第4話 ル・ゾルゾア

 市長宅はごく普通の広さがあり、気分転換できる程度の庭を持つ一軒家だった。六十は過ぎているだろうダゴウ市長は剣霊協会から使わされた剣霊使いとその剣霊を自分の書斎に通した。挨拶代わりに剣霊使いと握手をする際、彼は手袋をしたまま右手を差し出した。無礼な、と市長は思ったが、手を握った時にその理由を知った。

「第七十二剣霊使いユスト・バレンタイン、剣霊協会の命により参った。諸事情により会話が困難な故、剣霊たるが受け答えする旨、ご容赦願いたい。」

 イルサーシャは常日頃の様にユストの前に立つ。ユストは彼女の肩に手を置き、横に並ぶように優しく指示をした。剣霊が剣霊使いの前に立つのは前面からの攻撃に対処する為である。この場でその必要は無く、市長に対して礼を取る動作でもあった。ユストは幾分にこやかな表情を作り、左の掌を市長の前に出す。依頼内容を話して欲しいという彼のジェスチャーであった。

 市長は両手を腰に回し、辺りを歩きながら依頼について語り始めた。二ヶ月程前から市街地周辺の安全が脅かされているという。そもそも安全などというものは始めから保障など無いのだが、邪剣霊や魔物が頻繁に現れ、市街地の住人は恐怖に悩み、交易商人の往来も減少の一途にある。その言葉を聞いてユストは、昨晩の自警団の強請ゆすりといい、市街の道行く人の少なさといい、なるほどと感じた。昼間に行動する人間にとって夜の世界の者たちには対話が通じない以上、恐怖の対象でしかならないからである。

 事の憂いを絶つべく、ダゴウ市長は国に対し正規の軍隊にて鎮圧を要請したが、東部との境界線が緊迫している中、余剰の兵力は無しと断られてしまった。指を銜えて待つ訳にもいかず、次に自警団で腕に自信のある者で構成した討伐隊を結成したが、人食い狼の群れの中の数匹を倒すのが精一杯であった。もしそこで邪剣霊に遭遇していたら全滅という最悪の結果が待ち構えていたであろう。その結果、街の実力者数人で話し合いを行い、剣霊協会に救いの手を求めたのである。

「このダゴウ市街地を護るのはともかく、何故魔物が増えたのか心当たりはないのか?」

 イルサーシャの口を借りてユストは事の発端を尋ねた。人間にとっての元凶を絶たない限り、解決とは程遠い。

 トウラドオクの呪い、と短い言葉の後、市長は少々困惑気味の表情をした。圧政の限りを尽くしたトウラドオク王朝最後の王であるトウラドオク八世は二百年前に自由を求める者たちの反抗に破れ、その命を断頭台の前に落とした。その歳僅か十四歳と歴史書は記している。彼を取り巻く重臣たちが過去の慣例という思考の停止を重んじ、改善という努力を怠り、それを繰り返すことで崇めるべき主の人生を破滅させてしまったと言えよう。重圧から開放された臣民の次の思惑は様々であった。思想と現実、救済と利益が入り混じり、対話と暴力を用いて強奪と屈服を繰り返し、現在の四勢力に落ち着くまでに百年の時間を要していた。

「つまり、十四歳の少年の無念に邪剣霊と魔物が呼応した、というのだな?」

 これはあくまでも噂であり、恐怖に駆られた人間の妄想に過ぎない、と二人は理解し、市長の困惑気味の表情にも肯けるものがあったが、否定する根拠も無い。

「もうひとつ確認したいのだが、この件について他の者にも依頼した、という事は?」

 市長はイルサーシャの言葉の意味が理解できない様子であり、そこに偽りは感じられなかった。

「では、トウラドオク城址から近い街は、このダゴウ以外にあるか?」

 その名はムカサ市街地と言った。ムカサはダゴウと同じく戦乱期の砦を基に発展した街である。ダゴウ市街地が外敵からの防衛目的の砦が発展した事に対し、ムカサ市街地は攻略用の前線基地であったと後世では語られている。姿は似ていても目的が異なる歴史を持つ二つの市街地は馬を使えば一時間程度の距離で結ばれており、そこに住む者たちはともかく、街と街としてはお互いに牽制し合っていた。先程遭遇したブリスタンと彼女の契約者は恐らくムカサ市街地による依頼で剣霊協会より遣わされたのであろう。協会は依頼内容を判っていてそれぞれに剣霊使いを派遣したのか。どちらにせよ、協会としては片方が依頼を成し遂げれば満額の報酬を得られ、もう片方は依頼が達成出来なくても報酬の二割を受け取る事が出来る。あとは剣霊使い同士が協力的に任務を遂行するか、個々の勝手で動くかは各自に一任されていた。

 ユストの手がイルサーシャの肩に置かれる。イルサーシャは少々怪訝な視線を自らの契約者に送った。

「紙とペンをお願いしたい。」

 市長は言われた通りにし、ユストはそれを受け取る。流れる様に文字を書き、市長のデスクに置くと、そのまま二人は部屋を後にした。

『トウラドオク八世の遺恨は剣霊協会の名に於いて鎮めてこよう。明朝、トウラドオク城址の手前まで行く為の馬車と御者を一名お願いしたい。ユスト・バレンタイン』

 市長宅にて要した時間は二十分程度であった。

 

 雨はまだ降っていた。その粒は繊細であったが、降り止む気配は感じられない。二人は市長宅から青い狐まで戻るよりも、途中で雨宿りをする事にした。目に付いた軒先に身を預け、イルサーシャに被せたコートをユストは手元に戻した。軒から大きく張り出したテントの下にはテーブルと四脚の椅子が置かれ、そこがレストランであると気付くまで、そう時間は要さなかった。全面ガラス貼りの店内は昼を過ぎた事もあり、数える程度の客のみである。雨天により出歩く者が少ないのか、風土的に外食をしない人が多いのか、あるいは先の市長の言葉を借りれば、トウラドオクの呪いによって人口が減ってしまったのか。考えても詮無き事、とユストは思い、イルサーシャの腰に手を当て、店の出入り口の扉を開けた。

 二人向けの小さな円卓が空いていたので、そこに腰を降ろした。円卓の中央には銅色の小振りな花瓶が置かれ、今朝摘んだと思われる青い花が投げ入れられていた。

 三十路手前と思われるウェイトレスが注文を取りに二人に近づいた。栗色の髪を丁寧に束ねており、清潔感漂う女性である。彼女はユストを見、その後イルサーシャに視線を移した。このダゴウ市街の者では無い事を確かめたのだろう。旅行者ならこの街の人間より多めの金額を落としてくれる、と彼女は期待はしたが注文はコーヒーのみであった。僅かに勇気を振り絞ってユストの方に笑顔でお食事もご一緒にいかがですか、と勧める。商売柄、どちらに決定権があるかを見抜くのがこのウェイトレスは得意であった。二人の雰囲気と物腰からして男の方だと思ったものの、返事は返ってこなかった。

「この時間だと、何が出来るのだ?」

 数秒後に女の方から問い掛けてきた。確かにコーヒーと口にしたのも女であった。ウェイトレスは自分の洞察力に些か自信を失くした。

「只今の時間ですと、ローストビーフかチーズの盛り合わせになります。」

「その二品のみか?」

「えぇ、まだお昼のメニューですから…。ディナーの時間までは、この二品で二十年お店を構えております。」

「それは失礼した。ならばローストビーフを一皿お願いしたい。」

 顔に似合わず淡々と語る女性だな、とウェイトレスは思った。また、ナイフは必要ないので持って来ないように、と聞き慣れない注文も受けた。旅行、歳の頃からして新婚旅行だろうか。折角の思い出の機会にこの二人は何かつまらない事で喧嘩をしているのだろう、と思い込んだ。あまりの腹立たしさに男は無口を押し通し、女はそんな事お構いなしに自分が食べたいものを注文したのだろう、と。想像は好奇心をくすぐる。客が少なく彼女の中で余裕が生まれた事もあり、明日はもう会わないであろう客を注意深く観察し始めた。この市街地に嫁いで十年の歳月が過ぎ、共働きで生計を工面する生活に不満は無いが、外の世界の情報に飢え始めていたのは薄々感じ始めていた。この二人は明らかによそ者であり、直接会話をしないでも、外の世界を感じ得させてくれる貴重な存在であった。

「あの、大丈夫です?ぼーっとしていましたよ?」

 三ヶ月前にここで働き始めた後輩の声は相手を思いやる時の優しさに溢れるものであった。

「えぇ、立ちくらみがしただけよ。」

「でしたら、奥でお休みになります?支配人にはわたしから言っておきますけど…。」

「大丈夫。あまり動き回らなければ問題無いわ。少しの間、ここに立っていれば直に元通りになるわよ。」

 この際、後輩に甘える事にした。幾ばくかの嘘を吐いたが、明日の出勤の際に後輩が美味しいと言ってくれた、実家の裏庭で取れた茶葉をお裾分けし、今晩仕事から戻った旦那の為の料理に腕を奮えば、ばちは当たるまい、と思った。

 判りました、と疑問を持たずに素直に返事をした後輩は二人の注文票を受け取り、持ち場に戻った。外の景色に視線を送る。雨は降り続いており、新たに客が来る様子も無い。

 ウェイトレスは自分の立ち位置の後ろにある柱に寄り掛かる。柱とほぼ平行に立ち、体重を柱側に預けた、という表現が正しいかもしれない。

 気になる二人は未だ沈黙を守っていた。椅子に深く腰掛け、足を組んでいる男の足先は向かいの女の足首に触れていた。興味深い事に二人の目線はお互いを捉えている。雰囲気が悪い状態であれば、それぞれがあらぬ方向を眺めているものだが、この二人は違った。視線を外したら負け、なのだろうか、一触即発を控えた獣の睨み合いを連想させる光景に思えた。

 やがて後輩が二人の卓に注文の品を運ぶ。ローストビーフを中央の花瓶の横に静かに置き、コーヒーをそれぞれの前に用意する。白銀の腰より下まで伸びている髪が、後輩の肩で揃えている赤毛と対照的に映る。燭台の明かりが頼りである薄暗い店内でも、女の髪は世の中のあらゆる光を吸収したかの様な輝きがあり、見る者の心を奪わんとする勢いがある。フォークを置きつつ、後輩は女の横顔を見つめている。恐らく、耳元に目を遣っているのだろう、とウェイトレスは思った。妖しげな光沢を放つ黒い蛇のピアスについては彼女自身も気になっていた。これまでに見た事の無い造形であり、美しく思えた。身に着けると言うよりは、女の体の一部を思わせる程である。この女の出身地ではごく当り前のモチーフなのか、向かいに座っている男からの贈り物なのか、実は由緒ある家柄の者で代々受け継がれている逸品かもしれない。空想が次々と浮かぶ中、二人は初めて動いた。男は右の親指と人差し指でコーヒーカップの取っ手を摘み、香りを確かめながら一口だけ飲んでいた。女は料理の上に手をかざしている。その指が縦横に数回動く。何かのまじないだろうか、とウェイトレスは特に気に留めなかった。そして女は手を元の位置に戻し、礼儀正しく座る。やはりどちらも会話をしない。愛情を何処かに置き去りにした夫婦には見えない、というよりは思えなかった。円卓の下で互いの足首を交えているのは、足元が狭いからではない。何か特別な意味があるのだろうと彼女は思ったが、その答えは判らず、無理に解明しようとは思わなかった。

 男が再び二本の指でフォークを掴んだ。この店自慢の逸品に手をつける。フォークを器用に使って肉を切るのだろうか、だがあの持ち方では力が入らないだろうと、ウェイトレスは眺めていた。フォークは掬う様に料理の下を潜る。一片が持ち上げられた。いつ切ったのかとウェイトレスは不思議に思わざるを得なかった。先程女が料理の上で指を動かして切ったのか。まさか、と突拍子も無い空想に苦笑が混ざる。注文票にナイフ無しで、と記載してあるのを見た料理長が気を利かせて、あらかじめ切れ目をいれていたのであろう、と決め込むことにした。

 料理は男が一人で全て口に入れてしまった。注文した女自身は黙って座っているだけである。首元を隠す様にスカーフを巻いている男は残りのコーヒーを終え、女の前に置かれた手付かずのコーヒーに手を伸ばす。二杯目にはミルクを入れていた。

 二杯目のコーヒーを終え、空になったカップをソーサーの上に置くと共に二人は立ち上がった。ウェイトレスは背中をつけていた柱から身を起こし、食事を済ませた客に近付いた。

「お客様、お会計はテーブルでいたします。」

 業務と興味が入り混ざった行動だった。

 ウェイトレスの言葉に反応した二人は元の席に戻る。男が胸元から銀貨を一枚取り出し、金額を伝える前に会計用のトレーに置いた。

 ウェイトレスは驚きを隠せなかった。始めて見る硬貨である。この西部貨幣とはデザインが異なっている。他国の貨幣である可能性も考えられるが彼女にはその価値が判らなかった。そしてこの硬貨を差し出した男の手が、そのまま向かいの女の手に触れている事に気が付いた。男は平然とし、女は特に嫌がる様子も無く、涼しげな目元を保ったままである。

「あの、このお金は…?」

 躊躇いはあったが、価値も判らず、つり銭の勘定が出来ない以上、教えを請う他ない。硬貨を差し出した本人に向けて問い掛けたが、目が合ったものの直ぐに逸らされてしまった。その逸らした先は女の方に向けられていた様に見えた。

「それは共通貨幣、まだ西部の貨幣と両替が済んでいないのだ。釣りはそなたに差し上げよう。」

 女が応えてくれた。外見とは異なりしなやかさに欠けているが、意思の強い女の声色は聞く者を包括する力があった。

「共通貨幣ですか…。その価値がいかほどか私には判りかねますが、お食事代として必要な分だけ頂いて、残りはきちんとお返しします。」

「だが、そなたは体調が優れない様子。そのいかほどかの残りで薬を買うなりご自愛されるが良い。」

「あの、お気遣いには感謝しますが…。」

 女の手に重ねられた男の指がとんとんと手の甲を叩いていた。

「それに食事を美味しく頂いた。雨宿りついでで店に入ったとはいえ、ベヤノーマ高地産のコーヒーが飲めるとは思わなかった。感謝する。」

「左様ですか…。」

 二人は再び立ち上がると、男は女特有の曲線美を持つ腰に手を添えた。女は黙って頷き、揉め事など無い夫婦の様に、お互いの歩調に気遣う事無く出入り口に向けて歩き出す。その場には女が常用していると思われる香の心落ち着かせる香りが微かに広がっていた。

 数時間後、ウェイトレスは後輩と共にこの日の業務を終えた。雨は既に止んでいる。共通貨幣だと言われた見慣れぬ銀貨はそのままにして、自分の懐から二人の食事代は充てておいた。今まで見た事の無い銀貨を会計係である支配人の奥方に見せて小言を言われる危険を回避したいが為である。

 エプロンの前ポケットに銀貨をしまい込み、ウェイトレスは厨房にいる男に尋ねた。

「料理長、うちのコーヒーって何処のです?」

「創業以来、同じ頃に事業を興したツーメ商会から仕入れているが、それがどうかしたのか?」

「いえ、コーヒーの産地を知りたくて。」

 噂話と恋話にしか興味を示さないウェイトレスが何を言い出すのか、と呆気に取られた表情をした料理長はフライパンを洗う手を止めた。

「さぁな。ただ先代からはコーヒーは一番高いものを仕入れる様に、と俺が見習いの時から教わっていてな。今もその教えを守ってはいるが、客から何か言われたのか?」

「何とか高地産で美味しかったって。多分喜んでいたのだと思います。」

「多分ってなんだそれは。」

 ウェイトレスは自分の言葉に対し、肩をすくめた。

「それって、お昼過ぎに来た銀色の髪の美人さんの事ですか?」

 テーブルの上にある花瓶を集め終えた後輩が話に割り込んでくる。いかにも話をしたくて仕方が無い様子である。

「えぇ。誰もが振り返る輝きを持った女性だったわね。」

「でも、今日はそれよりも凄い話がありますよ。」

 嬉々とした表情の後輩を二人は早く話すように促した。

「このダゴウに剣霊と剣霊使いが現れたんですって。」

「剣霊って、とてつもない強さを与える代償として持ち主の生気を吸い取るってやつだな?」

「そう、契約を結んだ持ち主を振り向かせる為に綺麗な女性の姿をして、持ち主が死ぬまで夜な夜な生気を吸い取るんですって。」

「まさか、お前たちが言っていた銀髪の美人さんってのが、その剣霊か?」

 ウェイトレスはエプロンのポケットの中にある銀貨を指で弄ぶのを止めた。

「私もまさか、て思ったけど、どうやら違うみたい。黄金の髪をして、肩がはだけた服を着ていたって話よ。その姿を見た男は皆して鼻の下を伸ばしていたのでしょうね。」

 安堵した。知らないとはいえ、あの女が剣霊であったら、あの輝かしさに見とれた己に嫌悪感が生じたであろう。ウェイトレスは短い溜息を漏らし、再び銀貨をポケットの中で回し始めた。

「でも、なんで剣霊が人前に現れたのかしら?」

「サイレントがいたのよ。偽者だったけど。」

「語らずの剣霊使いか。物音一つ立てずに相手を倒すって噂の剣霊使いだよな。」

「わたしも聞いた事あるわ。あらゆる敵を一撃で倒すって。物凄い怪力の持ち主なのよ、多分。」

「そうそう、その有名な剣霊使いよ。」

 仕事を終えた後輩はカウンターに寄りかかり、煙草を銜えた。

「噂通りの強さかどうか、その金髪の剣霊は試してみたかったみたいだけど、あっさり倒してしまったそうよ。偽者だと判って、その剣霊が怒りに任せて切り刻もうとしたら契約者である剣霊使いが現れてなだめた様ね。」

「へぇ。で、どうやってその剣霊をなだめたんだい?」

 仕事後の一服を楽しみつつ、後輩は得意気に語った。

「抱き締めたのよ。骨が軋む音が聞こえるくらい強くね。そうしたら剣霊は腰砕け状態になって、その場に座り込んでしまったらしいわ。」

「…大衆の面前で大胆な事するのね。」

「じゃあ、剣霊に会ったら抱き締めれば良いんだな?」

 料理長は笑いながら後輩の顔を覗き込んだ。

「それは無理よ、料理長。綺麗なものに触れるなって言うじゃない?剣霊に唯一触れる事が出来るのは、その剣霊と契約を結んだ者のみよ。そうでない者がその綺麗な肌に触れたら傷を負うだけ。」

「つまり、その男が契約者だったわけだ。夜な夜な美人様のお相手ねぇ。今夜辺り我が家の剣霊様を抱き締めてみるか。」

「頬を叩かれるだけよ、きっと。」

 女二人は半分呆れ顔で料理長の和む言葉に答えた。

「恐らくだけど…、剣霊使いが現れたって事は、トウラドオクの呪いを調べる為に来たとしか考えられないわ。」

「でしょうね。市長あたりが依頼したのかしら?」

「無事に事が片付けば良いけど…。」

「無事に事を片付けて貰わないと困るのは俺達だよ。このままだと、ダゴウに出入りする人間の足が遠退きつつあるからな。俺たちの食扶ちを確保してあげましょうと市民全員が毎日ここで食事する、というのはさすがに無理な話だろ。」

「呪いのせいで職を失うのも嫌だけど、市長が剣霊使いに高額の報酬を払ったおかげで、来年の税率が上がる、なんて事にならないようにして欲しいわ。」

「そうね。わたし達、その剣霊使いのやり方次第で今後が決まるのね…。」

 仕事上がりの取りとめの無い会話はこの日に限り重い空気を作り出してしまった。ウェイトレスはエプロンを外し、後輩は煙草を灰皿に押し付け、それぞれ帰り支度を始めた。

 店の出入り口が開き、挨拶と共に二人の若い女が入ってきた。夕食時からホールを担当する者たちである。昼食時と夕食時の者同士がお互いに軽く挨拶を交わし、役目を終えた者は足早に職場を離れる。後輩とは四つ先の角まで一緒に帰った。部屋の植木をもう一つ増やしたいので花屋に立ち寄ると言っていた。日が沈み掛け、一日の終わりを感じるこの時間、独りで歩く女の姿は仕事疲れの表情は無く、何か物事に耽っている雰囲気を醸し出していた。

 家に辿り着き、夕食の支度を済ませ、自警団に所属する旦那の帰りを待つ。普段と同じく陽が落ちて月が輝き始める頃に愛する者は戻ってきた。ウェイトレスは今日の出来事を話したかったが、たいして相手にしてもらえなかった。市長の依頼で明朝早くに馬車を出さなければならなくなったので、食事を済ませ次第、床に就くという理由である。市長直々の依頼なら断る理由も無く、邪魔してはいけない、と彼女は口を閉じた。

 ひっそりとした静寂に包み込まれた居間で、ウェイトレスは新婚生活用にと実家から運んだ愛用の椅子に身を預けていた。今日の出来事はまた後日にでも話そうと、まだ価値が判らない銀貨を遠い目で眺めていた。あのふたりは今頃何をしているのだろうか。トオラドオクの呪いの真偽は判らないが、その旅路が無事である様、銀貨に祈った。


 先の昼食にてユストはイルサーシャに伝える事は伝え、知りたい事は得られた。ブリスタンとの一部始終を話し、何故、イルサーシャがその場に現れたのかユストには引っ掛るものがあった。剣霊使いと剣霊に主従関係の線引きは無いが、共に戦いの場を潜り抜けた者同士の勘は最善の行動を良しとするのが定石である。実際にはユストの身を案じたイルサーシャがその場におり、その思いが行動に移るまでの引き金として一人の人物との遣り取りを知らされた。

 鉄壁門の前に独り残されたイルサーシャは静かに待っていた。直にユストが戻ってくると信じていたからである。だが、彼女の思惑通りにはならなかった。流れる雲によって日差しが遮られつつある。懸念が彼女の中で生じ始める。それをごまかすかの様に足を動かし始める。鉄壁門の周りを二周した際に、絵描きの姿が目に止まった。絵という、人間が作り出す心の現われを垣間見るのも悪くはない、とイルサーシャは思った。絵を見ているうちにユストが戻ってくるかもしれないという淡い予想も彼女の懸念を少しばかりか和らげていた。

 絵描きはユストと同じぐらいの年齢だろうか、精悍な顔つきをしていた。その横顔は、この大陸を広く渡り、酸いも甘いも経験した者だけが許される証を備えている。ユストとの違いは顎鬚を携えており、革製のコートの上からでも判る太い腕である。それは筆を握る為のものでは無い事が容易に見て取れる。だが、彼からは血の匂いは無く、殺伐とした雰囲気は感じられない。イルサーシャ特有の嫌な気持ちは皆無であった。

「君は絵に興味があるのか?」

 イルサーシャが近付くと男の方から声を掛けてきた。えぇ、少しばかり、と曖昧な返事と共に、製作中の作品を覗いても良いか尋ねた。

「あぁ、構わないよ。何事にも興味を持ち、己の欲求をありのまま曝け出すのは気分が良いものだ。」

 低く落ち着いた声であった。その低さは彼の言葉の真理を裏付ける様な説得力が感じられる。イルサーシャは頷いて感謝の意を伝えると、遠慮せずに男の背後に廻り、筆を動かす先を見た。鉄壁門を眺める一人の女性が描かれており、それが自分自身だと気付くのは容易かった。

「これは…?」

「そう、君の姿だ。断り無く描いて申し訳なかったが、うろうろ歩き回る前に下書きは済ませておいたよ。」

「別に許可など必要ないが、手馴れたものだな。」

「字が書けない分、絵心が育まれてしまってね。」

「…字が書けない?」

 イルサーシャの目尻に鋭さが僅かに湧き上がる。その雰囲気を察したのか、男は手を休めず、苦笑を零した。

「そうだ。不便と言えばそれで終わりだが、その代償で得たものは計り知れないというのが救いだな。ところで、君の契約者も俺と同じ考えではないのか?」

「どうかな…。彼は損得で動く様な男では無い。故に契約を結んだのだ。」

 イルサーシャは腕を組み、その手に力が入るのを感じていた。剣霊使いに会うとは微塵にも思っていなかった。つまり、自分と同じ立場の者がこの近くに居るという事であり、気が張るのも当然であった。

「お互いに信頼している、か。理想であり、美しい関係だ。」

 剣霊使いは筆を動かす手を止めた。そしてゆっくりと落ち着いた動作で体の向きをイルサーシャの方に向ける。その視線は物事を客観的に捉え真実のみを追求する、冷たくも逞しさに溢れていた。

「案ずるな、俺の剣霊はこの場にはいない。それに素手で君の様な力を秘めた剣霊と戦おうとは思わないがね。」 

 イルサーシャの緑色の瞳は一枚の布を探していた。剣霊協会から支給される黒字に金の刺繍が施され、ユストがスカーフとして使用しているものである。剣霊使いなら必ず所持し、体の一部に着けなければならない義務があるが、この男にはそれが見当たらない。絵を見に近付いた際に確認はしたが、目に映ることは無かった。それがイルサーシャを油断させた要因の一つでもあった。

「俺の名は、ル・ゾルゾア。七十番目の剣霊使いだ。君は?」

 ゾルゾアはコートを翻し、腰にぶら下げた、イルサーシャの探していたものをちらつかせた。それはユストが首に巻くものと同じ柄であり確かに七十を記す記号が確認できた。

はイルサーシャだ。名乗られた以上、こちらも名乗ろう。」

「ほう、古風だが、その顔立ちに似て強い意志の持ち主らしい名前だな。君の契約者が名付けたのか?または生前からの記憶か?」

「知らぬ。そもそもの剣霊としての由来についてそなたに語る義理は無い。」

「そうか、嫌われたものだ。」

 ル・ゾルゾアは顎鬚を二本の指で弄び、足を組んだ。剣霊を前に余裕を感じさせる行動は、彼が剣霊使いとしての経歴がユストより長いからであろうか。

「ところで、俺の剣霊は好奇心旺盛でな。君の様に実直な性格では無く、好き勝手ふらふらと歩き回る。君の契約者と遭遇していなければ良いのだが。」

「どういう意味だ?」

「先にも言ったが、剣霊使いとはいえ、他人の剣霊を素手でねじ伏せるのは難儀な事この上ない、という訳だ。」

「ル・ゾルゾア、そなたの剣霊はやたらと好戦的なのか?」

「いや、戦う事よりも優雅な振る舞いを大事にしている女だよ。」

 ル・ゾルゾアは体を絵の方に再び向き直り、筆を動かした。

「だが、剣霊と言うのは自らの誇りで成り立っているのだろう?君の契約者が彼女の誇りを昂ぶらせたり、刺激する存在なら話は別だろうな。」

 ル・ゾルゾアからは戦意を感じない。イルサーシャと戦うにしても彼の言った通り、素手では勝負にならない。イルサーシャの一方的な勝利は明白だが、ル・ゾルゾアは警戒する様子も無く、むしろ彼女の内面を読み取ったかの様に自然体で絵を描いている。

「さて、君の契約者を探したらどうだ?この絵はまた次の機会にしよう。」

「判った。の契約者に対するお心遣い感謝する。」

「ほう。剣霊となり、この世に長く留まると人間の言葉など耳を貸さないものだと思っていたが。イルサーシャ、君の契約者に対する思い、見上げたものだ。」

は彼の命を見届けなければならない。それに、彼には我(あ)の剣としての矜持を守って貰わなければならない。それだけの事だ。」

 雲が流れ、白銀の長い髪も吹く風に抗う事無く揺れていた。

 剣霊が契約者に求める要素は二つある。剣霊自身が掲げている誇りに同調できるか、次にそれを自在に操る事が出来るか否か、である。その二つの真実を確かめるべく、剣霊は契約者の血を摂り、血の中に詰め込められた契約者の意思を吟味していると言われている。

 イルサーシャはユストの許へと向かった。人の群れが成している場所に行けば自ずと会える事は判っている。その足取りは急いでいるとはとはいえ、少々重苦しいものがあった。ユストの身を案じる思いが半分、残りはル・ゾルゾアの言葉が彼女の中でなかなか消え去らなかった。イルサーシャには人間であった時の記憶が名前以外、無かったのである。ル・ゾルゾアの口調からして、彼の剣霊は人間としての記憶が残っているのだろう。それが羨ましく思えた。そもそも剣霊という、人間が作り上げた武器に憑依した霊魂になる経緯が判らない。だが、その疑問は自らの否定と直結しており、自らの誇りが瓦解する。下手に思慮するのは常に止めていた。

 ユストと共にしていれば、やがて判るであろうと彼女は胸の内で囁いた。ユストは侵略の為に剣を取る人間ではない。

 それが彼女の誇りであった。

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