第二章:世界を救った男 の真実

 彼がこの世界に転生してから、早や五年の歳月が流れていた。青年の名は、シン。それが、この世界とは異なることわりを持つ世界から魂のみが転生し、新たな肉体を得た彼の名だった。


 シンは、この世界に古くから巣食い、人々に絶望と恐怖を振りまいていた驚異――魔王――を討ち倒すという、ただ一つの目的のために、王国の秘術によってこの世界に召喚された存在だった。


 そして彼は、召喚時に与えられた仲間たち――剣の達人、賢者、そして彼に密かな想いを寄せる魔術師の少女フレイヤ――と共に、幾多の困難を乗り越え、ついに魔王を討滅した。


 長きにわたり、血と涙と憎悪の歴史を刻み続けていた人族と魔族との人魔大戦は、ここに終止符を打たれたのだ。一つの世界が、確かに救われた瞬間だった。



 ◇ ◇ ◇

 王都は歓喜に沸いていた。シンは凱旋し、彼を称える祝賀会の喧騒の真っ只中にいた。

 街の通りという通りには色とりどりの旗がはためき、吟遊詩人たちは英雄の武勇伝を高らかに歌い上げ、子供たちはシンの名を呼びながら駆け回っていた。誰もが笑顔で、未来への希望に胸を膨らませていた。

「シンさま、あなたのおかげで、本当に……この世界は救われました。感謝してもしきれません」

 そう言ってシンに熱い視線を送るのは、フレイヤ。彼女は、シンをこの世界に召喚した大魔術師の一人娘であり、旅を通じてシンと共に幾多の死線を越えてきた仲間だった。そして、その胸には、英雄に対する尊敬以上の、密やかな恋心を抱いていた。彼女の瞳は潤み、頬は興奮で上気している。

 シンは、その言葉に、ただ曖昧に微笑み返し、差し出された祝杯に口をつけた。その表情には、偉業を成し遂げた者の高揚感も、安堵の色も薄かった。

「シンさまは、これほどの偉業を成し遂げられたというのに、いつもと少しもお変わりありませんね。本当に、謙虚でいらっしゃる……」

 フレイヤはそう言って微笑むが、その実、シンの纏う雰囲気にはどこか違和感を覚えていた。

 どことなく憂いを帯びた瞳、時折見せる遠くを見つめるような儚げな表情。

 シンのその表情は、とてもではないが、何かを成し遂げた者のソレではなかった。まるで、これから何か重い使命を果たそうとしているかのような、あるいは、全てを諦観した者のような、そんな静けさを湛えていた。



  *   *  *



 世界に終焉をもたらすと恐れられた存在、魔王を討伐した『転生者』シン。そのシンを祝福し、人族の輝かしい勝利を祝うために、王都の中央広場は、昼夜を問わずお祭り騒ぎが続いていた。屋台が軒を連ね、酒が振る舞われ、人々は歌い踊っていた。


 シンは、フレイヤの称賛の言葉にも、周囲の喧騒にも、心から応えることはなかった。ただ、時折フレイヤにだけ、優しげな、しかしどこか読み取れない深淵を隠したような眼差しを向けるだけだった。



 シンは、この世界の存在ではない。

 この世界の理から外れた、異邦人。



 この世界の危機に際し、古の契約と呪術師たちの血と魂を代償とした転生魔法によって、無理やりこの世界に召喚された存在なのである。彼にとって、この世界は仮初めの舞台に過ぎなかったのかもしれない。


 祭りの喧騒の中、ふと、シンのもとに一人の見知らぬ少女が駆け寄ってきた。年の頃は十歳にも満たないだろうか。少しはにかんだような顔で、少女はその背中に何かを隠し持っているようだった。


「どうしたのかな、お嬢さん」


 シンは、その小さな少女に、意識して優しい声音で問いかける。


「あ、あの……勇者のおにーちゃん。世界を救ってくれて、ありがとう。これ、わたしの作ったお守り。あげる!」


 少女はそう言うと、隠していた白い花々で作られた素朴な花かんむりを、シンに差

し出した。そして、シンがそれを受け取るのを見ると、嬉しそうに顔を輝かせ、母親らしき女性が待つ方へと駆けていった。



 シンは、その花かんむりを手に取り、しばし愛おしむように見つめた。そして、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、誰に言うとでもなく、シンは静かに呟いた。


「ボクはね。昔から、積木くずしが好きなんだ」


 その言葉は、祭りの喧騒にかき消されそうなほど小さかったが、すぐそばにいたフレイヤの耳には、はっきりと届いていた。


「……積み木くずし、ですか? それがどうかしたのですか?」


 フレイヤは不思議そうに問い返す。


「そう。高く、高く、時間をかけて丁寧に積み上げた積み木を、あと少しで完成するというその瞬間に、自分の手で、一気に壊すんだ」


 シンは、花かんむりを愛でながら、うっとりとした表情で続ける。


「あの瞬間の高揚感、全てが無に帰る時の美しさ。これほどの娯楽を、ボクは他に知らない」


「シンさまが……そのような、変わった趣味をお持ちとは知りませんでしたわ……。でも、それが一体……えっ?」


 フレイヤの言葉は、途中で驚愕の息遣いに変わった。彼女の腹部に、ブスリと、何か冷たく硬いものが突き刺さる感触。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。



 やがて、その冷たさは、内側から燃えるような激しい熱へと変わっていった。彼女の目の前には、シンが立っていた。その手には、かつて魔王を貫いたと言われる、この世界の最強と謳われる聖剣デュランダルが握られていた。



 そしてその剣先は、今、紛れもなくフレイヤの腹を深々と刺し貫いていたのだ。純白のドレスが、急速に赤黒く染まっていく。



「……ま、さか……。魔王の、精神干渉……? それとも、憑依、なの……っ……」



 フレイヤは、信じられない光景を前に、かろうじて言葉を絞り出す。激痛と混乱で、意識が遠のきそうになる。



「違う、違うよ、フレイヤ。ボクは、キミのよく知っている、善良な勇者シンだよ」



 シンは、まるで悪戯が成功した子供のような、無邪気で残酷な笑みを浮かべている。



「うっ……そ、そんなの……ウソよ……。だって、あなたは……世界を……」



 フレイヤの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。



「ボクがこの世界に召喚された目的は、ただ一つ。『魔王の討伐』。ボクはね……キチンと、その契約を履行した。義務は、完全に果たしたんだ。だから、あとは何をしても良い。……そうだよね?」



 シンは、フレイヤの顔を覗き込むようにして、優しく語りかける。しかし、その瞳の奥には、底知れない狂気が宿っていた。フレイヤは、もはや何も答えることができない。



 ――否。喉の奥から込み上げてくる血の塊が、言葉を発することを許さないのだ。シンは、そんな彼女の様子をまるで気にもしないかのように、言葉を続ける。



「契約は、確かに果たした。ボクがこの世界に転生させられた唯一の理由は、魔王の討伐……それは、このボクが、完璧に成し遂げた……。つまり、今のボクを縛り付け、拘束するモノは、この世界にはもう、ナニもないってことなんだよ」



 フレイヤの体から力が抜け、彼女は、シンの目の前で、まるで壊れた人形のようにドサリと崩れ落ちた。薄れゆく意識の中で、彼女はシンの足元に転がった花かんむりを見た。白い花が、彼女の流した血で赤く染まっていく。



 しばらくすると、この広場の喧騒の中でも、この異常事態に幾人かの人間が気がつき始めた。目の前の信じがたい光景――英雄が、その仲間を刺したという光景――に、周囲は次第にザワツキはじめる。歓声は悲鳴へと変わりつつあった。



 シンは、そんな周囲の変化など意にも介さず、先ほどの少女からもらった、血に濡れた花かんむりを拾い上げ、自らの頭に乗せた。



 そして、〈この世界〉では、誰にも一度も見せたことのない、心の底からの満面の笑みを浮かべ、小さく、しかしはっきりと呟いた。



「さあ。はじめようか。ここからが――ボクの、本編のはじまりだ」



 その言葉と共に、シンの体から禍々しいオーラが立ち昇り、空は急速に暗雲に覆われ始めた。王都に、新たな絶望の鐘が鳴り響こうとしていた。

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