂気を誘うような暗く淀んだ色合いで大地を染める。


 空は広がりを急速に失い、異様な密度をもって空間を圧迫する。


 遠景は闇の中に埋没し、不規則なうねりと化して外界とのつながりを絶つ。


 内界の異物をおし包むような、圧倒的な断絶。


 それは、まるで。



「……結界、か……」



 アリツィヤは呟いた。


 そのかぼそい声がひとすじ漏れ出ただけで、それに倍する量の鮮血が唇から噴き出し、白く細い首筋を赤く濡らした。


 だが、それすらも些細な事に思えるほどに、彼女は深手を負っていた。


 異様な空間のなかにひとり倒れ伏す彼女は、十数本もの槍や剣によってむごたらしく貫かれ、苦痛にあえいでいる。


 その細い身体に余るほど突き立てられた武器は、そのどれもが実体をもたない霊光によって形成されていた。形状や長さはまったく統一されていなかったが、強い輝きのなかに陰影のように浮かびあがる文様は、異様な力感をたたえていた。



 文様を構成する陰の一筋ひとすじが生物のように脈打ち、そのたびにアリツィヤの身体が痛みによって跳ね上がる。



「……う、ああ、っぐ……」



 その突き立てられた霊光が、文様の脈動に連動してアリツィヤの身体を灼き、破壊してゆく。


 アリツィヤは、倒れた身体をわずかでも前に進ませようと、両腕で地をかき、身をよじらせる。

 

 その顔は苦痛に歪み、もとは清らかであったはずの白い頬と金髪は、土埃と泥、そして血液によって汚れきっていた。

 

 ずたずたになった衣服に包まれた肉体もまた、崩壊する寸前だ。


 しかし、それでもなお、彼女は立ち上がろうとした。


 四肢に力をこめ、背筋を天に伸ばそうとする。が、それは果たされず、アリツィヤの身体は、自らが流した体液の泉にびちゃりと倒れ込んだ。



「……苦しいか、『完成者』よ」



 激痛に身をよじるアリツィヤに、そう声をかける者がいた。


 彼女から20メートルほども離れた所に傲然と立つ、男だ。


 彼は、幾本かの短剣を手挟んだ両手を下げたまま、まっすぐにアリツィヤを見据えていた。


「……ここまでに、貴様は数十人にも達する魔術師を退けてきた。これほど多くの魔術師を相手どり、生き残った者は、歴代の魔術師にもそうはいまい。貴様と戦えること、その天の配剤に感謝する」



 その言葉に、アリツィヤは苦しみをこらえながらわずかに笑みを浮かべ、言った。


「……私の魔力ももはや尽きつつある。この苦しみも耐えがたいもの。あるいは、この戦いこそが私の終焉の時なのかもしれない。しかし、今ここで貴方に殺されるわけにはいかない。……邪魔はさせない、『ベルクート』。敵は、退ける」



 その言葉に、ベルクートと呼ばれた男は、ひととき口の端に淡い微笑を浮かべた。が、その笑みはすぐに捨て去った。



「勇ましいな、完成者。……ここまでに、貴様はよく戦った。だが、すこしばかり血を流しすぎたようだな。俺としても、貴様のまことの力と対峙したいとは思っていた。だが、貴様を仕留めることこそが俺の使命。なればこそ、全力で戦おう」


「その言、忘れないことね。……それならば、かかってきなさい」



 アリツィヤの言葉は、まさしく虚言のようだった。


 傷つき倒れ伏し、呼吸することすら困難に思えるような様子での大言壮語。


 しかし、ベルクートはそれを嗤わなかった。


 短剣を構えた腕を左右に構え、ゆっくりとアリツィヤに近づいてゆく。



 隙はない。



 一歩、一歩。その歩みとともに、かれは異様な言葉による詠唱を行う。



「       」



 古代の聖句使いたちが生み出した、神と話すための言葉。


 ひとの耳ではなく、より偉大な「者」に願いを届けるためだけの言葉だ。


 その言葉を、アリツィヤはたしかに捕らえていた。


(……祈り、こいねがうための言葉。あの男がいま具現させる力は……)




 ――やはり、結界だった。




 アリツィヤの周囲のすべてが、さらなる歪みを見せる。


 大気はその密度を不規則に変え、音や光の伝達を狂わせた。


 重力や、熱すらも狂い、肉体に過負荷と破壊をもたらす。


 激変する環境によって、敵対者の全能力を低下させる領域を作る能力。


 これが、目の前にいる敵手の力だった。




「二度目の大世紀末を経て、かくも恐るべき能力に出会えるとは。……長生きは、してみるものね」


 その言葉に、ベルクートは答える。


「この結界。……わが氏族が、千年の時をかけて磨き上げ、子孫へと引き継がせた秘蹟だ。修行の足らん魔術師どもが用いるような、身を守るための結界ではない。貴様ら『完成者』のごとき強大な魔術師を取り込み、その力を殺ぐことを主眼としたものだ。ゆえに、われらはこう名付けた」



 アリツィヤの敵手は、短剣を投擲するための構えをとりながら、言った。



「――『狩猟場ハンティング・グラウンド』」、と。




 その言葉とともに、ベルクートの手にしている短剣が急速に霊光を帯び始める。


 すべてが歪んだ閉鎖空間の中で、その清冽な光は、まるで奇跡のような美しさを備えていた。


 放たれる光は、葉脈のように複雑な文様を、ほんの一瞬だけ短剣の周りに描いたが、すみやかに収束してゆき、光の長剣をかたちづくった。



 アリツィヤの身体を貫いているのと同じものだ。



 形成されたかりそめの聖剣は、片手ごとに三本ずつ。


 常人であれば、ただ一本による刺傷でさえ耐えることはできない。輝く刃より漏れ出る霊光は、ひとの心身を一瞬にして破滅させる力を持つ。


 その全てをいちどきに投擲し、敵手を仕留めるのがベルクートのやり方だ。


 かれに対峙するアリツィヤは、幾多もの槍と剣に貫かれた身体を、ふたたび奮い立たせた。



「一度に六本……。私を黙らせるのに、それだけで足るかしら?」


 そう告げながら、残された魔力をふりしぼり肉体の賦活を試みる。



 損傷した箇所を復旧し、失われた体液等を、魔力によって構成した代替物によって一時的におぎなう。


 『急速賦活』。


 肉体の自己回復力を補助する通常の回復術とは異なり、人体そのものを再構築する、危険な術だ。その膨大な魔力の消費に、アリツィヤは耐えきった。


 同時に、自身の肉体を介して、打ち込まれた聖剣に宿る魔力を解呪する。


 が、解呪という言葉が暗示するような精妙さはどこにもない。


 きわめて強引に。魔力をもって、魔力を打ち消す。


 その強引な干渉により、聖剣の刀身は、まるで破裂するようにして消滅した。


 刀身の消滅によって、さらに創傷が悪化するも、アリツィヤはそれすらも瞬時に処置してしまう。



 その手際を見て、ベルクートは感嘆をこめて言った。


「肉体の再構築か。……秘蹟だ。いまそれが扱える者はそうはいまい。下手を打てば、肉体の変化を制御できずに『増殖する肉塊』と化す、危険きわまりない禁術だからな。よしんば成功したとしても、魔力消費に耐えられなければ、肉体にやどる基幹魔力を根こそぎ持っていかれてしまう」


「……失敗は、たしかに怖ろしい。だけど他に道はない。そして、私は成功した」


「博打か」


「博打を打たずには貴方には勝てない。ここに至るまでの戦いで受けた傷は、存外に大きかった」


「……傷は、完全に癒えたのか?」


「それは、これから分かること」


 ベルクートは、唇をかたく引き結んだ。


 かれの握る六本の聖剣が、ひときわ強く輝く。


 ……光の刃にこめられた戦意のたかまりを示すように。




 アリツィヤは、足下に散らばるベルクートの短剣を一本だけ拾った。


 その短剣は、先ほどまで己の身体を貫いていた聖剣の核だ。


 光の刃が消えてしまえば、それはただの、儀礼用の小振りな短剣にすぎなかった。


 短い柄を握りしめ、アリツィヤは刀身を直下に向けた。


「……よく魔力を映す短剣だ」


 その呟きののちに、アリツィヤは詠唱をはじめた。

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