第19話 親友

 14歳3ヶ月と10日。その日、MF柳井祐希は天才ではなくなった。


 少年サッカーでは、1チーム8人制などのルールを用い、子供たちがボールにより多く触れる機会を与える指導法が通例となっている。また、ポジションを固定せず、色んな選手が色んな役割を経験し、サッカーそのものに対する理解を促していくこともある。

 日本の少年サッカーにおける英雄や天才は、所謂『エースストライカー』や『中盤の支配者』であることが多く、彼らはチームを引っ張る存在であると同時に、彼らの出来が試合の結果を大きく左右するものだ。

 柳井少年は、我儘、傲慢、エゴイストと呼ぶに相応しい点取り屋だった。つまりポジションで言えばフォワードだった。

 『天才』。その形容は全国規模で見れば何十人、何百人と同世代にいるものだが、そんな中でも柳井祐希は突出したレベルのストライカーとして、名を轟かせていた。

 全日本少年サッカー選手権で母校の優勝と得点王を取ったのが、六年生の時。その後中学では部活動には所属せず、地元のクラブチームのユースに柳井は、籍を置いていた。

 足元の技術にも優れ、何が何でもボールをゴールに入れる姿は頼もしく、たぶん彼はどんな仲間とサッカーをしても、自分の特徴を出せるタイプのプレイヤーなのだろうと思わせた。

 自他ともに認める万能型。敵にも味方にも尊敬される存在。

 柳井祐希は自分のことを、おそらく天才だと思っていたことだろう。

 あの日、“彼”に出会うまでは。


 中学二年生のとある試合で、柳井祐希は初めて能美水流と出会った。

 Jリーグクラブのユースチームが集まり、メンバーを混成して試合を行うキャンプイベントで、柳井と能美は同じチームになった。私はその大会の運営委員の一人だった。

 当時から体も大きく、威圧的でオーラもあった柳井は、当たり前のようにチームのリーダーシップを取っていた。普段交流のないメンバーで試合を戦う以上、得意なプレイやポジションを聞き、まとめながら布陣を敷かねばならない。試合前の15分程の準備時間で、柳井が作り上げた戦術は、GK1名、DF4名、MF5名、FW1名。その4―5―1のスタイルで、自身をエースFWの位置に配した。同じくFWを生業としていた能美は、右サイドハーフという配置に文句は言わなかった。

 試合が始まる。献身的なプレイを見せるチームメイトからのパスで、先制点は柳井が決めてみせた。ここでも自分は物が違うということを見せつけようと彼ははしゃいでいた。

 ところがそこからは相手のペースとなり、畳み掛けるように3点をもぎ取られてしまう。自分のやり方が間違っているとは思わない。思い通りにいかずイライラする柳井。パスミスをする味方を叱りつけて鼓舞しようとした。

 「まあまあ、そんなにピリピリするなよ」

 見兼ねて声を掛けてきたのは、これまで全国大会などでも顔を合わせたことのない、右MFをやっている能美だった。凡人が俺に偉そうにするな、と言わんばかりに、柳井は能美の忠告を無視した。

 4点目を取られたところで、柳井は試合を諦めそうになった。今日の試合はチームも普段と違う。自分の良さを知らないボンクラ共とこれ以上のサッカーは出来ない。そう達観した気になっていた。

 右サイドにボールが入る。いつもならここで「俺に出せ!」とエゴイズムを見せてきた柳井が沈黙する。それならば、とカットインした能美水流は、スキーのスラロームのような流れるドリブルでゴール前まで侵入し、いとも簡単にチームの2点目を突き刺してみせた。駆け寄るチームメイト。輪の中心にいるのが自分ではないことに、柳井は苛立ちと、寂しさという未だ知らぬ感情を覚えていた。

 そこからゲームの流れも変わる。

 仲間たちが自分ではなく、能美を中心に攻撃を組み立て始めたのだ。パス回しに加われず、ボールも回ってこない。こんな屈辱は初めてだ。ところがそうなると、面白いようにリズムが良くなった。

 積極的な攻撃が功を奏して、柳井のチームは柳井を参加させないことで、同点、逆転に持ち込んでいった。5点の内、4点は能美のゴールだった。

 「能美くんがFWやればいいのに」

 そんな中傷が聞こえる頃には、柳井は怒る気力も自信も喪っていた。

 俺は天才のはずだ…。

 心と体が離れていく。


 キャンプでは更にメンバーを入れ替えて、一人あたり3試合を行う。柳井の成績はボロボロだった一試合目の1得点までは良かったが、そこからは取り憑かれたように放つシュート放つシュートがゴールに嫌われていた。これまでの人生でこんなことは一度もなかった。反対に別のチームに入った能美は、一試合目の結果を受けてかFWとして起用され、二試合目でもまた2ゴールの活躍を見せていた。

 自分は特別ではなかったんだ…。

 そんな気持ちが脳裏をよぎる。圧倒的な敗北感。そんなことを味わったことがなかった柳井にとって、能美の存在は邪魔でもあり、しかし羨ましくもあった。同い年。これからずっとライバルとなる相手。いや、今のままではライバルなんて到底言えない。せめて能美に認められるくらいになってこそ、本当のスタートラインに立てる。

 最後の試合で、柳井と能美は再び同じチームになった。柳井は2トップを提案した。本職ではないMFも器用にこなす能美とは違い、自分はFWしか出来ない。ならばせめて並び立とう、と。

 「いや、柳井くん、FWやってよ。俺は君が前にいてくれるとすごくやりやすかった」

 そう言って笑う能美。このたった二試合で、自身の全てを否定されたような屈辱と、自分の傲慢故に味わった孤独を嫌と言うほど痛感していた柳井は、なぜか泣き出しそうな気持ちになっていた。

 俺が潰れて、能美が活きる。そんなサッカーもあるのかも知れない。

 柳井に確かな変化が起きていた。しかし内なる変貌にチームメイトが簡単に気付く訳もなく、「あいつは口うるさいだけの能無し」という貼られたレッテルに阻止されて、柳井にはあまりパスが回ってこなかった。それでも彼は走った。多感な中学生は、心根一つで白くも黒くもなっていく。

 試合終了間近だった。ここまで能美の1点と、敵チームの1点。同点の試合展開の中で、後半が終わろうとしていた。

 このままいけば引き分けか…。誰もがそう思った時だった。

 「決めろよっ、ユウキ!」

 声とパスをくれたのは、能美水流だった。

 ずっと感じていた孤立。サッカーは自分一人でやるものじゃない。仲間がいて、それを信じる自分がいる。そのことにこんな短期間で気づかせてくれたのは、普段のチームメイトでも何でもない、能美水流という不思議なサッカー小僧だった。

 涙が、溢(あふ)れた。

 視界が滲んでよく見えない。

 柳井祐希は慎重に、こんなにも一つのボールが大切だと思ったのはいつ以来だろうか…、そんなことをゆっくりと考えていた。

 綺麗なトラップ。非の打ち所がないボールコントロール。

 GKにすら敵意を感じない無我の境地。その左足を振り抜いた。

 ゴール!試合を決める、決勝ゴール!

 振り返ると能美がいた。さっきまで敵のような顔をしていた仲間が、笑顔を破裂させていた。

 柳井はこの日、自分が天才ではなかったことを、認めた。14歳の秋だった。


 サッカーワールドカップ・アメリカ大会決勝。試合は後半45分を経過し、アディショナルタイムに突入していた。後半41分にロ‘レックスが決めたゴールでブラジルがリードし、日本は3対4と追い掛ける展開。ニューヨーク州にあるナショナル・アリーナは黒煙のような雲が立ち篭め、照明灯に入った光が降り頻る雨をダイヤモンドみたいに煌々と輝かせていた。


 私の持論の一つに、『天才は天才であることに早く諦めを持ち、天才ではなかったと認めることで開眼する』というものがある。

 世の中には様々な分野で崇められる天賦の才を持つ者がいる。

 彼らは社会的には「天才」と簡単に謳われる。しかし私が知り得る限り、持って生まれた才覚だけで生きている者は一人もいない。

 どこかで自分より強大な者に出会い、自分を見つめ直し、過去の自分に打ち勝つことで、新たな道を切り拓いていく。

 自分は天才なんかではない、だからもっと努力する。

 そうやって、自分にしか見えない自分のゴールを設定し、前に前に進んでいくのだ。

 天才ではないと認めた時点から、本当の意味で天才たちの挑戦は始まる。その時が早ければ早いほど、伸び代は計り知れないものとなる。

 柳井祐希、私の知る日本人最大のエゴイスト・ストライカーは、ミッドフィルダーとなることで、エゴイズムの先にある物を見出そうとしていた。


 ボールが水を含んで重い。いや、重いのは足取りか。後半途中から入った俺が疲れててどうする。仲間たちは皆、死ぬ想いでボールを繋いできたんだ。

 柳井のドリブルは水を含むピッチの影響もあって、ぎこちなかった。それでも懸命にボールを前へと運び出した。飛沫が乱れるように弾け散る。悪鬼と餓鬼のような形相で彼に襲い掛かるブラジルDF。これは大切なボール、必ずあいつに届けるために!

 寄せられて体勢を崩す。それでも柳井は倒れない。足が少し歪(いびつ)に曲がっても、今だけは絶対に負けられない。

 能美と出会って、彼はFW以外の仕事も覚えるようになった。今では攻撃的MFもこなすアタッカーとして、オランダ・エールディビジを舞台に活躍する日本人選手となった。

 決して器用なドリブラーではない。

 それでも歯を食いしばって、仲間がちょっとでも楽が出来るようにと、柳井はボールを12メートル運んでみせた。執念だった。執着だった。勝利への飽くなき追求だった。

 「受け取れっ!天然野郎っっ!!」

 パスを出しても、柳井は停まらなかった。パス&ゴーというのはサッカーの基本だ。だが必ずしも誰にでも出来る訳ではない。特に試合終盤、痺れる場面ではそんなこと出来なくなる者も多い。

 だからこそ、やれる者にだけ栄冠は輝く。


 『いや、柳井くん、FWやってよ。俺は君が前にいてくれるとすごくやりやすかった』


 「……だったよなぁっ!ミズルッッ!!!」

 能美水流にボールを渡した柳井祐希は、11年前のその言葉を今こそ体現しようと、ゴールに向かって走り出した。試合出場時間は確かに皆よりも短いかも知れない。でもこのワールドカップ決勝という現実離れした舞台では、時間に関係なく魔物が体を蝕んでいく。

 絡まりそうな足を両手で持ち上げるように、柳井は駆け抜けた。

 ブラジル守備陣が能美に目線を向ける。能美がボールを受ける。絶妙なトラップだ。寸分の狂いさえない。ターン。見据えるゴールマウス。

 敵の注意を分散させるべく、柳井が危険なエリアに侵入する。交差する。柳井が能美の前へ出た。釣られて動く、ブラジル選手たち。

 親友、戦友、盟友、そのクロスオーバー。

 「俺が前を行くっっ!お前は必ずそいつを突き刺せっっ!」

 時間は後半48分を廻る。廻るっ!

 柳井が作り出した、今世紀最大の好機!

 能美の前に屈強なブラジル人が立ちはだかる。柳井の動きにも惑わされない者たち。この究極の局面に於いても、どこまでも敵は王国ブラジル。


 能美水流は、嬉しそうに小さく笑った。


 彼はくるっと体を捩り、FW羽山翼と柳井、いずれに向けたか分からないようないい加減(・・・・)な(・)パス(・・)を蹴り込んだ。敵も味方も意表を突かれた。

 「おいっ、せっかく俺がっ」

 慌てて柳井がボールに寄ろうと駆けつける。彼からはパスミスに見えた。何やってるんだ、という表情で羽山も急いでボールが蹴り出された方角に体の向きを転換させる。

 観衆は騒然となった。ここまできて、日本のエースがミスをした。だとしたらこれまで彼らが紡いできた大切な物が全て瓦解する。

 自分のパスに向かって、能美がなぜか駆け出した。ボールに追いつけるほど、人の足は速くない。そんなことは今の勢いでパスを蹴った能美自身が最も解っているはずだ。

 能美がパスした方向は、確かにブラジルの守備も手薄だった。ターゲットとなる日本の選手もいないので、当然と言えば当然なのだが、それは悪手に見えた。

 残された時間はもう1分もない。そこで選ぶような、良い手では決してない。

 誰もがそう思った瞬間、いや、そんなことを計算して出来る選手が世界中に果たしているのだろうか。とんでもないことが起こった。

 ボールが停まった…。

 ボールが、突如として停まってしまった。時速60kmはあろうかという強烈なパスが、ピッチの上でピタリと静止した。

 勢いの先を見越して走っていた者たちは、急ブレーキを掛けざるを得なかった。つんのめりそうになる。

 原因は、雨。

 打ち付ける豪雨が作った、気紛れな水溜まり。そこにボールが浮いていた。誰もが予測し得ない展開に、たった一人、そこを目掛けて走る者。

 能美水流は一目散。水濠目指して浸(ひた)走(はし)る!

 「思惑通りだってのか!?巫山戯(ふざけ)てんじゃねえぞっ」

 エアポケットのように、能美が一瞬フリーになった。彼はゴールへ向かうフリをして、フェイクを入れてボールを後方へ戻した。

 そして自分は前を向く!

 ボールを受けるのは、MF氷室洋輝。能美の奇抜なアイデアに、真っ先に体を動かして反応してみせた男。

 柳井が作って、能美が描いたシナリオに、最後の旗を突き立てろ!

 日本の攻撃陣が一斉に走り出す!選択肢は複数ある!

 能美水流、羽山翼、柳井祐希、蜂ケ谷玲央、新藤司沙。

 自分の前にいる全ての選手が、氷室のターゲットだ。

 「選り取りみどりっ、どいつにするかっ…」

 氷室が足を振り上げた。その左足に、芽吹いた奇跡の種乗せて…!

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