第19話 言問橋の手招き

 昭和27年3月の末。

 焼け残った上野の山の桜も、空襲で燃えてしまった隅田川の土手の若草も、眩しい程にぐんぐん伸びて、一雨ごとに洗われて輝きを増している。

 和子の守る下宿の食卓にも、春の野菜が加わるようになった。

 タケノコやエンドウ豆、野蒜に蕗。

 戦争が終わり、新鮮な『味わい楽しむためのもの』として、食べ物が出回るようになったのだ。

 魚も千葉や羽田の漁村から行商人が売りに来る。

 春の鯛、とはいかないが、バケツや桶の中でキュンキュンと水管を出して潮水を吹くアサリ、銀色の細身の姿が美しいサヨリ、アナゴ等がおばちゃんやおじちゃんの引く大八車の荷台に並ぶ。


「アサリの身の入りは良いかしら。この前のは殻の大きさの割に、いまひとつ小ぶりだったのよ」


 デパートの仕事は交代制で休みなので、春物の薄いセーターに割烹着をまとった和子は、行平鍋を手に買いに出た。

 通りの傍に大八車をとめ、むしろを敷いて魚の桶を並べた行商人夫婦は大声で笑った。


「おや奥さん、そいつは申し訳なかったねえ。貝類は剝いてみないとわからないところがあってねえ」

「今日のは間違いない。中身がムチムチみっしり入ってるよ。入ってなかったら次にたっぷりおまけしたげるから」

「今日はおまけしてくれないの?」


 笑いながらアサリを手桶ですくい、和子の鍋に入れてくれた魚屋は、おかみさんに黙って二杯分入れてくれた。


「奥さん美人だから余計に入れといたよ。ほんのちょっとだけどね」


 ちょっとという量ではないのだが、魚屋はこわごわとおかみさんに目を走らせ、早く行ってくれと目で訴える。


 アサリの鍋を下げて戻ると、玄関に山川の姿があった。

 きちんと皺の伸びたシャツにスラックス、上着を着て鞄を持ち、古いが磨かれた靴を履いて、これから出かけようとしている。


「あら山川さん、おしゃれしてお出かけですか?」

「はい。ちょっと……」

「御夕飯は どうします?」

「まだ考えていないのですが……わかりません」


 春の光の中で、少しは明るい顔に見えた山川は、またすぐに暗い目に戻った。


「せっかくちゃんとした背広を着てお出かけなんですから、帰りにお花見にでも行かれるといいですよ。上野の山も咲いているって近所の人が」

「ありがとうございます。でも僕は花見には行けないんで……」


 和子の声を遮るように山川は呟き、門を開けて出て行った。


「仕事の面接か、学校の手続きかしらねえ」


 和子は台所の椅子に腰かけ、洗って干しておいたかぼちゃの種をハサミでパチンパチンと切った。

小さな種の周りにぐるりと切れ込みを入れるのは手間だが、こうするとぱかっと綺麗に殻がむける。

 そうして中の仁をほうろく鍋で煎れば、軽食として食べられるのだ。

 頑張って両立させてはいるが、事務仕事の傍らの下宿屋の管理もそろそろきつくなってきた。

 住人も一人しかいない事だし、どちらかを専業と決めなければ。

 自分に好意を示してくれる男のことを思い出しながら、ぼんやりとカボチャの種を剝いていると、流しの屋根を打つ雨の音が耳に届いた。

 春の驟雨だ。


「あの子、いつも窓を閉め忘れているけど、どうかしら……」


 和子は慌てて二階へ駆け上がった。

 先ほど出かけた山川の部屋は、案の定窓が開けっ放しで、窓枠から座卓、物入れのある壁際まで雨風が入り込み、ぐっしょりと濡れている。

 和子は濡れた畳で足を滑らせながら進み、窓をぴしゃりと閉めた。

 ふと傷だらけの座卓の上を見ると、表に『大家さんへ』と書かれた茶封筒が置いてある。

 濡れてぶよぶよになってしまっているが、さては自分宛ではないのか。

 なんだろう。部屋代も滞納せず納めてもらっているし、食事その他への不満も寄せられたことはないのだが……

 ふやけてしまった封筒を開け、便箋のにじんだ文字を一読し、和子は顔色を変えた。


 随分と日が長くなった。

 久々に外に出て、橋の上から夕陽を眺めているとしみじみと思う。

 春の陽は輪郭が柔らかい。

 光の線が淡く溶けるようで、冬のきっぱりとした鋭い光と影の境や、夏の逃げ場のない強烈さに比べると、まだどことなく、困った笑みを浮かべてこちらを見下ろしているような曖昧な優しさがある。

 そういえば自分が帰還したばかりの故郷を去ったのは、7年前の夏の終わりだった。

 その時は汗と埃にまみれた軍服のまま、人目を避けるように山の道を駆け抜け、けもの道を踏み分けながら県境を越え、知らない土地の温泉町まで走った。

 そこから自分の、人目を避けた逃亡生活が始まったのだ。

 言問橋の橋の上で、黒ずんだ手すりに腕をかけてもたれかかりながら、山川こと平田成典はじっと川の流れを見ていた。

 ぽつぽつと降り出した雨が手すりを濡らし、固く握った手をつるりと滑らせる。

 そうしてくるりと、鉄棒の前回りのように体を預けて前に乗り出せば、もうそのまま高い橋から隅田川に落ちる事が出来る。


「だけど、やっと戦争も終わったんだよ」

「いよいよ本当に、戦争は終わったんだよ」


 雨の中を、下駄を履き破れ傘を刺した子供たちが、訳知り大人のような口調で通り過ぎて行った。

 どういうつもりで叫んでいたのかはわからないが、彼らも家族や身内が帰らぬ人になったのだろうか。

 それとも自分のように、本当の家に帰りたくとも帰れないでいるのだろうか。

 戦災孤児になり、施設や他所の家に送られている子供も多いと聞く。

 その子達に比べて、自分は地獄そのものの戦争を生き残り帰ってきたのに、どうしてこうも死んで楽になる魅力に惹かれているのだろう。

 少しずつ、山川こと平田の体は前のめりになって、橋の手すりの外にはみ出していった。

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