オカルティック・コード

涼暮皐

第一章

1-00『プロローグ/平穏な日常の終わり』

 ――赤い色は、別に嫌いじゃなかったんだがな。


 なにせ派手だしカッコいいから、と日下くさか代介だいすけは考えていた。現実逃避なのだろう。

 それを人生の最期に覆してしまうのは、少し格好が悪い気がした。

 とはいえ、流れ出る鮮やかな赤の出どころが自分の脇腹となれば、さすがに話が変わってくる。


 すでに全身から、力が抜け出ていることは理解できている。

 なるほどこいつが生命力の消えていく感触なんだな、なんて。

 そんなことを、倒れ伏したまま間抜けに思っていた。

 どうやら、あと数秒もしないうちに命を落とすらしい。


 痛いというより熱かった。それはそれで耐え難い苦しみだが、抗うだけの体力がもはや遺されていないのだ。

 もちろん死にたいなんて思わない。叶うことなら、何かの奇跡で助かりたい。

 そう思う一方で、頭の片隅にある冷静な思考というものが、色濃い絶望をしっかり認識している。


 思えばこいつは意地だった。

 生まれつき少しだけ赤みがかった地毛を、幼い頃はよくからかわれたもの。けれどこの髪の色は、顔も知らない母に残してもらった数少ないものなのだ。それを誇れないような自分にはなりたくない。

 だから、赤色が好きだと言い張っていたのだろう。


 ――まあ俺の髪は見方によっちゃ黒に近いし、この血の色とはだいぶ違うだろ……。


 そんなことを考えている。どうにかして生き残るとか、この場からなんとか逃げ出そうとか、そういった現実的な思考が浮かばない。

 それは生存への諦めではなく、苦痛から逃れるために脳が理性を休めているから。


 死にたくない。

 こんな何もないところで、わけもわからず、命を落とすなんて絶対に嫌だ。


 感情がそう叫んでいる裏側で、どうにもならない現実を直視せず、せめて安からであるように、と理性が現実への把握を拒んでいる――きっと、そういう状態にあるのだ。


 だからだろう。

 目の前に落ちている一冊の書物が、どうしても気にかかってしまった。

 形見の品。今ここで代介が手を伸ばせる、たったひとつの、家族との絆。その証。


「――ようやくだ。ようやく、手に入れることができる!」


 自分を殺した人間の声はもはや聞こえていない。


「しっかりしてください、死なないでっ! お願いです、日下くん……っ!」


 自分を助けようとした少女の姿ももう映らない。


 血が流れていくのに伴って薄れていく意識。

 そのわずかな最後のひとかけらで、少年は奪われそうになっていた書物へと執着した。それだけは、渡してなるものかと考えた。

 だからといって、彼に何ができるわけでもない。

 できたことはひとつだけ。すぐ目の前に落ちている本へと、這うように手を伸ばすことだけだ。手についた自らの血液で、本を汚してしまうことになったけれど構わない。


 そして無論、こんな足掻きにはなんの意味もない。

 突然の殺意によって、無様に地べたへと倒れ伏した力なき子ども。ごく普通の高校生に過ぎない彼には、ただ本へ手を伸ばすことだけがただひとつ可能だったことなのだ。

 その程度で運命は変えられない。

 彼にもたらされた数秒後の死の未来が、覆せるはずもなかったのだ。


 だから。


 もしも運命を変えるものがあるとしても、それは決して彼の力ではなく。

 けれど確かに、少年の手は、運命を変えるだけの力に届いていた。




 本に指先が触れた瞬間、少年は光を見た気がした。

 錯覚だったのか。あるいは死の間際に天国でも垣間見たということなのだろうか。このとき、彼にはわからなかった。

 確かなことはひとつ。




 ――その瞬間、平凡で穏やかだった日下代介の日常が、終わりを迎えたことだけだ。

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