31話 まどろみに沈む

 朝、目が覚めた時にカーテンを開けなくとも、その日の天気を当てることができた。

 降り注ぐ雨水に打たれたアスファルトから登る香りが、教えてくれたのだ。

 ペトリコールなんていうらしい。

 独特の、煙っぽくて生暖かい、好きでも嫌いでもないそれが今、どうにも懐かしく思えてしまったのだ。

 長いこと嗅いでないそれを正確に思い出すことは......難しい。いや、そもそも、匂いを思い出すこと自体が難儀なのだ。

 赤緑青の組み合わせで自在に表現できる色、大小高低で奏でることのできる音、香りに表現出来るそれは、すぐには見つけられない。

 カメラのメモリのように、香りも保存できたら良いのに。瓶詰めにして何回も何回も、いつまでも楽しめるような。そんな素敵なものがあったら、もう少し世界も優しくなってくれると思うのに。

 窓越しに屋根を、葉を、地を打つ音の大群の到来を聞いた。焦点が合わずぼやけた世界が少しずつ、ひとつぶ、またひとつぶ落ちるたびに鮮明になっていくよう。

 今、その正体を教えてくれるあの匂いはここに居ない。代わりにあるのは草木の青臭さと、いつもより濃い潮の香りだった。

 どちらも色濃く主張し混ざり合うものだから、ずっと嗅いでいると気分が悪くなりそうだ。

 この匂いもいずれ、この学院を離れたら嗅ぐことも無くなるだろう。そう考えると好きでなくとも名残惜しさというか、少し寂しい気持ちになる。

 まだ二年半も付き合いがあるというのに。

 身体を起こし少し伸びをしながら、いつもより多めにそれを吸ってみる。


「ケホッ」


 少し、むせた。けれど性懲りもなく何回も、何回もそれを取り入れた。

 とりあえず、それを忘れてしまわないように。


「今日はずいぶんと早起きじゃない」

「ん……おはよう。透子」


 声もまた、上から降ってきた。

 木製の二段ベッドが少し軋むような音を出しながら、それはどんどん近づきやがて衣擦れと温もりを運んでくれた。

 私のベッドに透子が入ってくるようになったのはここ最近のことで、どうやら多蔦さんになにか吹き込まれたらしい。初めて入ってきた時は少し驚いてしまったけれど、今はもう何も感じることなく受け入れて、伸ばした身体を贅沢にもまた布団に潜りこませる。


「春学期のことはいつも起こしてくれてたのに。今はもう私より寝るのが好きなんじゃない?」

「別に目的は寝ることじゃ……でも、そういうことにしておいてあげる。それに、せっかくのお休みでしょう? 早く起きたところでやることなんてないじゃない」

「地に落ちたわね……」


 呆れはするけれど、言わんとすることが全く分からないということもない。この生活に慣れてくればくるほど、この学院での休日の過ごし方というものがわからなくなる。正確には何もしないということをすることはできるけれど、年頃の女の子がそんなことで時間を潰すなんてこと、進んでやろうとは思うはずがない。

 少し冷えた部屋の中で身体を寄せ合って、不規則に奏でられる雨音を聞くことすらも有意義と言えば有意義なんだろう。ここでの暮らしの中では。

 すぐそこに居る彼女からは草木とも潮とも違う、棘のない優しい匂いがする。シャンプーの匂いではなくこれは、彼女自身の匂いなんだろう。この匂いは好きだ。それがもともと好きだったものなのか、好きな人越しに伝わるから好きなのかは、わからない。


「外の匂いよりよっぽど好き」

「わたし、雨の日の匂いって結構好き。でもそれよりも、礼が好き」


 若干の眠気を帯びている透子と居るとどうにも……調子が狂う。

 急にそんなことを言われてしまってはなんだかこうして一緒に寝ていることすらもどこか気恥ずかしい気がしてしまって、けれど布団も彼女も払うこともできず、その言葉に包まれて動けないでいる。

 好きと言ってもらえることが嫌なわけではない。けれど……よくわからない。私は私のことを好きではないし、何が良いのか考えたこともあったけど、次第に恥ずかしくなって意識的に考えないようにしていた。

 だからと言って透子に直接聞けない。というよりもしたくない。

 私だからそれができないわけではないだろうし、むしろ世の中的にはできない子の方が大多数だと思う。面倒くさい女という自負も途中でやめた。

 ――私は、私を好きになれるのだろうか。

 時々、考えることがある。

 今こうして私を好きでいてくれて支えてくれる透子ともいずれ卒業したら、離れることになるだろう。仮に大学が一緒であってもその後は? ずっと彼女に支えられて、それを甘んじて受け入れる私は子供のままで、彼女だけが大人になっていって、すべてにおいて置いていかれてしまったら……なんてことを。

 私は私自身が支えていかなければならない。そんな時でも、自分のことが嫌いで嫌いで仕方なかったとしたら、おそらく私は私を置きざりにしてしまうだろう。

 逃げ続けてはいけないのだと、向き合う時が来ているのだと、誰にも言われないからこそ余計にそれを意識させられる。


「どうしてそんなに……好きでいてくれるのよ」


 抱きつく形で寝息を立てている透子に呟いてみても、返ってくるのはかわいらしいそれだけ。


「私を好きなあなたをもっと好きになれば……それもわかるのかな」

「んうぅん……」


 肯定してくれているようで、道を示してくれているようで、心に灯が灯ったような気がした。

 そう、それでいいのね。

 私は私を好きになるために、私を好きな彼女をもっともっと、好きになることから始めてみることにした。

 流線形に流れる髪にそっと撫で、もう少しこのまま一緒に居ることにしてみよう。

 ――おやすみ。大好きな人。

 

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