四の月
第24話 桜吹雪と誓い
祖父の手帳を読み終えて一週間が過ぎた頃、山あいのこの町にも桜の季節がやってきた。
新婚旅行を延期した日菜姉が、いくつか桜の綺麗なスポットを教えてくれた。けれども実は、祖父の庭にも小さな苗木が植えられていて、その枝に今年はよい蕾がたくさんついてくれて、よく咲いている。ちょうど縁側から見れるし、花見なら庭でもいいのではと思い始めた時だった。
酒屋の節子さんに庭先から呼ばれ、サンダルを履いて庭に出ると、紙包みを差し出された。包みを開けると、中身は美味しそうな桜餅だった。
「いただきもので悪いんだけど、たくさんすぎて食べきれないのよ」
「ありがとうございます」
勝手口から戻ろうとした節子さんが、ふと振り向く。
「ねえ、キヨちゃん」
「はい?」
どうしたのかと包みを持ったまま聞き返すと、節子さんはじっと私を見つめて言った。
「この頃、ちょっと元気がないから心配してたんだけど、ちゃんと食べてる?」
そんな風に思われていたなんて気づかなかったから、私は言葉に詰まる。
「少し、痩せたんじゃない?」
「だ、大丈夫です。通勤がなくなったから、運動不足かも……」
お世辞にも上手いとは言えない言い訳を口にしたが、出た言葉は戻せない。きっと節子さんには私の適当な嘘を見抜いてたのだろう。納得した様子ではなかった。
「こっちにきてからも、悩みを相談できる人はいるの?」
「何かあれば、日菜姉にしてます」
「日菜子ちゃんなら安心だと思うけど、私でもよければ何でも相談してね? ゆきちゃんには内緒にしてあげるから」
母には内緒にしてあげるという最後の言葉に、私は思わず笑みがこぼれる。
そんな私の様子にひとまず納得したのか、「それじゃね」と節子さんは帰っていった。
私は春の日差しに誘われて、そのまま縁台に座って庭を眺める。
緑がそこかしこに芽を出してきて、色が鮮やかさを取り戻してきている庭を目の前に、ため息をつく。
節子さんが心配した通り、祖父の手帳を読んでからというもの、心の整理がつかないでいる。
そんな気持ちから、宮司さんの元に赴くことができないでいる。
そうこうしているうちに今日は、もう満月。
時刻は既に過ぎている。でもクロードはまだ現れない。
それだけで、私の心は不安でいっぱいになる。そんな自分はもう手遅れじゃないか。そう思うと、笑うしかなかった。
それから食事の支度をする。私に出来ることは、温かい食事と美味しいお酒を用意することくらい。それに手を動かしていると、これ以上思い詰める暇もなくなるから。
甘い桜餅に合いそうなお酒は何だろう。そう考えながらキッチンの棚を眺めていたら、押し入れのある部屋でガツンと大きな物音が響いた。
「いってぇ、なんで箪笥が目の前に出てくるんだ」
慌てて部屋に戻ると、畳の上にしゃがみこんだクロードが、額を抑えて悶えていた。以前より装飾が目立つ、立派で頑丈そうな鎧に身を包み、長いマントまでつけている。
「お、キヨか。いつもと違うところに出たんだな…………ど、どうした?」
私に気づいたクロードが顔を上げると、箪笥の角にぶつけたのか、額が赤くなっていた。
現れた拍子に、ぶつけたのだろう。
祖父が残した月鏡の石は、今は押入れの床下ではなく、クロードが頭をぶつけた箪笥の中。祖父が書き残した通り、石は世界を繋げる特異点だと改めて実証されたのだ。
なにも言えずに立ち尽くす私を、クロードは側にきて抱きしめた。
彼が私に回した、冷たく固い鎧に包まれた腕に滴が落ちて、自分が泣いているのだと気づいた。
「この格好でまた不安にさせたか? 怪我はしてない、だから泣くなよ」
「……違う、そうじゃなくて」
「じゃあ、どうした?」
クロードは私の顔をのぞきこみ、硬そうな皮の手袋を外すと、その指で涙を拭った。
「ごめん、なんか自分でもよく分からないけど」
「うん」
「遅いから、もしかして来なくなるかもしれないって思って、それから他にもいろいろ考えちゃって」
「……ああ、前がおかしな戻り方をしたから、それで?」
それだけが理由じゃないけれど、何をどう言えばいいのか分からず、私は頷く。
「そうか、悪かった。あちらじゃまだ満月になりきってないから、失念していた。またキヨの元に戻って来れて、俺も安心してる」
そう言って再び抱きしめられた。
きっと顔を見たら緊張が解けたのだと思う。いい年をした自分が、こんな風に泣くなんて思ってもいなかった。恥ずかしさのあまり、穴でも掘って埋まりたい気分だ。
それから思いきり鼻をかんで、放り出していた料理を仕上げる。
ざっと片付けをしてから、鎧を脱いだクロードが座る縁側に、私も並んで座った。日は傾いてきて、夕焼け色に空が染まっていた。
明日は天気が崩れると、天気予報で言っていた気がする。そのせいか風が出てきて、わずかに咲いた庭の桜から、花びらが舞った。
「明日には落ちてしまうんだって。間に合ってよかったね」
クロードは、一月に見たような、仕立てのいい服を鎧の下に着ていた。その黒い生地に、桜の花びらが落ちる。それを指でつまんで、クロードは眺めていた。
「前に、神社の桜を、亀蔵殿と見に行ったことがある。参道途中から山に入ってすぐのところで、一本だけ
立派な山桜が咲いているんだ」
「そこは私も小さかった頃に、じいちゃんに連れていってもらったことあるよ。行ってみる?」
「いや、もう暗くなるから、やめておこう」
「大丈夫よ、明かりがあるし」
渋るクロードを急き立てて、私はランプ型の電灯を持ち出して、神社へ向かった。並木というわけではないので、地元の人もわざわざ見に行くことはない桜。二人で花見にはちょうどいい場所だった。暗くはあったけれど、境内の参道の明かりが思ったよりも近く、花見には十分な明るさだった。
小さな塀を乗り越えて一歩山に入ると、ざわざわと風とともに葉擦れの音。それから桜吹雪が舞う。
「綺麗だね」
クロードもまた、大きな枝を伸ばす桜を見上げて頷いた。
「こんな風に咲いて散る花は、やっぱり桜しか見たことがない」
「うん、いいよね」
「こっちに来るようになってから次の春の季節に、ここに連れてきてもらったんだ。そしたら俺、涙が止まらなくなって、子供のようにわんわん泣いてさ。思ってたよりも桜ってのは、あちこちの思い出に結び付いているものなんだな」
クロードは苦笑いを浮かべていたが、少し前の自分と重なり、笑う気にはなれなきった。
「辛かった?」
「自分でも、よく分からなかった。懐かしいのか、悲しいのか、嬉しいのか」
「そう、さっきの私と一緒だね」
「まあ、泣いてすっきりした。キヨは?」
「恥ずかしいから、もう聞かないで」
私は照れを誤魔化しつつ、手提げかばんから、小さな杯と酒を取り出した。するとそんな私を見て、クロードが派手に噴き出し、声をあげて笑う。
「どうせ、じいちゃんと同じとか言うんでしょ。欲しくないの?」
「そりゃ、貰うけどさ。ただ……くくっ、さすがに亀蔵殿も、ここに酒まで持ってこなかったから」
「わ、悪かったわね、酒好きすぎて! 節子さんからいただいた桜餅もあるんだから。ねえ、いつまでも笑わない!」
腹をかかえながら笑うクロードの背を、手ではたいておいたが、びくともせず。結局、乞われて盃を渡す。
並々と注いだ盃を合わせると、そこにピンクの花びらが舞い降りる。
「先週、日菜姉が真っ白な花嫁衣装を着て、綺麗だったな」
お式では、今手にしているのと同じ朱色の盃で、白無垢の日菜姉は口をつけた。そのとき綿帽子から見える、日菜姉の横顔が綺麗で、見ていて胸が詰まった。
「寒くないか?」
「ううん、そっちこそ」
四月でも山に囲まれたこの町ではまだ寒い。スプリングコートを着てる私より、厚手とはいえシャツ一枚のクロードの方がよほど寒そう。
クロードは腰の高さほどで折れた杉の枝にもたれ、私を引き寄せた。こうしているだけでも充分風避けになるほど、私たちには体格差がある。
「日菜の式は無事に済んだんだな。腹の子は?」
「順調みたい」
「そうか良かった。実はこっちもおめでたで、嬉しいこと続きなんだ」
「それ、もしかしてお姫様?」
「ああ、リコとの第一子だ」
クロードは柔らかい笑顔を見せて、桜を見上げた。それににつられて、私も満開に咲き誇る桜を目におさめ、改めて乾杯した盃の酒を飲み干す。
「喜ばしいが、身重の体では行軍には同行できない。それで結局、俺も前に出ざるを得なくて。それであの派手な鎧になった。まあ周辺国にも顔がきくし、仕方ない」
「旗印になるってこと? そんなことになったら、相手はあなたを目標にするってことでしょ?」
「旗印はあくまでも姫の伴侶となったリコだよ。あいつは強いし、警護も厳重に念を入れている。俺だって、そう簡単にはやられない」
クロードが俯く私の頭に、そっと唇を寄せてきた。
「なあキヨ」
「うん?」
「後悔、してないか? 俺の気持ちに応えたことを」
驚いて見上げようとしたけれど、クロードが更に頭に顔を寄せたせいで、動けなかった。
「俺は、キヨが想像もできないような酷いことをしてきてる。数えきれないほど、命も奪ってて……あの日、追ってきたかつての仲間を、仕方がないと言い訳をしながらも、この手にかけた。こうしてキヨを抱き締めている手は、血に濡れて真っ赤だ」
ああ、あの雪の日、クロードがむせび泣いたのは、そういう事だったんだ。
「そんなことは分かっていても、目の前のキヨに、手を伸ばさずにはいられなかった。もしキヨが亀蔵殿との思い出のために、情に流されているなら」
続く言葉を聞きたくなくて、重ねるようにして畳みかける。
「そんなの、私だって考えたよ。じいちゃんが大事にした友人だからとか、あんなに怪我ばかり見せられて、吊り橋効果みたいなものじゃないかって。あなただって、ご飯を食べさせてもらって絆されただけじゃないかって」
「そんなことはない! いや、飯はたしかに美味いけど」
私の言葉にたじろぐクロードは、根本的に優しすぎるんだと思う。抑えられていた頭を振り払って、じっと見上げる。
「じゃあ聞くけど、クロードは私のどこが好きなの? 私は素直じゃないし、頑固だし、生意気で可愛くない。そのくせ臆病で弱いし」
「どこがって、全部だ」
「はあ?」
なにそれ。面倒くさい質問への、適当な返事の代表みたいなの!
そんな不満が顔に現れていたと思うのに、クロードは動じることなく繰り返した。
「全部。顔も声も、細い手足も、抱きしめると意外と柔らかい感触と、意地っ張りで、優しくて、すぐ照れるところとかも、キヨの存在全部が可愛い」
「や、やめて、恥ずかしいから!」
思い切り赤面しながらクロードを黙らせるべく、彼の口を手で抑える。
いや、聞いたのは私だけどね、まさか真顔でべらべらと次から次へと出てくると思わないじゃない。せいぜい照れて口ごもって、答えられないと思った。私と同じで……
しかしクロードは揺るぎない。
私は抑えていた手を外されて、そんな彼に、真っ赤な顔をのぞきこまれる。
「キヨは? 本当に、俺みたいのでいいのか?」
仕返しをされる。
でも答はもう決まっていた。
「どうしてなのか分からない……でも私はクロードがいい。じいちゃんがダメって言っても、もう出会う前には戻れないよ」
「キヨ。誓ってもいいか?」
「誓う?」
「そう。これから何が起こっても、たとえ離れ離れになっても、俺の伴侶は生涯キヨだけだ。そうだな……この桜に誓おう」
クロードは持っていた盃に、酒を注いだ。
「まって、いいの? だってもし、こっちに来られなくなったら? そんな縛れないよ、あなたのこと」
「いい。元々むこうで嫁をもらう気はなかったし。これは俺の決意だから、キヨには強制しない。キヨには幸せになってもらいたいから、これは俺だけの誓いだ」
そう言って桜に盃を掲げると、一気に酒を飲みほした。
私は空になった盃をクロードから奪い、もう一度そこに酒を注ぎ、クロードがしたように桜に掲げた。
「まて、キヨは……」
「私も誓う。私の伴侶は、生涯クロードあなただけ」
慌てるクロードを横目に、酒を飲みほした。
日菜姉の慎ましさには程遠いけれど、それでも私は満足だった。
「……本当に、頑固で意地っ張りで、心配になるくらい、思い切りがいいのな」
「不満だった?」
「いいや、最高だ」
どちらからともなく、唇を寄せて……触れそうになったその一歩手前だった。
「お二人さん、そのようなおめでたい誓いでしたら、いっそ神前でされたらどうでしょう」
突然声をかけられ、私たちは飛び上がるほどびっくりして、振り向く。
すると参道の向こうから、袴を着た宮司さんが、にこやかに手を振っている。
「ここは冷えますから、お茶でもどうですか。よろしければいったん社務所へおいでください」
そう言って宮司さんは背を向けた。
私たちはいったん顔を見合わせ、一部始終を見られていたことを誤魔化すように咳払いをし、離れる。
「勝手に入ってたから、怒られるんだろうか?」
「ええと……きっと大丈夫よ、行こうか」
心配そうなクロードにランプを渡し、私たちは手を繋ぎ社務所へと向かった。
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