Episode 27.「報せ/転調」

 結局、その日、私がサクラと言葉を交わすことはなかった。


 カレンとの昼休みを終え、教室に戻った私は、再び退屈な授業に身を投じることになった。眠気を誘発するリンドウ先生の声を聞き流しながら、考えるのは、明後日のことばかりだ。


 そんな私に、サクラは一瞥もくれることはなかった。授業が終わった後もそう。風紀委員の活動のためにだろうが、さっさと姿を消してしまった。


 故に、久し振りな、一人きりの帰り道。ソーヤに食べさせるための食料を買い込んだ私は、少しだけいつもよりも重い足取りで、寮へと帰ることにした。


 【Helper】で玄関を解錠。そのまま、共用スペースを抜けて、自室へと向かおうとして――。


「……っ」


 ――ソファに掛けた、サクラと目が合った。


 彼女はローテーブルにタブレットや、資料を並べていた。恐らく、宿題を消化しているのだろう。


 少しの間、私たちは睨み合った。彼女の目は相変わらず冷たくて、それがチクリと、胸を刺す。


 けれど、言葉を交わす余裕はなかったので、私は早足で、逃げるようにその場を後にする。


 自室までの、ほんの数分の道のりが、無限に遠く思えたのは初めてだ。上がる心拍を抑えながら、どうにか辿り着いた私は、自室のドアノブを捻る。


「あ、おかえり、シオン。今日は早かったね」


 ソーヤは、朝と変わらぬ様子で、私のベッドに腰掛けたまま、手にしたタブレットで本を読んでいるようだった。


 私の趣味で、ライブラリには少女向けのコミックやファッション誌ばかりが並んでいるはずだが、退屈はしなかっただろうかと心配しつつ、食料の入ったバッグを置いて、一息吐いた。


 そんな私を、ソーヤは怪訝そうな目で見つめていた。


「……シオン、なんか、顔色悪い? もしかして、学校で何かあった?」


 その問いかけに、思わずギクリとする。そういえば、彼は昔から変に勘が鋭いところがあったのだ。


 こうなれば、誤魔化そうとしても墓穴を掘るばかり。それがよくわかっている私は、正直に話すことにした。



「……うん、ちょっとね。サクラと喧嘩しちゃって」


「サクラと? 珍しいね、二人とも、昔からめちゃくちゃ仲いいのに」


「うん、多分、初めて。だから、どうしたらいいのかわからないんだあ……」



 私は、人付き合いが苦手だ。

 誰かに合わせるようにして笑えない。

 誰かに合わせるようにして頷けない。


 嫌いなものはとことん嫌いで、好きなものはとことん好き。それを隠したり、誤魔化したりすることができない。


 だからこそ、何でも話せるサクラは、私にとって唯一にして無二の親友だった。何を話しても受け入れてくれる。何を話しても、理解してくれる。


 そんな彼女と私の心は、たぶん今、致命的に離れてしまっている。もう、その中を覗き見ることもできないくらいに。


 それがなんだか、酷く痛くて、苦しい。


「ぶつかることは、悪いことじゃないさ」


 ソーヤは、私の買ってきた食材の袋を覗き込みながら、何でもないことのないように続ける。



「譲れないものがあるなら、衝突だってよくある話。問題は、その後どうするか、じゃない?」


「……そのあと?」


「そう、シオンは別に、サクラと絶交したいってわけじゃないんだろ?」



 絶交なんて、絶対に嫌だ。

 そりゃ、少しくらい過保護なところはあるけど、それだって私のためだって知っている。


 今回だってそうだ、彼女は間違ったことなど一つも言っていない。間違っているのは――。



「僕はね、シオン。間違いだとか正しいだとか、本当は存在しないんじゃないかと思うんだ」


「――え?」



 まるで、心の中を読まれたかのような、ぴったりの言葉に、私は俯きかけていた顔を上げた。


「人は、誰もが正しくあろうとしている。だから、あるのは"正しさ"と、もう一つの"正しさ"だけ。だから、大人たちはよく、『折り合いをつける』なんて言葉を使うんじゃないかな?」


 正しさと、正しさ。 


 本当にそうなのだろうか。私には、自分の信じるものが正しいかどうかの自信がない。


 この、エゴの塊に正当性があるとすれば、それは私の頭の中だけのお話だ――その自覚があるから、いつまでも胸が詰まっていて、いつまでも息苦しいままなのだろう。


 それでも、彼の言葉を信じたかった。私がサクラにぶつけてしまったこれも、正義と呼んでいいのならば、まだ、疼痛を誤魔化すことができそうだったから。



「……じゃあ、さ。仮に、私もサクラも正しかったとして。私はこれから、どうしたらいいんだと思う?」


「どうしたら、って言うのは?」


「ほら、仲直りとか……なにか、いい方法があったりしないかな?」


「うーん、そうだね……じゃあ、僕が間に入るなんて、どう?」



 私は全力で首を振った。気持ちは嬉しいが、今それをされても、状況はこんがらがるばかりだ。


 純粋に微笑む彼を見ていれば、「喧嘩の原因は君だよ」なんて、言えなくなってしまう。だから、ここでも私は、曖昧に誤魔化すことにした。



「う、うん。それもいいと思うんだけど、ここは私がちゃんと、自分で動いた方がいいと思うんだ」


「……そうだね、シオンの言う通りだ。ごめん、少し、短絡的すぎたかもしれないね」


「なんで謝るのさ。別に……」



 別に、彼もまた、間違ったことを言ったわけではない。

 人間同士のやり取りに、絶対の"正しさ"はない。なるほど、これが、彼の言っていたことなのかと、私は心中で納得した。


「……謝るよ、ちゃんと」


 だから、たぶん、ここで私が選ばなきゃいけない答えは、最も真っ直ぐなものではあるべきだ。



「全部落ち着いたら、ちゃんと謝る。許してもらえなくても、許してもらえるまで。あんまり難しいこと考えるの、得意じゃないもん」


「……あはは、なるほど、シオンらしい」



 結局は、それしかないのだ。


 無茶をしてごめんなさい。心配かけてごめんなさい。言うことを聞かなくて、ごめんなさい。


 彼女に伝えたい言葉を探せば、そのどれもが謝罪の色を帯びている。あとはこれを、素直に口にできる時に、言葉にするだけ。


 それは決して、難しいことだとは思わなかった。



「それじゃあ、ひとまず僕にできることは無さそうかな。あとは、シオン次第、って感じ?」


「うん、そうなるね……」



 と、返事をした後に、ふと、頭に過ぎるものがあった。「あ」と、短く漏れた声に、ソーヤが首を傾げる。



「どうしたの? 何か他に、まだ心配なことが……?」


「いや、心配ごとってわけじゃないんだけど……ちょっと、気分転換はしたいなって」



 話しながら、私の頭は、打算的に会話を組み立てていく。


 丁度、いい機会だ。ここであの話もしてしまおうと、更に言葉を続ける。



「ほら、明後日さ、祝日でお休みでしょ? 少し、出かけたいなって」


「お出かけ? うん、いいよ。でも、僕はお金持ってないけど……」


「私が何とかするよ、付き合ってもらうんだし。それで、行きたいところなんだけど……」



 私はそこまでを口にして、視線を部屋の隅に置かれている机に向けた。正確にはその上に立てられた、古い写真立てに。


 歩み寄って、手に取る。写っているのは、今よりも幼い私と、まだ黒髪だった頃のソーヤ。それを、胸の辺りに抱くように掲げながら、ゆっくりと振り返る。


「ほら、懐かしくない? 南地区のテーマパーク! 新しいアトラクションも増えてるみたいだし、ちょっと行ってみようよ!」


 我ながら、白々しい言い方だったと思う。


 しかし、私の計画を成すためには、ソーヤも一緒に"コスモ・エクスプローラ"まで来てもらう必要がある。


 だから、少し強引だけど、こうして誘うしか無かったのだ。


 たぶん、笑顔は引き攣っていたと思う。もしかすると、声もわざとらしかったかも。それでも、ソーヤは。


「……うん、いいよ。僕も入院が長かったし、テーマパークなんて随分久しぶり……になるのかな?」


 そう、優しく微笑む顔に、思わず安堵してしまう。

 疑うことも、問い質すこともしない。信頼してくれているのか、それとも。


 とにかく、今は彼がすんなりと受け入れてくれたことで、胸のつかえが取れたような気持ちだった。


「やった! それじゃ、私、パンフレット用意しておくね! 確か、【Helper】から、オンラインのページで……」


 少しだけ上ずった声で、そして、それ以上に浮ついた気持ちで、私は手首の端末に目をやった。


 そこで、気がつく。どうやら、誰かからメッセージが届いているようだった。


 一体、誰が――と、確かめようとして、脈が飛ぶような感覚と共に、心臓が凍りつく。


「……シオン?」


 不審げな私の様子に、ソーヤが覗き込んでくる。それを、適当に手を振って誤魔化して。


「う、ううん! なんでもない、それじゃ、私はそろそろ、晩ご飯に行かなきゃだからさ……」


 後ろ手に隠した、【Helper】の画面上。

 そこに、まるで狙い澄ましたかのように、或いは、見透かしたかのように送られてきたメッセージが、無感動に浮かんでいた。



『面談予定追加 明日、17:00〜

 場所は西地区第二研究棟の301研究室。担当者はフウリン・カンパニュラ』





 

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