第38話 最年少の渚沙

 井上から依頼された翻訳の仕事をやめるようにいわれて以来、特に理由付けされないまま渚沙は極自然にナータの寺院に居続けた。神殿の掃除や、ナータが行なっている医療と教育ボランティア活動の手伝いをして過ごした。ナータの周りには現地人や永住者、訪問者がいつもいるし、渚沙が個人的に会える機会はない。つまり、二人の関係は依然として何も発展していなかった。悲しいかな、当然だろう。

 なにしろナータは、トラタ共和国の二人の生き神のちの一人で、日本でいえば天皇のような最高位の存在として認識されている。


 ナータは自分で神だと名乗ったわけではない。ナータの生前、世界的にも著名なトラタ共和国の聖者や他の聖人等によって、その両親に生き神である子の誕生が予言されていたのだ。それが生き神として見なされた理由である。ナータが、人や社会のために生きる姿勢は先天的性質であり、そんな彼が自分の恋愛や結婚のために積極的に行動するとは思えない。生き神が人間のごとく誰かを特別に愛したり、恋したりするのかも疑わしい。渚沙はそのことを十分理解していたし、ただ静かに待つしかなかった。


 滞在一年目の終わり頃、ナータは同じ州の州都市に毎月数日の間、遠征に出かけるようになった。永住者や滞在訪問者たちは同伴したが、渚沙はナータからいわれて留守番をするようになり、ますます距離ができた。渚沙にとって、それはまったく苦ではなかった。好きなボランティアの仕事も毎日できたし、現地のワーカーたちと話をしなければならず、外国人からすればかなり難解といわれる現地語を自然に学んでいった。ワーカーの中には、文盲もんもうの人が多かったため、英語が話せないからだ。お陰で、渚沙はナータが秘書や親類、現地人たちとしている話の内容がわかるようになる。


 二年後、ナータからになったらどうかと提案された。すでに永住者同然だったが、改めて、正式にということだろう。

「それはだめです」ナータの隣に立っていたナータの秘書が、仏頂面で即反対した。

 ――思い出した。前にもあった。秘書が渚沙のことで反対したのはこれで二度目だ。その時とまったく同じ不満そうな顔をしている。こやつ……私に何か恨みでもあるのかしらん。普段はとってもいい人なのに。


 それは半年前のことだった。オフィスにナータと秘書、永住者である二人のドイツ人女性、渚沙の五人が座っていた。他の人たちが集まってくるのを待っていた時だ。ナータが不意にこう尋ねた。

「私と渚沙が結婚することについてみんなはどう思うか」

 渚沙がナータとの結婚を望んでいる話は誰にもしていない。ナータと結婚について話をしたこともない。なのに、いきなりこんなにあけっぴろげにみんなに意見を聞くとは、どういうつもりなのか。

 もしかしてナータは、間もなく渚沙と結婚してくれるのだろうか。これからそうなるからショックを受けないように、みんな、頭に入れておきなさいという意味なのか。と渚沙が期待に胸をふくらませているよそでみんなの反応は冷たかった。

「そんな必要はありません」秘書が不満げな顔をあらわにした。

続いて「私はここを出て行きます」と太ったドイツ人の中年女性が不快そうにいう。

「私も」痩せた最年長の女性も不機嫌な顔で同意した。

 三人は単純に嫉妬したようだ。女性なら仕方ないが、妻子のある秘書まで嫉妬するとは意外だった。ちなみに女性たちは二人とも結婚歴があり子供もいるし、ナータよりずっと年上だ。

 だが、ここでは年齢も性別も関係ない。結局ここに住んでいる人も、訪問者も、生き神ナータのことを誰よりも慕っているので渚沙に味方してくれる人はいなさそうだ。ライバルが多すぎる。不特定多数対渚沙一人。ナータさえ曖昧あいまいなので、結局渚沙はひとりぼっちだ。相談相手はいない。先が思いやられる……。

 渚沙に永住者になるようにナータが提案した時、秘書が即反対したのはこの時のナータからの質問を思い出したせいかと思ったが、よくわからなかった。


 渚沙は秘書に向かっていった。

「私、新しい神殿に立っている自分の未来の姿を見たのです」だから自分は永住者になる運命だ、という意味で渚沙は秘書にそう返した。

 新しい神殿に立つ自分を見たのは少し前のことだ。ナータや秘書と対等な地位で、大勢の人々の前に立っている自分の姿を見たのだ。その姿から判断すると、ナータの妻のようだった。実現するなら、になる。これまたここ数年のと同じで、渚沙の人生にはほとんど起こらなかった珍しいことだ。それらがいつも正しいことが後になって判明するので、渚沙はこの件についても確かなもののように感じていた。それでも、デジャビュになるかもしれないこの件は誰にも話していなかった。この子は頭がおかしいと秘書は思ったかもしれない。

 ところが、ナータが言葉を添えた。

「ごらんなさい。この子は自分の未来を見たといっているではないか。新しい神殿に自分が立っていたと」

 ナータは傍観者のごとく面白そうにいったが、渚沙の側についているのだ。

 秘書は不服そうな顔で黙ってしまった。渚沙も尊敬し、誰からも慕われる人格者である秘書が反対したのは、単に渚沙が若すぎるからだろう。


 ナータの寺院で住み込みで奉仕をしている四人のドイツ人永住者たちはどうかといえば、みんな年金をもらったり、未亡人年金というものをもらったりしている中高年だ。十分に働いた経験があり、子育てをしたりして世俗の義務を終え、自由になってから第二の人生をナータのところで送っている。

 二十五歳未満の人が保護者なしに寺院に滞在できないくらいだから、若い人が永住者になることを許されるはずがない。様々な年齢層の希望者が多い中、中高年でも永住者になることをナータがなかなか認めないそうだ。渚沙の場合は、ナータからの提案だったにもかかわらず、秘書が反対したのはそういった常識的な観点からだろう。

 だが、ナータの提案を秘書がそれ以上反対する権威もなく、結局、渚沙はその日からそのまま最年少の永住者になった。

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