みみずの長さでへの応援コメント
いつのまにか、ゆっくりとぜんぶが変わってしまったという言葉にドキリとしました。何か、AIと人間の将棋の試合を見ているようで(例えがよくないな)。頑張っているつもりなのは人間。伸び縮みする尺度というのも示唆的で。結局総ては相対的なんだからノンビリ行けよ、と言われているようで。伸び縮みする測定器の間に何か見つけようとあがいている自分。乾いて見ていけるのかと。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
KIKI-TAさまの例を読みまして、私もひとつ思いだしたのを書こうと思います。
どこの本か忘れましたがSFの短編で、車の自動運転に関するものがありました。
近未来を生きる主人公たちが、道路交通法について話をするシーンで、
「運転席に人間がいないといけないのは、とっさの時の判断を機械には任せられないからなんだって」
「えー。人間がやるより機械の方が正確で安心なのにね」
……というような会話をします。
私の生きている現代では、まだ肝心のところを機械に任せてしまうには性能(に対する信頼)が足りないように思います。しかし、それが改善されるのも時間の問題。今実験段階のものがいずれ公道を走るようになれば、私の意識も変わっていくでしょう。
今、常識として、運転席に人間の乗っていない車が走るというのは有り得ないことです。危ないことです。
しかしそれは絶対のモノサシではなく、技術の進歩、という伸び縮みするモノサシから生まれた常識なんだと思うのです。
伸び縮みするモノサシから生まれたものを、絶対と信じることは、ちょっとおかしい。何故ならそれも伸び縮みするはずだから。
こういった常識がいずれ変わっていくことも、楽しみにしていたいですね。進歩ということになるのか、退化ということになるのかは分かりませんが。
おっと。失礼しました。
コメントの返信にしては長くなってしまいましたね。
(という、これも伸び縮みする……)
編集済
自然、について考えてることへの応援コメント
藍染さんが仰っていたまだ名を持つ以前の自然ということをずっと考えています。思考できることはわたしにとってはありがたいこと。そこにひろがっている風景に自分は溶け込めるのか。自分にはサピエンスという名すら無い。どんな皮膚をもって空気を受けとめている。コミュニケーションとは。地球は自転しているだけ、なんでしょうね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
これを書いた後、最低限「自然」を辞書で引いてみました。三省堂新明解第四版にて、
天体・山川草木・動物など、人間社会を取りまき、
人間となんらかの意味で対立するすべてのもの。
だそうです。
古い辞書なのでどうにも格好がつきませんが、まぁ多分大きな違いもないでしょう。
名前の無かった古代にも、やはり自然は他者だったのでしょうか。
ヒトにも、それを取りまくすべてにも名前の無い頃から……。
皮膚も痛覚もないままに、自分というものは有り得ないのではないかと、疑っています。
編集済
宝石かどうかへの応援コメント
昆虫に感心が深いので絶滅危惧種と聞くと反応してしまいます。危惧種はたくさんいますね。県条例で採集禁止も多い。何年も前から考えるとずいぶんと色々な種がいなくなり数も減っていると肌感覚です。温暖化で南方の蝶も北上し図鑑が現実になりました。彼らは何も言いません。人知れず現れて消えていくだけ。彼らにとって人知れないことがいちばん幸せなんだと。藍染め様の、名もない頃、を思います。雲ひとつない空を見あげるたびに思い。また思いながら。
ps.昆虫の絶滅危惧種なんて蝶であることが多い。蝶は蛾の部分集合なのに。蛾の絶滅危惧種なんて騒ぐ人はいない。結局宝石なんでしょう。虚しい。的を射た言葉に会えて有難うございます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
種類や数がただ多いことが、すなわち豊かだとは思いません。それでも、無くなっていくことは寂しく、絶えかけのものたちは悲しく光りますね。
KIKI-TAさまの「蝶であることが多い」という言葉が、私の「宝石」という考えを裏付けてくれています。
環境省のHPにある絶滅危惧種一覧と、食い違っていてもいいのです。
保全緑地のインフォメーションなどに行けば、そこで光るのは宝石ばかり。写真と説明板がついている「絶滅危惧種」は、一目見て宝石と分かることが多い。見た目の問題とも限りませんが、しかしそういうことなんでしょうね。
最後にですが、私はシロヒトリ系のふわふわした蛾が好きです。