紳士的な生きもの

 昔から、国語の問題が好きじゃなかった。特にあの「筆者の言いたいことを考えなさい」というやつが、明確に嫌いだった。

 文章から読み取る意味なんていうのは、文章と僕の間だけにあるものだ。人の頭から出てきてしまっている言葉から意味を汲むにあたって、筆者なんていう死者を立てるべきじゃない。

 たぶん、この主張をそのまま持ち越したから、僕はいま、詩なんていう曖昧なものを書いている。


 僕にとっては、という前置きは必要だけど、詩という表現形態はまったくもって紳士的じゃない。

 誰にでも親切。

 古いマナーを重んじる。

 相手を信頼して、対話で問題を解決する。

 そういう紳士的な部分を切り捨てて、僕の詩は出来ている。不親切で、無調子で、対話を拒否して。

 昔からそう感じていたような、一方的な押し付けとしての文章。それに一番近い形が、現代詩なんだろうと思うようになった。だから詩を書くときは、意識的にそういう無遠慮な人格を作り出して文章を書くことをしている。

 僕の詩を書いている人格は、僕の中から出てきてはいるけど、僕じゃない。浜辺へ空き缶を投げ捨てる人物を詩人と呼んで、そのことから生じる無責任が、書かれた詩を僕の詩にする。


 詩人は卑怯だ。

 勝手な詩を書く度に、現実の僕が紳士的な生き物になれるのだったらいいのに。




 ところで、紳士的な文章っていうのは、きっと科学論文みたいなものだと思う。他の人が登ってこられるよう、ルートが繋がっていることを確認しながら積んでいく文章。書くのに根気が要るから、跳ねるようには書いていけない。一歩一歩、力を入れて踏み固めながら書かれていくべき物だ。

 紳士的な文章を書くことを、僕はずっとサボってきたものだから、今更になって跳ねるなと言われてもすぐには出来ない。身勝手な詩を書いている内に、紳士的には書けないという自覚も、だんだんに出てきている。


 エッセイ、という形の投稿をやろうと思った理由はそこで(エッセイと言えるのかは分からないけど……)、有り体にいえばリハビリだ。詩ではなく、より紳士的な文章を書けるようになるための訓練。言葉を言葉のまま投げつけるのじゃなく、ちゃんと意味を含ませてパスする練習。三日坊主になってしまっているけど、まあ、ゆるく、思い出したら書くくらいで続けられたらいいと思っている。


 論文とまではいかなくても、小説を書くくらいになれたらいいなぁ。

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