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新歌集より 竜の言い分への応援コメント
二人?の考え方にズレがあって、単純に殴り合うよりずっと面白いです!
人外と対話している感じがすごくあって、たまりません!
この二人の問答がどうなるのか、とても楽しみです!
新歌集より 竜の言い分への応援コメント
ヨシュアと竜の出会いが善いものになるよう祈ります。
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新歌集から 大灯台の目覚めへの応援コメント
古歌集研究レポート
芝村裕吏著『古歌集』内の『新歌集から 大灯台の目覚め』における違和感について
物語はどこへ消えたのか?
その答えを探ることが出来る者への手紙
〈著:寅山 日時期〉
(※このレポートにお名前を掲載する方々の敬称は省略する)
私は芝村裕吏という小説家の筆により書かれたとされている掌編小説群である『古歌集』という題名が付けられているテキスト群に書かれていることを研究している。
研究の手段はときに作品内のテクストとテクストを比較して、ときには他の作者の作品----特に古典と呼ばれる作品と比較する方法をとってきた。そしてある時期から『古歌集』に対して違和感を覚えるようになっていった。なかでも掌篇の1つである『新歌集から 大灯台の目覚め』には大きな違和感を覚えた。
結論から書くが『新歌集から 大灯台の目覚め』はおかしい。
もうすこし具体的に書くならば『新歌集から 大灯台の目覚め』は『古歌集』が持つ構造としておかしなところがある、と書くことができる。あるいは構造に入っていない、構造から逸脱しているとも書けるし、この掌篇の存在が『古歌集』全体の構造を壊しているとも書ける。
その”おかしなところ”を具体的に書くためにまずは『古歌集』という掌編小説群の構造を分析しよう。
『古歌集』は基本的には1話完結の小説が数十編収められている小説集だ。同じく芝村裕吏が書いたとされている他の小説と比べると、一編の文字数は少なく、最小のもので『人魚と彼女の少年』の606文字、最長のものでも『合体!変形! ミヅハノメノカミ』の2771文字となっている。そのほかの一編は概ね700文字前後から1500文字前後の文字数で書かれている。それは短編小説と呼ぶにも少ない文字数で、これは星新一が得意とし筒井康隆もたまに書くショートショートや掌編の系譜に並ぶ小説だ、と書くことが出来る。もちろん文字数と小説の質は関係がない----短い物語でも面白いものもつまらないものもあり、長い物語でも面白い物もつまらないものもある。というか『古歌集』に収められている物語はどれも面白くとくに『とらわれの王子』はかの『オイディプス王』かというほどの名作だ。なのだがその内容の質を評することと今回のレポートで記述したいことは別なので意図して省くことにする。
『古歌集』は掌編小説群だ。作者とされている芝村裕吏の説明によれば「20世紀までの古いストーリーラインを模範にしたショートショート」であるという。そのとおりだろう。前述した『とらわれの王子』はソポクレスの『オイディプス王』やワイルドの『サロメ』を読み終えた(2つとももとは演劇だが)ときと同じ感慨を感じた。『灯台碑文』は世界のどこかにありそうな伝説を思わせる物語だし、『建国記』は猫が登場していることもあってまさに星新一的な叙述トリックが使われており古典的で、『ツノなしパン屋創業伝説』や『しあわせの娘』そのほかの掌編も、寓話的、教訓簟的な物語になっている----つまりそれは古典的な物語ということだ。作者であるとされる芝村裕吏の説明の通り、『古歌集』は古代ギリシャ時代から20世紀までに書かれた物語をベースにして古典的でありながらも新しい物語を作りそれを収めた歌集という構造をしている(私が書くまでもないけれど、歌には物語と言う意味もある。吟遊詩人の歌も、琵琶法師の歌も物語だ)。
11番目に公開された『殲滅のヨシュア』まではそうだった。
その次----12番目に公開された『新歌集から 色々台無し至高女神』からは新たな構造が顔を出し始める。作者であるとされる芝村裕吏の説明によれば〈新歌集より〉と題名に書かれた掌編は続き物であり、ほかの物語を読むことが前提になっている。そういった旨の説明は『新歌集から 色々台無し至高女神』の冒頭にも書かれている。また芝村裕吏はツイッターでこのとき、現代的な物語は古典の蛇足という旨の内容のつぶやきを投稿している。これもわざわざ私が書くまでもないことだが、この発言は現代的な物語への批難では些かもないだろう。それは物語の形、なにを描きなにを描かないか、どこから物語を始めてどこで物語を終わらすかということでしかない。現代的な物語とは古典の物語が終わったところから始まるものだ、ということだろう。この発言に拠れば〈新歌集〉とは新しい物語----古典の蛇足であるということだ、とも書ける。そしてそれは新歌とは古典が終わったところから始まる物語だ、ということでもある。そう古典が終わり今風の物語が----新歌が現れるのだ。
それまでの『古歌集』に登場した物語は古典的なものだった。そこに新歌集が現れる。つまり古歌→新歌という順序の流れがあり,それは古歌の蛇足として新歌があるということであり、古歌が終わりその続きを新歌が描くということでもある。まさに『新歌集から 色々台無し至高女神』では『殲滅のヨシュア』でギリシア神話のナルキッソスのように(つまり古典的な)という物語的な美しい死を迎えたはずのヨシュアが、生者として物語に存在し続けている。その後に公開された『新歌集から 日本のヨシュア』と合わせて懐かしの映画、ジョン・ランディス監督、エディー・マーフィー主演の『星の王子ニューヨークへ行く』やアメコミ映画のマイティー・ソーのような文化感の違いを描いたドタバタコメディの赴きさえある。色々な意味で古歌と新歌は違うのだ。物語の系統がちがうように。
と書いたところで注目すべき点が分ってくる。それは『新歌集から 色々台無し至高女神』という題名の『新歌集から~』の部分、さらに『~から~』という部分だ。から、だ。そう、新歌集という題名が付いている掌編は〈新歌集〉という歌集から抜き出されてここ(古歌集という掌編小説群)に挿入されたものなのだ。
どうやらこの物語には2つの歌集、〈古歌集〉と〈新歌集〉というものが別々に存在している(らしい)ということがいよいよ分って来た。古歌(古典)と新歌(蛇足)、まさに物語の系統----形が違うのだ。
これは慎重を要して語るべきなのでそうするが、それは聖書における旧約聖書と新約聖書の関係に、あるいは正典と外典に関係に。あるいは聖書と、ダンテ著の『神曲』やミルトン著の『失楽園』のような宗教文学小説の関係と近いのかもしれない。古いほうがあって新しいほうが、本家があってそれをその時代の人々のあるいは作者の希望するかたちで再描写するものがあるのだ。または聖書から離れてこうも書ける、〈新歌集〉とは二次創作的なものである、とも。
誰もが知っている。旧約聖書と新約聖書の編纂者は違うという事を。正典と外典の編纂者も違うし、ましてや聖書に書かれていことを書いた者とダンテとミルトンは別人だ。系統が違う、簡単に言えば本が違うとはそういうことであり、古歌集と新歌集は”集”が違うのだから本も違い系統も違いゆえにそれぞれに別の編纂者が居ることを推測出来る。
これが私がさんざん、『古歌集』の作者である芝村裕吏を「作者であるとされる芝村裕吏」と書いて来た理由だ。もちろんこの掌編小説群が芝村裕吏の筆によるものであることには一片の疑いも無い。作者は氏である。だが『古歌集』の構造をみたとき、そこには別の作者が見えてくる。もちろんそれは古歌集と新歌集のそれぞれの編纂者のことだ。古典という言葉が1つのキーワードになっている本作だが、古典には、実際の作者とそれを書いたとされる人物が別人である作品が多くある。ブリテンを中心に欧州に伝わる聖杯に関する物語----漁夫王やパーシヴァルの物語、いわゆるアーサー王物語が流布されていく時代に書かれた本には、まずそれらの物語が書かれた原典があり、それを作者が手に入れその地域の言葉に作者が直して本とした、という体制を取っているものある。芝村裕吏作の『古歌集』もそれらの本と同じではなかろうか?そもそも我々は思い出すべきだ、氏が著した小説『黒剣のクロニカ』も、あの『自省録』を書いたローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウスが書いた門外不出の書を氏が手に入れそれをもとに日本語で書かれた物語を記した、という体を取っていることを。
もう一度書くが『古歌集』もそうではないのか?構造としては芝村裕吏は作者とされている翻訳者であり、古歌集と新歌集という書物を編纂した者は別に居るのではないか?すでに私は〈古歌〉と〈新歌〉の違いを書いている。古歌は古典であり、新歌は古典の蛇足でありそれは現代風の物語の形だ。新歌集とは二次創作的だとも書いた。新しい物語が新歌である。とすると古歌集の作者よりも、新歌集の作者に注目するべきであることが分っている。物語が新しくなるときそこには誰かの都合や欲望がある。
『桃太郎』という日本の古典的物語、いまでは同じみの童話となっているこの物語の主人公である桃太郎は川から流れて来た大きな桃の中から誕生する。しかし本来の物語では桃太郎は、川から流れて来た桃を食べることによって若返った老夫婦が成した子であったという。これが後の世で改変された。なぜか?それは桃太郎が桃から直接生まれてくれば、男女の営みから赤ん坊が出来る仕組みを描写せずにすみ、またそれをこれを読み聴かせる子供に説明しなくていいからだ。物語が新しくなるとはこういったことだ。物語が新しくなるときそこには誰かの都合や欲望がある。
新歌集の編纂者の目的も古歌集の物語を新しくすることだとする。その上で新歌集の編纂者の都合や欲望とはなんなのだろうか?
11番目に公開された『殲滅のヨシュア』から12番目に公開された『新歌集から 色々台無し至高女神』と14番目に公開された『新歌集から 日本のヨシュア』と古歌集から新歌集に移動したこれを私はコメディ的な物語だと書いた。ヨシュアの物語はその後はトラジコメディ的なものに進んでいく。13番目の『新歌集から 元少年の娘たち』も19番目の『新歌集から 猫の花嫁候補(人間、元王子)』も28番目の『新歌集から 人魚と少年の身の上話』もコメディだし、25番目の『新歌集から 腕をなくした乙女』は痛々しいコメディだ。
また私はヨシュアの物語を、文化感の違いを描いたドタバタコメディの赴きさえある、とすでに書いている。この文化感の違い、または価値観の違いが生み出す面白み----その物語をコメディの方向に進ませる仕組みは他の〈新歌集〉の物語にも当てはまる。中世的な世界から現代的な日本にやってくるヨシュア----騎士と女子大生、パン屋と元王子の踊り子、超科学なロボット(?)と少年、乙女と魔女。文化の違う、価値観の違う者たちが結びつくことで生じるそのすれ違いが物語をコメディのほうへと牽引していく。
『古歌集』には様々なコンビ/ペア/カップルが登場する。パン屋の師匠と弟子、数学娘と貴族、兄と妹、王子兄弟、2人の踊り子、こおろぎと埃まみれ、こおろぎと魔女、ヨシュアと女神、踊り子と猫、人魚と少年、少年と少女、魔術師と弟子、乙女と魔女、メイドと貴族、ヨシュアと竜。こう並べると、コンビのすれ違いが物語をコメディの方向に進める力として機能しているものが新歌集に編纂された物語であり、すれ違いが完全な悲劇とはいえない灰色の結末に物語を進める力として機能しているものが古歌集に編纂された物語であるようにも思える。
古歌集(灰色の結末):パン屋の師匠と弟子、数学娘と貴族、兄と妹、王子兄弟、2人の踊り子、こおろぎと埃まみれ、こおろぎと魔女、少年と少女、魔術師と弟子、乙女と魔女、メイドと貴族
新歌集(コメディ):ヨシュアと女神、踊り子と猫、人魚と少年
もちろんこの分類は完璧ではない。両方に登場するコンビもいる。人魚と少年のペアは古歌集と新歌集の物語を行ったり来たりしており、ヨシュアと女神のカップルも、魔術師と弟子のコンビもまた同じだ。そうなのだ、この分類が構造だとすると、すぐにこの構造は壊れてしまうのだ。
はじめに違和感を覚えたのは21番目に公開された『新歌集から グロリカの出奔』だ。この物語は一片も蛇足(今風の物語)ではない。この物語は古典的だ----なんせ、弟子が師匠のことを疑う、という聖書にすら書かれている物語であるのだから。それのどこが新歌なのか。この物語は22番目に公開された『魔術の教え』(古歌)で、先生の教えてくれていたことにはすべて意味があったのだ、というジョン・G・アヴィルドセン監督の映画『ベスト・キッド』の空手のミヤギ師匠が弟子に教える「ワックスオン、ワックスオフ」も思い出される古典的なオチへと回収されていく。物語が新歌と古歌でスムーズに違和感なく繋がっているのだ(だからこそ私は違和感を覚えた)。ここには、ペアのすれ違いが物語がコメディの方向へと進む力として機能している、ということがない。どこまでも古歌的な、古典的な物語が描かれているのだ、新歌と分類されているのにもかかわらず。ヨシュアの場合----『新歌集から 色々台無し至高女神』は蛇足だった、言を繰り返すが物語的に完璧に死んだヨシュアが新歌で生者として蘇っている、まさに色々台無しなのであり蛇足と呼ぶに相応しい(これも繰り返すけれど、蛇足とは物語への批難の言葉ではない、物語の形にしかすぎない)。『新歌集から グロリカの出奔』はそういったところが一片もない、ペアのすれ違いが物語をコメディの方向に進ませる力として機能していないし、なにも台無しにしてはいない。
〈古歌集〉と〈新歌集〉という構造へ覚える違和感が最大になるのは私が冒頭に記した『新歌集から 大灯台の目覚め』だ。これは29番目に公開された。この物語もまったく蛇足ではないし、物語はコメディへと進むことはない。その内容はお宝が眠るとされる遺跡に忍び込んだ盗賊たちが仲間割れを起こしながらもなんとか最深部に辿り着くもそこには宝などはなく(あるいは思っていたものと違っていた、ガラクタだった)そのショックで生き残った者も狂ったかのようになってしまう、というものだ。私たちはそういった物語を幾重にも見て来た、海賊物語で、ピラミッド探索物や、クトゥルフ神話も含むホラーで、その血みどろの冒険と宝への失望で狂ってしまう者や、邪神や宝に命を吸われてしまう者共の物語を。良い方向に話を進めれば、宝とはこれまでの冒険そのものだったとか、そこで得た仲間と友情だとか、実はそこから見える絶景の景色だった、あるいは金銭的な価値はないが、文化的には価値のあるものだった、となる。そういった物語も私たちは何度も見て来た。宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』に登場したお宝もそういった景色あるいは文化的なものだった(物語的な本当の宝はもちろん、騎士としてのルパンが、1人の少女の心を守りきったことだが)。出崎統監督の『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』の宝も結局は”絶景”だったと記憶している。なんにせよ、争いの末に得たお宝は金銭的な価値のあるものではなかった、という物語はあまりにも古典的な物語の構造なのだ。
そう『新歌集から 大灯台の目覚め』はあまりにも古典的な物語なのだ。まったく新歌集でもなく、この盗賊たちと大灯台をめぐる話のオチとして一片の蛇足もないのだ。これはとてもおかしいことだ。〈古歌集〉と〈新歌集〉の構造がここで大きく崩れていく。新歌は古歌の蛇足ではなかったのか。このあとに続く『古歌集』内の物語の分類の規則----古典と古典の蛇足が、人魚と少年、ヨシュアの物語の分類がここから大きく揺らいでいく。彼らは古歌と新歌のあいだいを行き来するようになってしまう。これは作者とされていく芝村裕吏のミスなどでは些かもない。この状況にありながらも元王子の踊り子たちの話は新歌らしい新歌----人々のすれ違いが物語をコメディのほうへと進まされる力となっている物語であり続けているからだ。これを根拠にこの分類の揺らぎが氏の気まぐれやミスではないと私は書く。故に『新歌集から 大灯台の目覚め』を基点として人魚と少年、ヨシュアの物語が大きく揺らいでいるのだと私は推測している。
『新歌集から 大灯台の目覚め』にはペアが登場しない。埃まみれとペアと思われるこおろぎは登場せず、その代理となる人物も登場しない。埃まみれは孤独である。これも『古歌集』の構造としてはおかしい。この点では『新歌集から 大灯台の目覚め』は〈新歌集〉のなかでもまったく別の規則で編纂された〈新・新歌集〉のようにさえ感じる。また言葉を繰り返すが、物語が新しく編纂される場合,そこには誰かの都合や欲望が前もって存在している。その欲望はなにか?といえば上記したとおり、人魚と少年、ヨシュアの物語を大きく揺るがすことだ、と私は推測している。そうすることで編纂者になにか都合の良いことが起こっている、あるいはそうすることで編纂者は欲望を叶えているのだ。
先程から繰り返しばかりになってしまい申し訳ないのだが、『新歌集から 大灯台の目覚め』は一片も新歌集に収められた物語的(蛇足、いま風の物語の形)ではなく、むしろ大変に古典的なオチの物語だ。そう。オチだ。これは埃まみれと大灯台を巡る”新歌集のオチ”なのだ。それも本来ならば古歌集に編纂されてもいいような古典的なオチだ。そういった意味では二重の意味で、埃まみれと大灯台をめぐる物語のオチは消えてしまっている。第1に古歌集のオチが消えて、第2にすれ違いが物語をコメディの方向に進ませる力として機能する新歌的な物語のオチが消えている。2重に物語に取り消し線が引かれ、その上から新たに書いたようにしていま私たちが読んでいる『新歌集から 大灯台の目覚め』が存在している。
本来の埃まみれと大灯台をめぐる物語のオチはいったいどこに消えたのか?
必ずそれはどこかにあるはずなのだ。
恥ずかしながら『古歌集』研究者としての私の筆が進めることができるのはここまでだ。いまはこれ以上考えを進めることができない。いや、私程度のものでもここまでは進めることが出来た,と書くべきだろう。これを読んでいる者のなかには私の何倍も物語の矛盾に気がつき、構造を読み解き、推理力が高い者がいるはずだ。というか私程度のものに知力勝負や物語を読み解く力で負けるなら、それは恥じたほうがいい。私に負けんとする者に、あるいは好奇心と冒険心の強いものに、そして物語の改変を許さんとする者に、私はこのレポートを手紙として渡して、あとをあなたに託す。
その者にお願いする。『新歌集から 大灯台の目覚め』に隠された謎を解き明かし、消失したオチを取り戻し、大きく揺らいでしまった人魚と少年の物語を、そしてヨシュアの物語をもとに戻してやって欲しい。それが私の願いだ。
※『古歌集』にはご存知の通り〈外つ歌より〉と分類された掌編も存在する。この構造についても『古歌集』すべてのことについて語るべきならば分析するべきなのだが、このレポートでは文章が飛び散らかるのを防ぐためにあえて省いている。私が書いたこのレポートの目的は『新歌集から 大灯台の目覚め』を編纂した者を打つことに、それができるものにこれを手紙として託すことにあるのだから。
※※誤字脱字を修正しました。
新歌集から 色々台無し御一行への応援コメント
コナン・ドイルの小説・・・『失われた世界』でしょうか?
いや、どちらかというとC・S・ルイスとかマイケル・ムアコックの方が適切な例えだと思いますが、たぶん彼の「現代」にはどちらもまだ活躍する時代が来ていなかったのでしょうね。
いやまあ、ライヘンバッハから生還した名探偵のような状況と言われれば、その通りではあるのですが。
それにしても、まさかリチャードさんがユードラの思いに全く気づいていなかったとは、ちょっと予想外でした。
不純異性交遊や田舎娘への嫉妬心に気づかないだけでなく、老後や将来を求めての犯行とか、なんという見当はずれでしょうか。
すごい迷推理です。
彼はいい人みたいですし、知的で好奇心旺盛ではありますが、そっちの方面には鈍感なタイプのヒトだったのですね。
一時は政治で活躍していたのに、この鈍感さはどうかと思いますが・・・・・・・・そういえば都落ちしてましたね。
納得しかありません。
まあ、兎にも角にも台無し御一行に合流したわけですし、今後のリチャードさんの活躍が楽しみです!
とりあえず、まず彼は、リベカさんから色々学んだ方が良いと思いますよ!
・・・・・・・・まあ、女心は異世界より複雑怪奇で、数学のように正答が無いものなのかもしれませんが。
新歌集から 竜の炎への応援コメント
今回はちょっと長いので、以下注意です。
ヤマトタケルのように戦うことしか知らなかったヨシュアが、交渉が出来るようになって本当に良かったです!
自分の意志で新しい自分になれたという意味では、彼もまた魔術を使うことが出来たのかもしれませんね。
あるいは、それまでの文脈とは切り離された、新しい世界と人間関係こそが彼を変えたのかもしれませんが。
それでも、挫折を経て、他者の意志を受け止めようとしなければ、彼は変わることは出来なかったでしょう。
だから、やはりこれは彼の意志がもたらした成果であり、確かな彼の勝利なのだと思います。
竜殺しを超える偉業と言っても、良いかもしれませんね!
『ゲド戦記』で言うところの「竜王」を目指せそうです!
それにしても、このお話の形式だと他を読んでいるかいないかで、受ける印象は大きく変わりますね。
『人魚と彼女の少年』の流れを追っていると、今回の竜がまた違って見えてきます。
そう、「戦闘力」以外の別の基準が見えてくるような・・・・・・・・。
まあ、はっきり言うと、この竜さん、全世界友達いないランキング・ワースト1ですね!
ユードラさんやエノクでさえ、悪党仲間や部下ぐらいはいるというのに、彼?にはそうした関係がなにもなさそうです!
なにしろ、世界を超越することで、ただの猫が異世界で勇者となったように、死の騎士ヨシュアも日本でヒm・・・猫みたいな存在になりますからね。
そうした観点から観ると、竜さんの戦闘力はすごく高いですが、日本の日常においては野良猫とあまり変わらないように見えます。
あれだけの超科学力があっても、ぼっちになってしまうとは、すごく虚しさを感じますね。
この竜さんは、知識、あるいは会話や承認に飢えているようですが、それらを満たすことが出来ていません。
それでは、言語能力や心があっても虚しいだけです。
次元を超えて殺戮や破壊は出来ても、友達一人作れないとは、そりゃあ古代文明も滅びるわけですよ・・・・・・・・。
長くなりましたが、次回も楽しみにしてますね!
新歌集から 竜の炎への応援コメント
ミサキが面倒見てくれた事が、ヨシュアの助けにならんことを。
新歌集から 逃げ続ける片腕への応援コメント
更新お疲れ様です。
さて、今度こそ良い出会いが待っていれば良いのですが・・・・・・・・。
ひとまず、ただ幸運と健闘を祈ることにいたします。
編集済
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
雲英の友人の藤巻くんへ。
本来私は、あなたとは縁もゆかりもないのですが、もしもこの作品を見ていたら、静日ちゃんを助ける手助けをしてくれると嬉しいです。
雲英にどこかよく似たこの子がこのまま悲しいまま終わるのは、とても悲しいのです。
勝手なお願いですが、どうか聞いていただけることを願います。お代や報酬が必要なら、自分に出来る限りで答えさせてもらいます。
追記。
ありがとうございました。
この件に関わり尽力してくれた皆様に感謝を。
お代はいずれ、必ず。
作者からの返信
現在受理、処理中です。全てのフィクションノートは一旦手を止めて状況を見守ってください。
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
狐神様の力になるよう祈りを捧げます。
親愛なる同胞が目的を遂げられますように
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
レイカ・グリーンさま。
時間犯罪のようです。静日ちゃんを助けて、時間犯罪を起こしたやつをやっつけてください!
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
瞬、栄子の事を知りたかったらここを読むんだ。
知りたくなかったらそれでいいが、決めるのは君だ。
編集済
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
このコメントを読んでいらっしゃるだろう、青の厚志様。
歴史犯罪によって、時空破壊兵器が起動し、多くの世界が破壊に瀕しています。なにとぞチャンスをいただけるよう、お願いします。いつもご迷惑をおかけします。
編集済
ユードラの自由への応援コメント
ちょっと考えさせられるお話でした。
ユードラは、「自分の思いを打ち明ける自由」を持てなかったのですね。
彼女はきっと、ただのメイドでいたかったのであり、それ以外の自分を愛することが出来なかった。
あるいは、今と同等以上の幸福があるとは、信じることが出来なかったのでしょう。
なぜなら彼女は、妻より寵姫にしたいと望む者が遥かに多い、そんな美貌で生きてくるしかなかったのですから。
眼鏡をかけて、盲目の貴族のメイドに身をやつしていられる環境だけが、彼女にとっての幸福な場所であり、彼女がのびのびとしていられるただ一つの可能性だったのでしょう。
青の魔術師は不断の努力を讃えましたが、はたしてユードラにはそうした努力の可能性があったのでしょうか・・・・・・・・・。
自分の諦めと周囲のまなざしに縛られ、そしておそらく、裏社会での無法にはない「自分に制約を課したうえで望みを実現させる自由」を学んでこれなかった彼女に。
努力の余地は、あるのでしょうか・・・・・・・・?
追記:お返事ありがとうございました!
作者からの返信
ないかもしれませんし、あるかも知れません。
こればかりは、ユードラや周辺の状況変化次第です。
投票による変動幅も大きいので、作者ですが明確に言えません。
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
ここに書いてよいのかわかりませんが、試みてみないというのも後悔しそうなので書きこませていただきます。
古歌集へのプレイヤー介入についてですが、
1.現在進行中のゲームトランスアクションからの接続は否定的な見解が(ニュースにて)出ています(元々古歌集への接続はしないとされていた)
2.アイドレスからの接続もされていないのでそちらからの介入も困難な見込みです(直接介入権を使えそうな人がいない。プラチナチケットでの介入も否定された)
3.エース、エースチャレンジゲームについては可能性がありますが私はエースについては把握していません
「応援では無理」ということですが、例えばこのコメント欄を使用して、以下のようなことをおこない対応することは可能でしょうか?
1.青の魔術師や魔女に協力を要請する
2.静日ちゃんに具体的な指示を与える
3.トップエースを呼ぶ(英雄召喚)
4.OVERSを呼ぶ
その他、方策があるならばせめてヒントをいただけますと幸いです。
作者からの返信
3は若干の可能性があるが、さすがにカクヨムまでは把握してないと思います。
エースゲーム申請は受け付けてはいます。
魔術師や魔女はこのコメント欄を呼べず、OVERSもいません。コメント欄を読めるのは……
新歌集から 小さな出会いへの応援コメント
ここまでくると時間犯罪か、義勇社員の派遣、ゲームでの救出じゃないと状況はひっくり返すことは無理なのでは。
編集済
新歌集から 色々台無し御一行への応援コメント
リチャードの教養と好奇心は学者で元貴族とはいえすごいですね。この状況でも現地の生活が気になるとは。数学だけでなく語学文学歴史も堪能そうですし。
対竜のヨシュアへの応援コメント
かたくなだったヨシュアに変化のきざしが。過去との決別の戦いになりそうで期待してます。
合体!変形! ミヅハノメノカミへの応援コメント
ええと、絢爛舞踏祭を思い出しする合体ですね
新歌集から 超水平線射撃戦への応援コメント
周辺の街が…
新歌集から 超水平線射撃戦への応援コメント
teeeeeeが格好いいです。
合体!変形! ミヅハノメノカミへの応援コメント
SF好きの心が震える・・・
合体!変形! ミヅハノメノカミへの応援コメント
緊急合体!
新歌集から 大灯台の目覚めへの応援コメント
正気を保て。牛と嫁と子と孫のことを考えるんだ!
新歌集から 腕をなくした乙女への応援コメント
生きるんだ。
新歌集から 腕をなくした乙女への応援コメント
生きて…
外つ歌 SHIKIKAMI(2)への応援コメント
永野さん頑張って~
ツノなしパン屋創業伝説への応援コメント
産まれを変えることはできないけれど、生き方を選ぶことはできる。それはパン屋を続けるため角を切り落とした少年だけでなく、お爺さんもまた、老齢であっても生き方を変えていくのがとても素敵でした。
猫の勇者コンラッドへの応援コメント
ここまでのあれこれがつながっていくのでしょうか…
猫の冒険者どのに幸あれ。
次の公開も楽しみです。
ツノなしパン屋創業伝説への応援コメント
お爺さんと弟子に幸あれ。
建国記への応援コメント
にゃーん!
新歌集より 竜の言い分への応援コメント
竜の造形、セルフクラフトワールド3巻の表紙を思い出して懐かしく。