第68話 悪魔の使いの夢 その1

 二〇一〇年秋のこと。カウンセラーのセレナというスペイン人の女が、同国の夫婦ひと組を連れてナータの寺院を訪れた。


 ある日の正午、神殿で、ナータと共にみんなで輪になって床に座っていた。トラタ共和国人と数カ国の西洋人が合わせて約四十人、日本人はただ一人、渚沙の姿があった。けっこう大きな人の輪が出来ている。みんな寛いでいて、隣同士小声でおしゃべりをしていた。ナータが、親類や側近と話をしていたからだ。

 ナータの右側には、一人おいて渚沙が座っている。渚沙の右隣りには、セレナが連れて来たスペイン人の男がいて、その隣に彼の妻が並んでいた。


 ナータは側近と話し終わったかと思うと、渚沙のほうを不意に向いて、右隣の男と握手をするようにいった。ナータはよく、そばにいる人と握手をするように人々に促す。たいていの場合、誰とでも仲良く接するように、ということで特別な意味はない。そんな小さなやりとりで、見ている他の人々まで笑顔になる。緊張感がとけてたちまち暖かな空気がその場に広がるのだ。ナータは人と人を平和に結びつける天才だ。


 さて、渚沙が右隣の男とにこやかに握手を交わした後、ナータは何気ない口調で渚沙に向かってこういった。

「彼にはが取りいていたが、そのうちふたつの霊はここに到着すると、隣のニール川に飛び込んでしまった。残りの霊も、後で彼から離れていく」

 特に小声ではなかったナータのその言葉は、何故か渚沙だけしか聞いていなかった。みんな、近くの人と話をしたり、注意が他へいったりしていたのだ。

 普段、ナータに何が見えているかということは誰も知らない。こういった霊の話はまったくといっていいほどしないので、渚沙は違和感を覚えた。


 ナータはなぜ、隣の男が悪霊に憑依ひょういされているという話を、渚沙だけにしなければならなかったのか。ナータは目的もなく意味のないことは口にしない。それなりの理由があるはず……。

 そんなことを考えていると、ナータは渚沙にこういった。

「セレナと話をしてごらんなさい」

 必要な話はこれでおしまいだったようだ。ナータはまた側近たちと話し始めた。 


  同夜。渚沙は、少し時間があるかどうかセレナに尋ね、さっそく三階の見晴らしのいいバルコニーで話をすることになった。といっても、辺りは暗くすぐ隣のニール川も闇に沈んでいて識別できない。セレナと何の話をすればいいのだろう。ナータは具体的に言及しなかった。


 とりあえずナータから聞いた、セレナが連れて来た男に悪霊がついている云々という話をそのまましてみた。

 すると、セレナは「そうなの! 二つの悪霊は川に飛び込んだわけね」と喜んでいる。

 なんと、彼女は初めから男が憑依されていることを知っていたが、その数については把握していなかったらしい。そのせいで、男はアルコール中毒にギャンブル中毒で、おまけにDVで奥さんを苦しめているそうだ。男にそんな悪癖があるようには見えない。滞在中、夫婦は何も問題がないかのように普通に振る舞っていた。


 セレナは、「彼の目を見ればわかるでしょう、何かに取り憑かれている正気じゃない目よ」というが、渚沙にはさっぱりわからない。

 ただ、彼はいつ見ても微笑を浮かべ、異様に細かな輝きのある目で、遥か遠くを見ているような印象を与えた。

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