あまがえるの死
昨日、小さな池にオタマジャクシを見かけた。言わずと知れた蛙のこどもだ。
思い返せば一月近く前、たくさんの蛙が鳴いているのをこの場所で聞いていた。あれらの子なのだろうか。もう結構大きくて、頭からしっぽの付け根までで15ミリはあったと思う。もうすぐ脚も生えてくるのかもしれない。
川の末には小魚が寄り集まっていて、もう蛍も光り始めている。人の世の諸々を抜きにして、いろんなものたちが夏への準備をしっかり済ませていたようだ。
一月前に鳴いていたカエルのことを、もう少し話したい。
まだ気温は涼しくて、でも陽射しはだんだん強くなってきていたころ。あの日木陰で僕が休んでいるところへ聞こえてきた声は、絵本に書かれているみたいな「げろげろ」ではなくて、「かろろろろ、かろろろろ」という軽い声だった。木製のドミノ倒しをしているみたいな声だ。小さい音ではないのだけど、どこか爽やかな軽さがある。
あの声の主は、シュレーゲルアオガエルという。
アマガエル、と言うと大抵の人は知っているものだけど、シュレーゲルアオガエルのほうはどうだろう。僕の経験的に、8割の人は「知らなかった」という顔をする。覚えづらい名前かも、というより、たぶんカエルの名前などに気をつけたこともないのだろう。
田んぼや池の近くを通り掛かることがあったとして、そこで聞こえる物音にひとつひとつ名前を付ける必要なんて、本来どこにもない。鳥っぽいな、と思えば鳥でいいのだし、虫と思えば虫、蛙と思えば蛙でいいのだ。そのうえでホトトギスとウグイスの見た目が取り違えられていたとしても、声を楽しむのに支障なんてでない。ましてや「ニホンアマガエル」と「シュレーゲルアオガエル」なんて、わざわざ分ける意味もそんなにない。
彼らの中には「あまがえる」が棲んでいるのだ。
ニホンアマガエルでもシュレーゲルアオガエルでもなく、「あまがえる」。
馬鹿にしてはならない。人々の頭の中で、「あまがえる」はちゃんと生きている。雨の頃になると鳴き、水の中に卵を産み、オタマジャクシから成長する。ただそれが、科学的な方法で示されたカエルの生態と一致する必要はないというだけだ。人の認識の中だけにいる生物なので、外界へ向けて説明されることもない。
一番大切なのは「あまがえる」は美しいということ。美しい自然の一部であること。
センスオブワンダーとは上手く言ったもので、言語より前に認識されている世界ほど美しいものはない。言葉でがんじがらめにされた脳内で、縛られることなく歌い跳び回る「あまがえる」は、どうしようもなく美しく感じる。
ただカエルの名前を知らないというだけで、その人がセンスオブワンダーを持ち続けている人物だなんて、言いたいようなことでもないけど。
僕のところへ、「あまがえる」はもう戻って来ない。4月の木陰で僕の耳を撫でたのは、ドイツ人動物学者の名前のついたシュレーゲルアオガエルだった。あと一週間もすれば、今度はニホンアマガエルが鳴きだすだろう。
今日も僕はこうして、「あまがえる」を虐殺し続けている。
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