【短編】美容師
北 流亡
美容師
美丈夫にしてくれ。
男は、確かにそう言った。
進藤凛香は、椅子に腰掛けた男の頭を見た。髪は、ほとんど生えていなかった。
「美丈夫……ですか?」
思わず、聞き返していた。二人きりの店内に、声が響いた。男は、黙って頷いた。隙のない、小さな動きであった。
時計を、一瞥した。13時。店長が帰ってくるまで、3時間はあった。
凛香は、髪を結んだ。逃げる選択肢は無い。鏡越しの自身に、小さく頷いた。
鋏を抜いた。刃は、窓からの光に当たり、静かに光った。
正眼に構えた。男は微動だにしない。凛香は、頭を見つめた。やはり、髪はほとんど生えていない。砂漠。いや、荒野。凛香の頭に浮かんだ風景は、乾風の吹く、痩せた荒野であった。
固着。鞘を払ってから、一刻(約15分)経っていた。額に、汗が滲んでいた。
斬り込めない。鋏を握りたての頃の自分なら、斬り込んでいた筈だ。今の自分は、それが無謀だとわかる。
時計が針を刻む音。それだけが、部屋に響いていた。
蓬莱島。凛香は、師匠の言葉を思い出した。夏の海に浮かぶ、蓬莱島。眼には見えるが、その場所には存在しないと云う、幻の島。
蓬莱島。斬ることが、出来るのか。汗が、頬を伝った。足は、動かなかった。
鋏を上段に構え直した。尚も、男は動かなかった。再び固着した。
時間だけが、動き続けていた。
呼吸が、荒くなっていた。気は満ちていた。荒野に、それを発した。
風。窓から、荒野に流れた。
固着が、解けた。凛香は、跳躍していた。鋏を振り下ろす。同時に、男の頭上を越え、洗面台に着地した。
肩が、上下していた。呼吸が苦しい。然し、生きている。感触が、手に残っていた。
凛香は、振り向いた。男は、顔に笑みを浮かべていた。荒野に、風が吹いていた。
「ありがとうございました!」
凛香の明るい声が、響いた。
男は一万円札を出した。凛香は、レジスターから、6,220円を出そうとした。それを、男が手で制した。
「チップだ。貰ってくれ」
低い声だった。胸に、重く響いた。
男は、出ていった。扉から、秋の風が吹き抜けた。
程なくして、店長が戻ってきた。
凛香は時計を見た。16時。日が、傾きかけていた。
また、来るだろうか。
鋏を見つめた。刃の輝きは、凛香の表情を映した。
研がねば。そう思った。
鋏も。自分自身も。
【短編】美容師 北 流亡 @gauge71almi
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