21gのひと
小谷杏子
第1章 新しい朝
新しい朝 1
目を覚ますと、その器は空っぽだった。
すぐに分かった。寝ぼけているから、というわけではないことも。でも、そんなことがあっていいのかどうか自信が持てない。
俺はベッドから飛び起きると、視線を這わせた。真正面の壁に高く掛けられていたアナログの時計が目に留まる。現在、七時半。早朝とも言いがたい時間。
見回せば、ベッドを囲むように家具が置いてある。学習机。クルクルと回転する椅子。青色のカーテン。銀色の細長い四段ラック。クローゼットを開けてみれば制服と二着のコートが掛かっている。タンスにはセーター、Tシャツ、パーカー。どれも青やグレーが多い。
俺は部屋を出ようとドアノブに手をかけた。足取りはしっかりしていて、躊躇いもなく洗面所に向かう。
大きな洗面台は真っ白で、鏡の脇には棚が並ぶ。蛇口を大きく捻ってしまい、顔面に水が直撃した。
「うぉっ! つめたっ!」
急いで栓を締めるが、既に水を浴びてしまっている。顔を洗うつもりが……あぁ、もうそれでいいや。
タオルで顔を拭き、水色の歯ブラシを取って歯を磨く。寝癖を撫で付けるまではスムーズに済み、次は居間に向かった。
『今日も遅くなるから、夜は冷蔵庫にあるもので済ませてね』
ダイニングテーブルの上にあったメモ紙。その上には大きめのおにぎりが二つラップにくるまれている。すぐに剥がして、躊躇いなく口へ運んだ。冷めた米はしっかりと味がついており、ふんわりと出汁の香りが鼻を抜けていく。
テーブルには調味料が入った瓶や、ロールパンの袋、それから郵便物が散らばっていて、決してキレイとは言えない。
おにぎりを食べ終われば、ラップを丸めてゴミ箱へ。それから、一つ欠伸をして元いた部屋へと戻った。
机の上に広がる教科書やノート、ペンケースなんかを見つけると、ふと脳内に信号が走った。
「あ、そうか」
学校に行かなきゃいけない。
カチカチと鳴る音に顔を上げれば、時刻は既に七時半。サーッと血の気が引く。ここまでに三十分もの時間を要していた。
「やべっ!」
クローゼットを乱暴に開けて制服を手に取る。シャツ、セーター、ズボン、靴下。全部身につけて、そこらにあった教科書やノートをカバンにつっこんだ。
「行ってきます!」
それが当たり前のように誰もいない家に向かって口走ると、外へ飛び出した。
マンションから出てすぐ向かいにある屋根付きのバス停を見つけて走る。途端に腹が疼いてくる。食べてすぐ動いたからか。
紅林高校行き、という表示のバスが停留所まで迫っている。信号を待ってちゃ間に合わない。俺はガードレールを飛び越えて道路を横切った。車なんて気にしていられない。
「待って! 乗ります!」
腹の疼きも気にしていられない。どうにかバスに乗り込んで、ようやく息をついた。
見渡すと、老人や小学生、中学生、社会人、などなど多様な人種が数人。一人用の席が埋まっていたので仕方なく立ったままでいる。すると、二人用の席にいた小さなお婆さんがニコニコしながら手招きしてきた。
「お兄ちゃん、席はいっぱい空いてるよ。座りなさいな」
「あー……えっと、はい」
二人用の席はなんとなく気が引けるのだが、ここは素直に従おう。
俺はお婆さんの向かい側にある無人の座席に腰を落ち着けた。運転席近くの液晶モニターに、停留所の名前が表示されている。
紅林高校……は、ここから三番目の停留所か。意外に近いな。
「お兄ちゃん。あなた、紅林高校の子?」
その声に反応し、すぐ隣に視線を向ける。
「えーっと、はい……」
知らない人と気さくに話すなんて、とそのお婆さんに壁を作りかけた。顔が引きつっていく。
「今日は確か、文化祭だって聞いたんだけれど、お兄ちゃん、何の出し物するの?」
「へ、えぇっ?」
思わず声が飛び出し、上ずった。
「あら? 違ったかしらねぇ。孫が紅林に通ってるから聞いたと思うんだけれど」
お婆さんの言葉に、俺は頭を抱えた。どうして、そんな大きなイベントを忘れていたんだろう。
「忘れっぽいのね。駄目よ、若いうちからそんなだと」
動揺しているところに刺さる言葉。上品に笑うお婆さんに、俺は苦笑だけ返した。若者失格、と言われたみたいでなんとも情けない。
項垂れていると、横でクスクス笑いながらお婆さんは話を進めた。
「あなた、何年生?」
その問いに俺は口を開きかけたが上手く声を出せない。ピタリと思考が止まってしまう。
「……お名前は?」
怪訝に思ったのか、お婆さんは別の問いを投げた。
な、ま、え。
音を区切って並べ、その意味を考える。
名前……自分の、名前?
「あぁ、ごめんなさいねぇ。知らない人からそんなこと言われてもびっくりしちゃうものね」
戸惑っているうちにどうも勘違いをしてくれた。俺は顔を上げてお婆さんに愛想笑いを浮かべた。
『次は、紅林高校前、紅林高校前。お降りの方はお知らせ下さい』
機械的な女性の声が車内に響く。止まったバスに救いを覚えながら、そそくさと席を立った。
***
紅林高校の正門前は賑やかだった。たくさんの人であふれかえっている。祭りの気配が近づいていることを肌で感じる。
そんな中に、挙動不審な俺の姿はあまりにも不自然極まりないだろう。いや、誰にも認知されていないのかも。
目を覚ますと、その記憶は空っぽだった。すぐに分かった。寝ぼけているから、というわけではないことも。でも、そんなことがあっていいのかどうか今も自信が持てない。
俺は、俺のすべてが消えたまま、見慣れない真新しい景色にただただ愕然とするだけだった。
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