七海と小さいおじさん2

 やっと髪を乾かした七海は、大急ぎで仏間の座布団の上に座る小さいおじさんに声をかける。


「娘よ、このミカンはとても甘くて美味しかったぞ」

「小さいおじさんを家に置いてゆけないから、仕事場に連れて行く。私の仕事中は静かにしていたら、ランチは近所で評判の厚切りカツサンドイッチを買ってあげる」

 

 七海はそう言うと小さいおじさんを摘んで、鞄の中に入れた。

 家の戸締まりをして自転車かごに小さいおじさんの入った鞄を乗せると、ミカンを口に放り込みながら自転車のペダルを踏んだ。


「それじゃあ、あんずさん、いってきます」




 自宅から自転車で十五分、さびれた駅前商店街の中にあるディスカウントストア。

 事務所でタイムカードを押した七海は、制服エプロンのポケットにそっと小さいおじさんを忍ばせる。


「今日の特売セールは台所用洗剤。商品はちゃんと準備されているね」


 そう呟きながら店の入り口に回った七海は……。

 普段は人気のないシャッター商店街に、五十メートルほどの長蛇の列ができていた。

 七海は慌てて店内に戻ると、自分より小柄で四歳年上の店長の奥さんに声をかける。


「店長の奥さん、開店待ちのお客さんがこんなに並ぶなんて、いったいなにがあったんですか?」

「それが七海さん、私も全然わけが分からないの。とりあえず店を開けたら速攻でレジに入ってください」


 七海と店奥さんが焦っているそばで、普段は開店前に新聞を読みながら缶コーヒーを飲んでいる店長が、せわしく店内をかけずり回り特売洗剤の箱を山積みにしている。

 そしてついに午前九時。

 開店の音楽が鳴ると同時に、待ちかねた先頭客が店の中になだれ込む。

 客は普段より少し安いだけの台所用洗剤を目の色を変えて奪い合い、レジ前には長蛇の列ができた。

 七海は必死でレジ打ちをしながら、顔見知りの常連客に声をかける。


「お客様、この特売洗剤って特別汚れが落ちるんですか?」

「特に何もないよ。茶碗を洗おうとしたら、台所用洗剤が切れたから、買いに来た」

「母さんがチラシを見て、台所用洗剤を買って来いと言われたの」

「コンビニで台所用洗剤買おうとしたら売り切れだったから、この店に来た」


 常連客の返事はごく普通のありふれたもので、偶然に偶然が重なって大勢の客が押し寄せたらしい。

 それから約一時間、特売台所用洗剤は完売した。


「本当に、今朝の騒ぎはなんだったの?」


 潮が引くように客がいなくなった店内で、七海はぐったりと商品棚にもたれかかりながら呟くと、エプロンのポケットから小さいおじさんが顔を出した。


「よかったのぉ娘。これはワシが食べたミカンのご利益だ」

「ええっ、これって小さいおじさんのご利益? そういえば居酒屋バイトのぽっちゃり女子が、小さいおじさんを見たら良いことが起こるって話していた」

 

 しかし今回の特売台所用洗剤は原価ぎりぎりのセール品で、大量に売っても儲けは少ない。

 在庫が無くなって後から来たお客様に迷惑をかけるし、ご利益と言うより無駄に忙しくなった。


「それはミカン一個分のご利益だから仕方ない」


 ポケットから出てきた小さいおじさんは、七海の手のひらの上で偉そうにあぐらをかく。


「つまり小さいおじさんがご飯を食べると良いことが起こる。でも私には、今のところ何のご利益も無いよ」

「そんなの当たり前だ。物が散らかった汚屋敷では、奇跡など起こらない」


 小さいおじさんの言葉に、七海はぐうの音も出ない。


「七海さん、仕事中に私用の電話は……。あら、今の話ひとりごとなの?」


 無意識のうちに小さいおじさんとの会話が大声になって、それを聞いた店長の奥さんはスマホでおしゃべりをしていると勘違いをした。

 七海の両手が空いているのを見て、奥さんは驚く。

 彼女には、七海の手のひらに座っている小さいおじさんが見えなかった。


「すみません奥さん、私少し寝不足で、ひとりごとしゃべっていたみたいです」


 夜の居酒屋バイトと深夜の大掃除で寝不足で、目の下にうっすらとクマが浮いている七海を見て、店長の奥さんは早めにお昼の休憩に入っていいと告げた。



 ***



 普段のお昼はコンビニ200円サンドイッチ。

 しかし今日は小さいおじさんのために、商店街の中にある評判のトンカツ屋の『厚切りトンカツサンドイッチ』を買いに行く。

 トンカツ屋は七海が働くディスカウントストアの向かい三件目にあり、香ばしい揚げ物の香りを周囲に漂わせ、通行客は思わす足を止める。

 七海がトンカツ屋の店内をのぞくと、まだ十二時前なのにほとんどの席が埋まっていた。

 レジ前のショーケースにはお持ち帰り用のカツサンドが並べられ、七海はできるだけ分厚い肉を選ぶ。


「普段は200円サンドイッチしか食べない私が、大奮発してお値段三倍もする厚切りトンカツサンドイッチを買った!!」

「やったぁ、お昼はトンカツじゃ」

「小さいおじさんのご利益は、みかん一個で買い物客が長蛇の列なら、厚切りトンカツサンドイッチならきっと千客万来ね」


 厚さ一センチの豚ロース肉は、周囲はしっかりと火が通り中央部分は肉のジューシーさを保った赤茶色の断面が見えた。

 こんがり揚がったトンカツの衣と食パンに甘辛いトンカツ屋特製ソースが染み込み、塩もみしたキャベツがギュッと挟まっている。


「カツサンドは四等分に切られているから、三切れは小さいおじさんのランチで、私は一切れ味見する」

「こら娘、ワシより先にごちそうを食べるとは何事だ。ぱくっ、むしゃむしゃ、柔らかい豚ヒレ肉の旨味と、パンにしみこんだ甘辛いソースが絶妙なバランスで、これは美味い!!」

「はむっ、ラードで揚げた衣がサクサクで香ばしい。やっぱりこのお店の厚切りカツサンド最高」


 小さいおじさんは厚切りカツサンドイッチに覆い被さると、美味しい美味しいと言いながらサンドイッチを食べている。

 サクサクとトンカツの衣を食べる音が聞こえるけど、三切れの厚切りカツサンドイッチに食べられた痕跡はない。

 小さいおじさんの食事が終われば、七海は残りのサンドイッチを食べることができる。

 お預け状態は七海は、目の前の激うま厚切りカツサンドを見つめながら耐えた。

 しばらくして食事を終えた小さいおじさんは、大きなあくびをすると目をこすりながら七海のエプロンのポケットに潜り込む。


「ごちそうさま、ワシは大満足じゃ。ワシはこれから昼寝をするから、娘は午後の仕事頑張れ」

「ちょっと待って小さいおじさん、厚切りカツサンドイッチのご利益を忘れないでね」


 七海の声かけも聞こえない様子で、小さいおじさんはポケットの中のハンドタオルに包まると、気持ちよさそうに眠ってしまう。

 七海は小さいおじさんが残した、パンの表面が乾いて少しぱさついた厚切りトンカツサンドイッチを食べた。


 午後の客足は鈍く、ディスカウントストア内は閑古鳥が鳴いている。

 商品の在庫チェックをしながら、七海は小首を傾げた。


「小さいおじさんが厚切りカツサンドを食べたのに、全然ご利益がない」


 七海はポケットの上から中で寝ている小さいおじさんをつつくが、イビキ音が聞こえるだけで反応はない。

 仕事が暇すぎるので、七海は店の前を掃除をしようとほうきを抱えて外に出る。

 すると昼間でも人がまばらなシャッター商店街にしては珍しく、二十人ほどの団体がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。 

 撮影機材を抱えた大手放送局のロゴ入りジャンパーを着た男性たちが目の前を通り過ぎ、斜め向かいのトンカツ屋に入ってゆく。


「ねぇ七海ちゃん、あれってテレビ局の人じゃない? きゃあー、後ろから来るのは若手人気アナウンサーよ」

「アナウンサーと一緒にいる男性も、見覚えがあります」

「あれはドラマ主題歌が大ヒット中の有名演歌歌手、毘沙門太郎!!」


 騒ぎを聞きつけた店長の奥さんは、芸能人を見ると興奮して七海の腕を取って振り回す。

 虹色の金ぴか着物がトレードマークの演歌歌手は、今日はお忍びっぽい地味なスーツを着ている。

 有名演歌歌手と男性アナウンサーは、集まった野次馬に手を振りながら斜め向かいのトンカツ屋に入ってゆく。 


「ジャンパーのロゴは、毎週木曜の夜十時に放送するグルメバラエティ番組の撮影ね。私ちょっとトンカツ屋を覗いてくるから、七海ちゃん店番よろしく」

「はい分かりました、奥さんいってらっしゃい」


 最近七海はダブルワークで忙しく、テレビを見る暇も無いけど、奥さんの興奮具合だとかなりの人気番組だと分かる。

 あれ……もしかして小さいおじさんのご利益は、私じゃなくて『厚切りトンカツサンドイッチ』を作ったトンカツ屋にもたらされたの?


「ふわぁ、よく寝た。なんじゃ、外がずいぶんと騒がしいな」

「ちょっと小さいおじさん、私が『厚切りトンカツサンドイッチ』を買ったのに、斜め向かいのトンカツ店がご利益を授かっているよ」


 七海が普段食べるのは200円のサンドイッチだけど、今日は小さいおじさんのご利益目当てで600円のサンドイッチを買ったのに、肝心のご利益が他所に行ってしまった。

 むくれた顔の七海を見て、小さいおじさんはフンッと鼻で笑う。


「あの厚切りトンカツサンドは、娘が支払った金額以上の美味しさだった。それに邪な心があると、ご利益が逃げてしまうのだ」


 小さいおじさんにズバリと指摘された七海は、ぐうの音も出ない。


「私は今の厳しい生活から抜け出して、少しでも幸せになりたいの。だから小さいおじさんの御利益が欲しい!!」

「うむっ、そうだな。あのトンカツ屋は綺麗に掃除が行き届いて、ご利益を引き寄せる準備ができていた。娘もご利益を授かりたいなら、ボロ屋敷を片づけて悪い気を追い出すのが先だ」

「小さいおじさんって、小人なのに神様みたいな事を言うのね」


 小さいおじさんに食事を与えればご利益が授かると、七海は確信していた。

 小さいおじさんでも靴屋の小人でもいい、天涯孤独の崖っぷち貧困女子は、現状打破するためなら藁にでもすがる思いだ。


「家に帰ったら、早速掃除に取り掛からなくちゃ!!」



 ***



 午後8時45分。

 閉店間際のディスカウントストアに、仕立てのよいグレーのスーツを着た青年と、洒落た制服を着た長い髪の少女が入ってくる。

 青年は店内を見回すと、空き箱の積まれた場所を指さして店長に声をかけた。


「すみません、今日特売の洗剤はありませんか?」

「お客様申し訳ありません。今日はなぜか洗剤ばかりよく売れて、開店一時間で完売しました」


 今日は客に同じ事を何度も聞かれ、店長は疲れた顔で頭を下げる。

 青年は店長に礼を言うと目が覚めるような笑みを返すと、レジ横のガラスケースに並べられている時計気が付いた。


「これは有名時計ブランドの人気のあった旧モデル、ちゃんと本物を扱っているのですね」

「おおっ、分かりますかお客様。うちはディスカウント店ですが安かろう悪かろうじゃない、良い物を安くを心がけています」


 それから店長は喜々として、青年に商品説明する。


「この旧モデルをちょっと見せてください。いいですね、気に入りました、買いましょう。ところで店長さんにお尋ねしたいことがあります」


 青年はショーケースの中の二番目に高い時計をポンと買うと、浮かれて喜ぶ店長に何か話しかけて、買い物を済ませ少女と店を出る。




 ディスカウントストアの斜め向かいのトンカツ屋は、店の外に十人ほどの客が行列を作っている。


「桂一 兄(にーに)、あの店は……様の御利益が、もたらされている」


 風邪でもひいているのか、口元をマスクで覆い掠れ声で話す少女に、恵比寿青年は優しく声をかける。


「やはり……様の御利益は絶大だ。少し手間取ったけど、お前のためにも早く……様を探して僕らの元へ招こう」


 彼らが捜す目的の人物は、寂れた駅前商店街のディスカウントストアに勤めていた。

 恵比寿の優しく慈愛に満ちた笑顔を見れば、誰でも簡単に心を許してしまう。

 個人情報等が厳しくなった昨今でも、すこし高額の買い物をして尋ねれば、怪しまれずに店員の名前を教えてくれた。

 ふたりはシャッター商店街を出て、駅前に停めた銀色のハイブリット車に戻る。

 先に助手席のドアを開いて少女をエスコートしたところで、恵比寿青年のスマホから呼び出し音が鳴った。

 スマホをタップしてメール内容を確認すると、満足そうな笑みを浮かべながら助手席の少女に声をかけた。


「店員の名前と出身高校から、住所を突きとめたよ」

「兄(にーに)は綺麗に笑うのに、結構腹ぐろいよね」


 少女は口元を覆っていたマスクを外しながら、しゃがれた声で呟く。

 綺麗な弓なりの眉に長いまつげに縁取られた黒々とした大きな瞳、形の良い桃色の唇。

 つややかな黒髪に目鼻立ちのはっきりした絶世の美少女は、白く細い指で喉をさすると不安げな表情をする。

 恵比寿青年は助手席の少女の頭に腕を伸ばすと、労わるように優しくなでた。


「大丈夫、きっと……様がお前の声を元に戻してくれる。そのためなら僕は、持ち主から……様を奪ってもかまわない」

 

 車に乗り込んだ恵比寿青年は、調べた住所をGPSで確認する。

 今から相手の家に乗り込むには、時間が遅すぎる。

 店で聞いた話では、彼女は明日仕事休みらしい。


「……様をお招きする準備を整えてから、迎えに行こう」


 鼻筋の通った非の打ち所のない端整な顔立ち、優しげな微笑みを崩さない恵比寿顔の青年は、皮の手帳を取り出すと明日のスケジュールを再確認した。

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