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純也くんは、恋愛シュミレーションゲーム『プリンス・ロマンチカ』の人気キャラのひとりだ。俗に『プリロマ』と称されるこのシリーズは、発売5年目で最新まで全3作品。純也くんこと神崎純也は2作目からの登場だが、人気投票では1作目からの不動のトップ千賀圭介に次ぐ票数を獲得している。
彼の魅力は枚挙に暇がない。若手の実力派ホープと名高い声優をキャラボイスに起用。茶味がかった猫っ毛に中性的な顔立ちをしており、目元の泣きぼくろがあざとくもいじらしい。迷子になった子猫を放課後遅くまで探してくれたり、貸したノートの隅のらくがきを見られて恥ずかしがったり、いわゆる『王子系』でありながら時折見せる年相応の男の子っぽさはイベント発生毎にファンを悶絶させた。彼の登場時のエピソードは、私も愛してやまない。
電車が私の降りる2つ手前の駅に差し掛かる頃、SNSの投稿に1件のコメントがついた。『ぴさろ』というアカウント名は、タイムラインで何度か見かけた記憶があった。
『きゃー!すごいお部屋!じゅんじゅんクラスタの鏡ですね(><)トレンドの方、もっと順位あげてきましょー!』
『クラスタ』がファンの集団を意味する用語であることは、最近覚えたばかりだった。返信の言葉を探す指が、ありがとうございますで止まる。
てんとまるを行ったり来たりして、結局、前者を選んだ。
『ありがとうございます、今日が一番幸せです。純也くんの誕生日の翌日が自分の誕生日なんてクラスタの誇りです』
送信を終えると同時に、車内のアナウンスが降りるべき駅の名前を告げた。乗客の数人が席を立ち始める。向かいの席で居眠りをする中学生の手からすべり落ちた少女漫画の帯に私の目がいく。
運命なんて、安っぽくて馬鹿馬鹿しいものを、結局心のどこかで探しながら私たちは生きているのだ。そうして私は純也くんに出会った時、確かに思ったのだ。
この人だって。
「落ちましたよ」
漫画を手渡された子は視線を合わせることなく頭を下げて、いそいそとそれを鞄の奥に収めた。
二台のローラーの間から、永遠と海苔が吐き出される。それをプリンターに似ていると例えるのはいかにも自分の想像力の無さを露呈するようで嫌になるが、やはり等間隔で流れてくる黒ぐろとしたそれはインクでベタ塗りにしたコピー用紙に見えた。こんなバグの産物みたいなものをよく食卓にあげる気になったものだと奇妙な感慨すら覚える。
第四工程のレーンは味付け海苔の品質の最終チェックを担う。勤務し始めのときこそ全神経を注いでコンベアに張り付いていなければならなかったが、慣れてしまえば後は退屈さとじゃれ合うだけの時間になった。
大学4年の夏休みを終えてまだ手元に一通の採用通知を受け取れなかった私に、母が遠縁を手繰って繋いできたコネが、この小さな海苔工場だった。もう3年前になる。
自宅からバスと電車を乗り継ぎ3時間半。ここに面接に来た当時のあの殺伐とした感覚は今でも思い出せる。養殖場の磯の香も、工場に充満するしょうゆの匂いも、好きになれなかった。採用を知らされた母は涙を目に浮かべたが、私は職員駐輪場で廃車同然に転がっていた自転車を思い出していた。あの場所の潮風に当てられて、私もまた、錆びついていくのだろうと思った。
とりとめのない回想にふけっていても、両手は正確に海苔を選抜した。私は機械だった。必要なのは自由に動く手足と命令を理解するだけの頭であって、経歴や思想や協調性ではない。高校時代に教師が説いた次世代のリーダーのなんたるかなどは、端の破れた不良品よろしく容赦なく排除された。
昼休みのサイレン。配給の弁当を受取り、休憩室の空いたベンチに腰掛け携帯を開いた。新規の通知は50件以上届いている。SNSを覗けば、私の投稿の評価は3桁を超えていた。
純也くんの人気ぶりが誇らしかった。
『ぴさろ』からその後の返信はない。
味付けの濃いヒジキを口に運びながらスマホをいじっている間にも、次々と工場から人が戻ってくる。そのほとんどは女性だ。大半が同じ工場の職員の身内かパートの主婦かで、平均年齢は40前半といったところだ。30代より若いのは、私と、もう一人くらいだった。
不意に勢いよく出入口が開き、室内の騒々しさを割って甲高い声が響いた。
「おっばちゃーん!腹減った、弁当弁当」
「はい、ユイちゃん」
「あざーすっ」
アンタぁ、もうちょっと可愛らしくしゃべんなさいよと配給の作業員が言うと、うっせえババアと叫び返す。別の女性が、そりゃ違えねえと手を叩くと他の作業員がどっと笑った。
30代以下のもう一人こそ、この遠藤結菜だった。というより彼女は私よりも遥かに若い。中卒だ。工場長の甥の娘で、高校受験も就活もせず遊び回っていたところを強引にここへねじ込まれたという話だ。
来たばかりの春こそ生意気な振る舞いと言動で顰蹙を買っていたが、次第に生意気さは奔放さと受け取られるようになり、年齢も相まってやんちゃな孫を愛でるように大事にされている。
私はこの子が苦手だった。例えば、声の大きいところが。よく笑うところが。自信を秘めた瞳が。遠慮のないもの言いが。
団欒を避けるように視線を天井に移すと、家主を無くした蜘蛛の巣が四つ角で大きくたわんでいた。
「原田さァん、化粧なんて珍しいねえ。デートねえ?」
空の弁当を返却しようと席を立ったとき、声をかけてきたのは近くにいた中年の女性だった。「あら、本当ね」とすぐ隣にいた人も私の顔を見上げた。それぞれ後藤、占部、という名札を付けていた。
「違います。仕事の後、街に用事があるので」
最初の否定を聞いた段階ですでにふたりは興味を失ったようだったが、話掛けた手前、あっさり会話を打ち切る訳にもいかない、そんな思考が透けて見えた。
「用事って何ね?やっぱデートねえ?」
後藤の口調は大げさで、わざとらしい。どうせ違うんだろって顔して、その上で聞き重ねるのが優しさだろって眉間に滲んでる。占部はもう手元の婦人雑誌を捲っていた。
「誕生日ケーキを買いに行くんです」
後藤はそこで少し黙った。大方、誰の誕生日か、とか言おうとしたんだろう。けれど私が一人暮らしであることやそう交友関係が広くないこと察して閉口した。
黙らないでよ惨めじゃんか。思ったけどそれは心の内だけで、彼女らの目にはいつものように無口で無愛想で気の弱い女が不快そうに俯く姿しか映らないだろう。
居心地の悪さばかり膨らむ空気に救いを求めたのか、後藤は標的を変えた。
「ああ、ユイちゃん!クッキー食べるね?チョコチップ、嫌いじゃなぁい?」
遠藤結菜はちょうど女子トイレから出たばかりだった。クッキーという単語に機敏に反応し「後藤のおばちゃん、あざーす」くるりと身を身を翻す。「ユイちゃん元気ねえ」アイドルユイの登場に占部も再び顔を上げた。
占部が、私にも1枚ちょうだいと後藤に要求し、それならばと彼女はおずおずした調子で私にもクッキーを差し出した。けれど箱から取り出されたのは、小さく透明な袋だった。
「もうなくったねぇ。ごめんねェ、原田さん」
私は別にどうでもよかったのだけど、箱に小袋を戻そうとする手を、遠藤結菜が止めた。
「それ何すか?」
彼女の細い指が小袋をつまみ上げた。
「シリカゲルよ」
占部が笑って答えた。
「乾燥剤だから、クッキーとか靴とか、湿気たらまずいものに入ってる」
「うちでも最後に入れるでしょうがァ。あの、白くてぱさぱさした袋」
後藤の言葉に結菜は、覚えてねぇわ、あっけからんと居直る。私は直売所に置かれた海苔をぼんやり思い返した。
「覚えてねぇけど、これ、きれい」
確かに、きれいだとは思う。透明な小袋には、透明なビーズ。捨てる前にはいつもゴミ箱の前で躊躇してしまう。
「涙のビーズみてぇ。なんで水吸うんかな」
「あらあ、ユイちゃん詩人ね」
「ほんとォ、涙のビーズなんて素敵ねぇ」
ふたりのおばさんに思いがけず褒められて、結菜は気をよくしたらしい。
「カマチョだな。寂しいから吸い取る、的な」
なるほどね、すごいすごいと囃し立てられ、鼻高々の口ぶりだった。
「こう見えてもアタシ、保育園のとき賞とかもらってっから」
だからなんだと、思ってしまったのが、良くなかった。
「シリカゲルの元は二酸化ケイ素で、水晶とか石英がそれなんですけど、それを加工してケイ酸にして、乾燥させたのがシリカゲルです。二酸化ケイ素は正四面体が連続した結晶で、穴があるから多孔質とか呼ばれて、そこに水が入るんです。だから乾燥剤として使われるんです」
大学受験のとき繰り返し覚えた化学の教科書。うろ覚えの知識を一息に話終えると、三人は驚いたように私を見つめた。
「原田さんよく知ってるのねェ」
「おばさんにはさっぱり。大学出は違うわ」
注目の的を奪われて面白くなかったのだろう、明らかに機嫌を損ねた表情で結菜は私を睨みつけた。
「大学出て何でこんなとこにいんの?」
後藤がバツの悪そうに視線を外し、占部は不貞腐れた結菜をたしなめる。タイミングよく昼休みの終わりのサイレンが鳴り、私たちはそれとなく解散した。
一足先を歩く遠藤結菜の背を見下ろしながら、身長も、年なんて一回りも小さな女の子に、傷つけられてしまう自分が情けなかった。黙っておけばよかった。黙って、すごいねって褒めて、心の中で嗤っておけば。
残業分のノルマをこなし職場を出た後も、昼休みのやりとりはそれとなく尾を引いていた。定時に来たバスに人気はなく、私は最後尾の空席にひとりで座り、新しいSNSの投稿を無心に眺めた。
純也くんおめでとう、かっこいい、私の王子様、会いたい、ライブ楽しみ、ずっと好き。
心地よい言葉で視界を満たしても、網膜には結菜の台詞の後の一瞬、おばさんふたりの哀れむような視線が張り付いて離れない。
これからが楽しい時間なのだ。かわいいケーキ。素敵な彼。今日が一番幸せな自分。
私は前の座席を蹴り続けた。鉄製の背もたれも錆びかけたそれはギシギシと歪んだ音をたてた。
窓の外では日が暮れかかり、紫紺に陰る雲が一面を覆っていた。間もなく雨が降り始めた。
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