第2話 高町遥の受難②
背後には巨大な黒い狼が追ってきている。
「ぼ、僕が何をしたって言うんだ……っ」
遥の嘆きに対して答える声はなかった。
通学路の並木道には人っ子ひとりいない。
街路樹の連なりの間には黒い靄のような闇が漂い、この世ならざる景色になっていた。
ずっと走り続けているから息が切れ、呼吸もままならない。
だが少しでも気を抜くと、
「……っ!」
狼がここぞとばかりに襲い掛かってくる。
巨体が一瞬で迫ってきて、近くにあった花壇の柵を押し潰した。
遥はぎりぎりで飛び退いていたが、煉瓦の柵は巨大な牙によって砕かれてしまった。
あんなものが自分に降りかかってきたらと思うと、冷や汗が流れる。
悲鳴を押し殺し、足を必死に動かした。
狼は煉瓦を噛み砕き、また追ってくる。
一体、どこまで逃げればいいのだろう。
果てのない闇のなか、絶望が胸を締めつける。
すると、ふいに右手のなかに熱を感じた。
「な、なんだ……っ?」
右手にはずっと組紐を握っている。
先ほど切れてしまったのだが、地面に落ちる前にとっさに掴んでいたのだ。
手のひらを開く。
すると組紐が淡く光を帯びていた。
同時に頭のなかに誰かの声が聞こえてきた。
「『……神社です。神社へ向かって下さい……』」
「は!? え、なに……誰っ!?」
「『……説明をしている暇はございません。近くに小さな神社があるはずです。そこへ向かって下さい』」
「た、確かに並木道のそばに神社はあったけど……っ」
「『悪しきあやかしは神聖な場所を嫌います。神社の敷地までいけば、あなたを追っているものは入ってこないはずです』」
この声が誰なのかはわからない。信じていいものかどうかも判断がつかない。
でもこのままでは間違いなく狼に食べられてしまう。信じる以外の選択肢はなかった。
「だ、誰だか知らないけど、嘘だったら化けて出てやるからな……っ!?」
思い切って方向転換。
街路樹の間へ飛び込み、道路へ出た。
組紐の光はいつの間にか消え、声ももう聞こえなくなっていた。
でも気にしてはいられない。
狼が街路樹を薙ぎ倒しながら迫ってきている。
「神社は……あっちか!」
交差点に出て、記憶を頼りに方向を決めた。
普段は往来の激しい交差点なのに、やはり一台の車も通っていない。
おかげで車道を突っ切ることができた。
すぐ背後に狼の気配を感じながら、建物の間へ入っていく。
この先に小さな神社があったはずだ。
角を曲がった先に鳥居が見えた。
同時に背後で禍々しい声がする。
「……マテ……マテ……ッ!」
黒い狼が発する声だ。
もう首筋まで迫っている。ぞわっと背筋が凍りついた。
振り返っていたら間に合わない。恐怖が足を動かした。
「うわぁ……っ!」
悲鳴と共に鳥居へ飛び込んだ。
後ろ髪の何本かが牙に持っていかれたのがわかる。
でもなんとか無事だった。
玉砂利の上に転び、擦り傷はできてしまったが、大きなケガはしていない。
尻餅をついたまま、遥は顔を上げる。
「あ……」
見ると、辺りを覆っていた闇が消えていた。
黒い狼の姿もない。
ほっとして、全身から力が抜けた。
「助かった……」
子供の頃から色んなあやかしを視てきたけど、こんなに危ない目に遭ったのは初めてだった。
ちょっと髪を引っ張られたり物を隠されたりみたいなイタズラなら慣れている。でも今みたいに直接襲われたことはなかった。
「どうして今になってこんなことに……」
たまたま今日まで凶暴なあやかしに会わなかっただけなのだろうか。
だとしたら絶望的だった。いつまたあんなやつに襲われるかわからないと思うと、まともに生活することもできない。
「カラオケ……いかなくてよかったな」
額の汗をぬぐい、つぶやく。
もしクラスのみんなと一緒だったら、巻き込んでしまっていたかもしれない。
「僕は……間違ってなかったんだ」
よかった。
ひとりぼっちで過ごしてきて本当によかった。
……。
…………。
「………………馬鹿だな、僕は」
ぽつり、と自嘲の言葉がこぼれた。
ひとりぼっちでよかっただなんて、なんて淋しい生き方をしてきてしまったのだろう。
でも仕方ないんだ。他にどうしようもないんだから。
玉砂利の上で俯き、膝を抱える。
すると、ふいに背後――お社の方から声が響いた。
「愚か、という意味では残念ながら同意せざるを得ませんね。あやかしへの危機感をほとんど持たないまま、あなたは生きてこられたようですから」
はっと振り返る。
「しかしどうかご安心下さい。たとえ主人がどれほど愚かな方であろうとも、支えてみせるのが私の務めです」
それは組紐から響いていたのと同じ声だった。
時刻は黄昏時。
西には夕焼けの赤が差し、東には夜の青が漂い始めていた。
そんな交じり合った空の下に、今──銀色の青年がかしずいている。
銀色、というのは髪のこと、青年はきらめくような銀髪だった。
さらには誰もが見惚とれてしまいそうなほど美しい。
着ているのは高級そうなスーツで、手には真っ白な手袋を嵌めている。
いつからそこにいたのだろう。誰かがいる気配なんてなかったのに。
遥が呆然とするなか、涼やかなアルトボイスが響いた。
「さあ共に参りましょう、坊ちゃま」
「坊ちゃま? それは……僕のことか?」
やはりこの神社へ導いてくれたのと同じ声だ。
でもだからといって信用はできない。
「いきなり現れて、そんなことを言われても困る。一体、どこにいくって言うんだ? いやそもそも……」
頭のなかの混乱をそのまま口にした。
「お前は一体、誰なんだ……?」
「私はあなたの執事です」
「し、執事……?」
あまり日常生活では使わない単語に眉を寄せる。
直後にはっとした。
青年の銀色の髪のなかに狐のような耳があった。
「お前、まさか……あやかしなのか!?」
ついさっき、正体不明のあやかしに襲われたばかりだ。
反射的に体が強張る。
しかし青年はまったく意に介さず、「ええ、左様です」と頷いた。
「申し遅れました。私は『妖狐の執事』。名を
音もなく、青年――雅火は立ち上がる。
「僭越ながら本日はあなたをお迎えするために参りました」
「あ、あやかしが僕を迎える……? わけがわからない。一体何が目的なんだ!?」
「お答えしましょう。私の目的はたった一つ」
雅火は告げた。戸惑う遥へ向けて、まるで運命を告げるように。
「高町遥様、あなたを――私の主人とすることです」
満面の笑みだった。でも目が笑っていない。顔立ちはきれいなのに、まったく信用できない笑顔だった。
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