エピローグ
1.海に鳥
はじめに呼び声が聞こえた。向かって行けば、何かあると思った。
陸を舐め取る音が迫る。この地はなんと寂しい。潮騒の手招き、撓る風、空が震えている。進もうか戻ろうか。頭では不安を覚えながら、進路は変わらない。満ち引きに捕まった心は、この音を知っていると言う。本当だろうか。
雲は厚いが、裂け目から陽が射しているらしく、重く引き摺るローブの裾を縁取っている。上空の妃の歩みは早い。海鳴りはこんなに早い風に乗って来るのか。見上げた子供が呟いた。草の波を掻き分けて、小舟が進む。海へ。
遠くから臨んだだけではまっさらに見える浜にも、近付くにつれ磯のかおり、漂着物、生物の足音など、生態が見えるようになる。潮風にそよぐ植物の背中を支えてやると、拗ねた顔をして海の方を向いてしまった。小枝や貝は青い手触り。塩の粒がざらざらとくすぐったい風は絶えず吹く。広い浜を、時間をかけて横切る。目に入る物に刻まれた波紋に耳を傾ける。立ち止まっては手を伸ばす。
海藻を並べて絵を作る。集めた貝殻は掻いた穴に放り込む。流木を立たせてオブジェとする。波打ち際の一角は美術館になっていた。一通り遊んだ後らしい。
「なにもないねえ」
磯辺にすっかり馴染んだ頃に、長く伸びて子供が言った。砂の城が波にさらわれている。やっと辿りついた果てに座って、釣り糸を垂らすことにした。
「釣れるのかしら」
「釣れるのかなあ」
遊び疲れた二人は、海の風に吹かれるままに。 骨を削って作られた釣り糸は、餌を付けずに海を漂わせる。骨が辿りつく先も海なのだろうか。暗い沖に泳ぐ魚影は巨大。釣られているのはこちらではないだろうか。いつか大口を開けた波に連れられて海中に転がりこむしかなくなるのだ。
恐る恐る片足を水に浸し、纏わり付く砂にざわりとし、膝まで入って衣を濡らす頃になると歓声が上がる。再び賑やかに遊び始める。浜に固定した釣り糸の周りに、疲れきって座る。鳥が横切れば追いかけてどこまでも走って行く。夜が来れば茂みの窪地で丸くなって眠る。どれほど時間を潰しただろう。
「釣れるのかしら」
「溶けてしまったのかな」
相変わらず海を漂うだけの釣り糸が、まどろむ少女たちの手から引き上げられた。背の高い陰がかかって、見上げるとそこだけぽっかり青空が見えていて、久しぶりの空色に手を伸ばす。それぞれの手を取って、温度を確かめ合う。
「釣れた、わ」
少女がくしゃりと表情を崩した。
「きみたちは、まったく……」
空は相変わらず曇り続きで、雲がひっきりなしに流れ続け、その中に一点現れた空色の瞳は、続く言葉を探せない。三人は何も言わず海に向かっている。海は白く暗く、変わらぬ音を響かせている。ここには何もない。存在や、記憶や選択は、足元に染み込んでしまったし、掘り起こしたところで水が湧くだけ。柔らかな砂の地面。混ざり合って、朧になって。流れが見える。龍のようにうねりながら海を目指す、水の流れの間の出来事、いかなる汚濁も見据える視点。一本の生の流れが、留まらず続いていく。
「探しものはなに?」
青年が問う。その瞳を見つめながら少女は、海なのね、と呟いた。それはあなたの世界の果て。私の探しもの。流れ込む一点。鳥の形の空白よ、海にも空にも染まらずに、どこへ行く。
「飛び続けるだなんて、残酷なことね」
そして愛しいこと、と少女は答えた。浮かんでいた海鳥が発つ。舞い上がってみれば、何羽浮かんでいたのだろうか、羽音がこちらまで聞こえて来る。魚が跳ねる。足元で貝があぶくを吐く。波が寄せて、空いた穴や足跡を消す。海が呑み込む。
「生きることは、怖くない」
「ならば、進もうか」
しばらく海を眺めていたけれど、動くものがなくなって、日が落ちることを風が知らせて、青年がくしゃみをした。ここは寒いよ。青年が促すと、少女らの影も付いて行く。寒い、寒いと口にしながら。体をさすり、じゃれ合ううちに、草の原で転げた。また来たいと子供が言うから、二人はそれぞれ返事を返した。寝転がり、空を見上げる。染み込んだ空っぽを連れて。
「帰ろう」
しあわせのみつば ほがり 仰夜 @torinomeBinzume
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