八千年後の覚醒者(やちとせのかくせいしゃ)

辰野 落子

プロローグ

世界崩壊《 メテオ・インパクト》

 その凶報は、ハワイ、マウナケア山の頂から世界にもたらされた。標高4,205メートル。澄み切った大気の向こう、深宇宙を観測する超大型望遠鏡群の一角、国立天文台ハワイ観測所のドーム内で、天文学博士アリス・チャンは己の目を疑った。


数週間前から観測チームを悩ませていたのは、しし座の深奥領域から発せられる微弱ながらも周期的なエネルギー波だった。当初はパルサーか、あるいはブラックホール連星の重力波かと推測されていたが、どの理論にも当てはまらない。そして今夜、アリスが捉えた画像には、明らかに“それ”が映り込んでいた。


「…あり得ない」


ディスプレイに表示された天体は、既知の物理法則を嘲笑うかのような存在だった。自ら青白い燐光を放ち、その周囲の空間はまるで陽炎のように歪んでいる。何よりも異常なのは、その移動速度と軌道だった。計算上、光速の数パーセントに達する速度で、一直線に太陽系を目指している。これは惑星ではない。星々の間を渡る、巨大な砲弾だ。


アリスの報告は、瞬く間に世界中の天文機関と政府中枢を駆け巡った。この未確認飛翔天体は「ネメシス」と仮称され、最高機密として情報統制が敷かれた。しかし、紙で火を包むことはできない。ネメシスの放つ異常なエネルギー波はアマチュア観測家の機材にも捉えられ始め、SNSでは「第二の太陽」「審判の星」といった憶測が飛び交い、世界は不穏な空気に包まれていった。


各国政府は水面下で連携し、あらゆる迎撃手段を模索した。大陸間弾道ミサイルに搭載した核弾頭の同時飽和攻撃。軌道上に展開する軍事衛星からのレーザー照射。しかし、ネメシスの進路上に人類が送り込める質量など、巨大な鉄球に投げつける砂粒に等しい。絶望的な計算結果だけが、極秘会議のテーブルに積み上がっていった。


衝突予測日まで、残り72時間。ついに国連事務総長が、青ざめた顔で全世界同時会見に臨んだ。

「…親愛なる地球市民の皆さん。我々は未曾有の危機に直面しています。しかし、人類は決して希望を捨てません」

その言葉とは裏腹に、テレビ画面の向こうで震えるその声が、人類に残された時間がほとんどないことを雄弁に物語っていた。


* * *


西暦2100年、春。日本の首都圏、そのベッドタウンの一角。

世界が終末のパニックに揺れる中、その喧騒から切り離されたかのような、穏やかな昼下がりがあった。公園の桜は満開を迎え、花びらが春風に乗り、祝福のように舞い散っている。

主婦の恭子は、ベンチに腰掛けてその光景を眺めていた。傍らのベビーカーでは、生後六ヶ月になる息子の一樹が、すやすやと健やかな寝息を立てている。


数日前からテレビやネットは不気味なニュース速報を流し続けていたが、恭子は意識的にそれらを遮断していた。世界の終わりなど、信じたくもなかった。それよりも、この腕の中にいる小さな温もりが、彼女の現実であり、世界のすべてだった。

「一樹…」

眠る息子の柔らかな頬を、そっと指でなぞる。あと数年もすれば、この子が公園を駆け回り、その手を引いて歩く未来。その当たり前のはずの幸福を想像するだけで、胸が温かいもので満たされていく。スマートフォンを取り出し、眠る息子の無垢な顔を写真に収めた。こんな日が永遠に続くと、彼女は必死に信じようとしていた。


その時、ふと空を見上げた恭子は、息を呑んだ。

快晴だったはずの空が、毒々しいまでに奇妙な色合いを帯び始めていた。巨大な水彩画の上で、紫と翠の絵の具を滲ませたかのような、不気味なオーロラが天頂を渦巻いている。

世界が終焉を迎えるという、あのニュースが脳裏をよぎる。まさか。そんなはずはない。

スマートフォンの画面をタップするが、通信障害を示すアイコンが点滅するだけだった。公園にいた他の人々も、皆一様に空を見上げ、呆然と立ち尽くしている。


――瞬間。


世界から、音が消えた。

風の音も、人々のざわめきも、遠くで鳴り響いていたはずのサイレンも、すべてがぷつりと途絶える。耳を圧迫するような絶対的な静寂。次いで、空が裂けた。


空そのものに巨大な亀裂が走り、その向こう側から、赤、青、白、そして名状しがたい色彩の閃光が無数に迸る。天頂を覆い尽くすほどの巨大な“何か”――ネメシスが、雲を突き破り、そのおぞましいまでの威容を現した。それは惑星だった。だが、地表には見たこともない幾何学模様が禍々しく明滅し、大陸と思しき場所からは、得体の知れないエネルギーがオーラとなって立ち昇っている。それは、一つの世界が持つ、圧倒的な死の気配だった。


「あ……ぁ……」


誰かの短い悲鳴を皮切りに、公園は阿鼻叫喚の地獄と化した。

足元が激しく揺れ、立っていられないほどの衝撃が襲う。マグニチュードという尺度では測れない、星そのものが断末魔を上げるような絶叫。恭子はベンチから転げ落ち、必死にベビーカーに手を伸ばす。衝撃で目覚めた一樹が、恐怖に引きつったけたたましい声で泣き叫んでいた。


その時、恭子は見た。

衝突しつつあるネメシスから、一つの影が、まるで重力を無視するかのように、静かに降下してくるのを。その人影は、光を吸収する滑らかな素材の衣服をまとい、パニックに陥る人々には目もくれず、一直線に恭子たちの元へ降り立った。人間によく似ているが、その佇まいはあまりにも異質だった。

人影は、泣き叫ぶ一樹へと静かに歩み寄る。その顔には感情というものが一切浮かんでいなかった。ただ、憐れむような、あるいは何かを鑑定するような冷徹な目で、じっと赤ん坊を見つめた。


そして、その人影がそっと手をかざす。


破壊的な衝撃ではなかった。むしろ、世界の終わりを前にして、あまりにも静謐な光景だった。その指先から放たれた純白の光が、一樹の乗るベビーカーを優しく包み込む。泣き声が止んだ。まるで時間の流れそのものがそこだけ凍り付いたかのように、一樹の身体がゆっくりと光の粒子に包まれ、やがて水晶のような輝きを放つ物質へと変貌していく。


「かずきぃぃぃぃぃッ! やめてッ!」


恭子の絶叫は、誰の耳にも届かない。彼女が息子に触れようと伸ばした指先が、見えない壁に阻まれる。その向こうで、我が子は人間ではない何かの姿へと変わっていく。


そして、終焉が訪れた。


ネメシスが地球に衝突する。世界崩壊メテオ・インパクト

凄まじい衝撃波が地上のすべてを粉砕し、灼熱のプラズマが都市を蒸発させる。大陸は引き裂かれ、海は干上がり、空は燃え盛る炎で覆い尽くされた。旧き地球の文明、生命、そして歴史のすべてが、一瞬にして無に帰した。


――こうして、一つの世界が死んだ。

文明の墓標となった惑星の瓦礫の山の中で、ただ一つ。純白の光に守られた赤ん坊だけが、その存在を未来へと繋ぎ止めていた。


これは、忘れ去られた時代の最後の生き残りであり、新たな時代の最初の目撃者となる男の、八千年にもわたる、長き眠りの物語である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る