3週目


 その人はどこか陰気で、なんとなく、あの子を連想させた。

 だからだろうか。これから死ぬつもりだったのをやめてしまったのは。


   ・


 なんだか見覚えのある道だと思って歩いていたら、かつて毎日通っていた通学路だった。この道を進んでいけば母校がある、そんな確信があった。

 不思議と頭は晴れやかで、以前のような靄がかかったような記憶の不鮮明さはなくなっていた。

 少し先に敷地がぼんやりと見えている、第二義務教育にあたる高等部の校舎。または高等学校。いわゆる「青春」を過ごした学び舎は、非常灯以外の光源をすでに落としている。あたりは暗闇に沈んでいて、人通りもまばらだった。

 高等学校の周りには田畑や自然が残っている。

 もちろん、「手つかず」の自然なんてありはしない。人が手を入れなかったら本当の自然にやられて、今頃外来の植物に飲まれている。

 ちゃんと管理会社の手によって里山の風景が残され、森も手入れが施されている。このあたりでは、かつて国民病ともなった「花粉症」において猛威をふるった杉はその数を減らし、代わりに動物の食料になりうる木の実が生るドングリやクルミが多い。

 そもそも、緑化教育のために初等学校や高等学校は必ず計画都市の郊外に配置されているのだ。

 中心地はオフィス街や歓楽街、その外に住宅街。真ん中を貫くように線路と駅。そんな街が盆地の中に点在し、その間には田んぼや畑がある。

 地方都市の計画的な復興計画を完遂した姿。大震災後、この国で増殖した「ゆとりがあって、過不足ない、『なんの変哲のない町』」の典型的な風景。

 かつての通学路は多少の変化こそあれ同じようにそこに存在していた。

 帰る家はもはやない。ぼくが第二義務教育に入る頃にはおじいちゃんは病院にいたし、ほどなくして亡くなったとき、生まれ育った家は手放した。

 なぜか都市計画とは違って残されていた古民家。耐震性も怪しいあの家鳴りの多い家。きっともう、森の中に飲まれているんじゃなかろうか。

 懐かしくは思えど、用はない。早々に道を進むことにした。

 ほどなくして慣れ親しんだ橋が見えた。街と郊外を隔てる嫌に長ったらしい橋は風が吹けばぐらぐらと足元が揺れる代物で、いつか崩れるんじゃないかと思っていたけれど。今のところ、まだ大丈夫なようだ。

 ぼくは遊歩道を進む。そして、三分の二ほど進んだところで人影を見つけた。

 母校の制服を着た女生徒。肩に触れないぐらいの髪と短いスカートが、風に煽られて舞っている。

 その子は器用にも橋の欄干に登り、両腕を広げ、ぼんやりと川を眺めながら歩いていた。

 新雪の上でも歩くかのように、一歩、また一歩と進んでいく。

 不思議と安定した歩みで、橋の中心辺りまで進んでいく。

 細い月が、雲に隠れた。よりいっそう暗闇が映える。

 影絵だ。黒のコントラストだけの世界。

 それを邪魔する車の往来すら、今はない。

 いかに見惚れる情景だろうと、危ないことには変わらない。

 橋から川は建物二階ぶんほどの距離が開いている。ぼくは何かあったときに備えて、少女を驚かせないよう、歩道を歩いて近づいた。

 ぼくは不思議と、少女に声が届く自信があった。

「……ねえ、なにやってるの。」

 ぴたり、と少女が歩みを止める。声のしたほうを探るように視線を彷徨わせる。

 ぼくは親切にももう一回声をかけた。

「こっち、こっち。」

 顔だけ振り向いた彼女は、さっきまでのうきうきした感じからは想像できないほど沈んだ顔をしていた。いや、冷めた、と言ったほうがいいだろうか。

 ぼくすら映していないのでは、と心配になる目には黒いビー玉のにぶい光。

「邪魔しないでくれる。」

「別に、止めようとは思ってないけど。」

「……変なの。」

「どちらかと言うと向こうの人間なんでね。」

 ぼくは静かに足元を指さした。見下ろした少女は透けた足を見て納得してくれたのか、ため息をついた。

「なにしてるの、ですって? 決まってるでしょ。」

 つん、と響く声だ。落とせば壊れる硝子結晶のような、硬質で透き通った声。

「わたし、これから死ぬのよ。」

 そう言うと、少女は川に向かって足をそろえた。

 その後姿はすっとのびていて、見惚れてしまいそうになるほど絵になる光景だったのだけれど、ぼくは無言でちょっと浮き上がると彼女の腰を両手で持った。

 ぎょっとした目で振り返った少女がわめく。

「――ちょっと!」

「うん。ちょっと待ってね。」

 そのまま自分の体と彼女の体をいっしょにすとん、と歩道に下ろす。

 その子の体はとても細くて、軽かった。ちゃんとご飯を食べているのか心配になるくらいに。

「君のそれは、自殺だよね。」

 少女の前で仁王立ちをする。じっと見つめると彼女はたじろいだように一歩後ずさり、「そうだけど?」と焦った声をだした。

「それがどうしたっていうの。」

「自殺にもそれなりに作法があるって、ぼくの友達が言っていたんだけどね。」

 ぼくはそれを指折り数える。

「一つ、遺書を用意すること。

 自殺をする人は、自分の死に意味を与えなくてはいけない。

 一つ、靴はきちんとそろえること。

 最後の場所に敬意を示すため。飛び降りるときもそうでないときも同様に。

 一つ、生きたかった気持ちを持つこと。

 そのうえでこの道を選ぶしかなかったと、自分を納得させるように。

 遺書はちゃんと用意した? 靴はそろえて置いておきなよ。それから――生きたかったと、そう思って飛び降りなよ。」

「……はあ。」

「それから、もう一個確認。」

「なんですか。」

 むっすりとした表情の彼女に、飄々と語る。

「これも友達から聞いたんだけどね。自殺をする人は、誰かに自分の苦しい気持ちをわかってもらうために死のうとするんだって。――つまり、本当に死に救いを求めている人は、案外少ないってこと。」

 それだけ自分は追い詰められてるんだってわかってほしいんだよ。

 そう言った友人の言葉に、ぼくは違和感を持った。

 じゃあ、自殺で死んだ人は気がついてもらえなかった人たちなんだね。

 友達はそうだね、と平然とした声で、悲し気な顔をして答えた。

「君は本当に死のうと思ってるの。」

 ぼくの話を聞いていた彼女はバツの悪そうな顔になった。それからずんずんと、来た道を戻り始める。

 さすがに深入りしすぎただろうか。

 ぼくは欄干に寄りかかって、息を吐いた。

 雲が晴れて、少しばかりの光が戻ってくる。川面が輝くでもない微妙な光。街灯が遠いぶん、幾分か役に立つだけの光だ。

「ん。」

 突然、隣から声がした。

 見れば先ほどの女生徒がぼくに向かって何かを渡そうとしていた。

 ずい、っとぼくの前に突き出されたそれは手紙の入った封筒だった。おそるおそる手を伸ばすぼくに、いらついた彼女がずい、と

 少女と手紙を交互に見ていると、「中身読んでよ。」と促される。

 ぼくは素直に封を切って中の便箋を取り出した。

 今どき珍しい紙の手紙。一枚だけの質素な便箋に数行の言葉が連ねてあった。

『遺書

 わたし、橘伊央は自殺します。

 理由は二月十四日に世界が終わると知ったからです。

 家族に虐待はされていません。とても優しかった両親にはもうしわけなく思っています。

 学校でいじめにあったわけではありません。人より何事も遅いわたしを、みんなは根気よく待ってくれました。感謝しています。

 わたしのマンガは隣の家のまりちゃんにあげてください。押入れの箱は中身を見ずに処分してください。小太郎、ごめんね。犬の散歩もうできないや。

 わたしは、わたしのために死にます。世界が終わるのを見るのが怖いので死にます。けっして、誰かのせいではありません。そこだけは理解してください。

 それでは、さようなら。』

 ちゃんとした遺書だった。

 ぼくは先を歩き出していた背中を追いかけて、隣に並ぶ。

「遺書、用意してたんだ。」

「当たり前でしょ。あんたみたいなやつに声をかけられなければうまくいってたんだけどね。」

 面白くない指摘に笑うこともできない。

 今日はもうとばないのか、橘伊央は橋を渡って住宅街へ入った。夜の淋しい街灯がちかちかと瞬いている。

 ぼくはその後ろをついていった。最初は鬱陶しそうだったけれど、そのうち気にならなくなったのか平気で話し始めた。

「ねえ。その友達は結局とんだの?」

 興味本位の質問だろう。こちらをちらりと見る目はしっかりとぼくをとらえている。

「いいや。今でも元気だよ。――たぶん。」

「なにそれ?」

「連絡とってないし。ぼくはこんなんだからなあ。」

 ぼくがそう言うと、橘伊央は何も言わなくなってしまった。

 実のところ、その友人の名前すらよく思い出せていない。

 交友の狭かったぼくの、カノン以外の友達。きっと一癖も二癖もあるやつなんだろうな。

 細い背中が一つの家に入っていくまで、遠くから見守っていた。伊央は最後にぼくをふり返って、家の中に入っていく。

 ぼくはそっと空を見上げた。まばらな星が、ちかちかと瞬いている。

「また繰り返してるのか。」

 謎の確信と共に、ぼくは静かに目を閉じた。

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