第4話
八回は静かなものだった。
明豊、大須、ともにバットが快音を鳴らすことはなかった。三者凡退。
そうして、九回。最終回。明豊、最後の攻撃が始まる。
クリスは先の打席であっさり三振に終わったので、ベンチ裏でじっと待つだけだった。
マウンドでは、国虎が激しく吠えていた。
「いっくぞおらああ! 死ぬ気で守れぇえええ!」
投球に衰えがない。元々尻上がりによくなるタイプだったが、今日は異常だった。決勝、接戦ということでハイテンションになっているのか、球威の上昇が止まらない。
先頭打者、一番に投げたストレートは一五〇キロに到達した。
クリスにも並びそうな速球と縦スライダーで強気に攻めて、ふっとスローボールを混ぜてくる。一番と二番は、春では毎試合出塁していたが今日ばかりはノーヒットだった。
だが、三番だ。
本山が待っている。
ベンチからクリスは声を張り上げた。
「本山ちゃーん、ホームランでかまわんでー! 楽にさせてー!」
こうやってクリスが声援を送るのはほとんどなかった。
今日のような完投ペースの試合では、極力疲労を抑えるためにベンチで横になっていたりするものだった。
一人で投げて、凡打に抑えて、打撃はほかに任せる。
無意識のうちに、クリスは自分と他の八人を区別していた。
いまさらになって、ここまで追い詰められてから、ようやくそんな考えであったことに気づいた。
キャッチャーが受け取ったら、自分自身の実力があれば、あとはどうにでもなる。打つ方さえよかったら守備はどうでもよかった。
(相良に打ちのめされて、それで、ようやく守備のありがたみがわかる、か……)
クリスは度を越えた天才だ。それゆえに、いくら打たれてもなにが悪かったのかその原因を知り、対処し、乗り越えてきた。頭脳と身体能力が優れていたがゆえに、どうしようもなくなった経験がなかった。いわば、負けの素人だった。
しかし、明豊のチームメイトは優れていた。クリスがどう思っていようが、ここまでともに野球をやっていたのである。
クリスの能力を存分に活かし、きっちりと打って、点を奪い取り、勝ってきた。
クリス以外の全員は、九人で野球をやっていた。
(高校野球なあ。プロやメジャーへの足掛けのつもりやったけど……)
いまは、好きになろうとしていた。
高校野球をしたかった。もう一度、このメンバーで、甲子園に立ちたいという思いが生まれようとしていた。
勝ちたい――。
勝って、勝って、勝って、喜びたい。
打席の本山を見つめる。粘りに粘って八球目。
クリスは大きな声で叫んだ。
「――ぶちかませぇ!」
国虎が投げたのは外角への縦スライダー。これを、本山は読み切った。
的確に三塁線へと引っ張って二塁打。
ホームランにならなかったのは残念だが、問題はない。続く四番が本領発揮、フェンス直撃の二塁打を放ったのだ。
「やったああああああ!」
クリスは子どものように手を叩いて喜んだ。
自分でもこんな反応をするなんてと戸惑いを覚えていたが、心が湧き上がっていた。
五番はフェンスギリギリの外野フライだった。スリーアウト、チェンジ。勝ち越しできたのは一点だけだが、かまわない。
あとは、クリス。
「あとは俺がやったるから、みんなベンチにおってええで! あ、本山ちゃんはいるけど」
「馬鹿言ってんな! みんな、締めてかかれよ!」
「オオッ!」
ベンチ入りメンバーも、マネージャーも一斉に声を出した。
クリスの口元が勝手に笑みを作っている。
点差は一点、安心はできない。賢一郎の打席も回ってくる。
勝つ自信があるのかといえば、ない。
負けるかもという不安があるのかといえば、ない。
心は勝ち負けの境界線上に立っている。
(いま、まさに高校野球をやってるってかんじやな)
クリスは、楽しんでいた。
○
明らかにクリスは疲れていた。
コントロールが乱れている。ボールの回数が多くなっていた。本山が構えたところから大きく外れることもあった。
それでも球速も変化球のキレも落ちていない。むしろ、自己ベストを更新し続けている。
本気なのだ。夏と春の甲子園でも発揮したことのなかった、気力を振り絞るほどの本気で投げているのだ。
一六〇キロを投げられる力はすでにあったのだろうが、去年の夏、今年の春では引き出すまでもなかった。
今日、相良賢一郎という四番が、クリスの力を引き出させた。
誰にも打てない。高校生どころか大学生でも無理だ。プロでさえ、この日のクリスからヒットを打つのは至難の業だった。
どうあがいても打てやしない。
――だから、なんだ。
変わっちゃいない。
なにも、なにひとつ、変わっちゃいない。
先頭打者は三番、安芸国虎。
――咆哮をあげる。
「なにも変わっちゃいねえええええええ! かかってこいやあああああああああああああああああ!」
元から、クリスの球は打てやしなかった。
その打てない球に食らいつくのが、大須の野球だ。
食らいついて、四番に繋げる。
国虎が野球部全体に行き渡らせた思想。
相良賢一郎というロケットを飛ばすための、野球。
この一瞬が、すべて。
「だあああありあああああああ!」
国虎は懸命に振った。
左で投げるクリス。変化球は繊細だが、ボール球が多くなっている。ストライクになる球だけに集中して、バットを振った。見逃しは一切しなかった。
ファールとボールが積み重なっていき、フルカウントとなった。
さらにもう一球、国虎はファールで粘ったが、そこでクリスはグラブを持ち替えた。
右の、煌めきのようなストレートを投げてきた。
国虎は反応した。
「んがっ!」
打球は一塁線に切れた。
なおも、ファールで粘る。
「終わらねえ! 終わらねえぞ! 終わってたまるか!」
国虎はわかっていた。
延長では勝ち目がない。
自身のスタミナが切れたらおしまい。賢一郎がクリスを打ちのめして交代させても、明豊には控えがいる。勝てっこない。
この九回裏で、勝つしかない。
国虎はバットを構える。
彼の脳裏を、野球人生が走馬灯のように駆け巡っていた。
○
国虎が野球を知ったのは、幼少時代。公式試合に出たのは中学時代だが、本物の野球選手になったのは高校時代。賢一郎と出会ってから。
相良賢一郎の素振り。
とてつもない素振り。
豪快で美しい、感動的な素振り。
(こっ恥ずかしいが、俺はあのとき、賢一のバットに恋をしたんだ)
もしかしたら、アイドルを応援するファンっていうものが近いのかもしれない。
賢一郎の素振りを見た瞬間、甲子園の大舞台でホームランを打つ姿がイメージできた。これこそがあるべき姿なのだと。
国虎は、そういう言葉を知らなかったが、『天啓』だと受け取った。
相良賢一郎を甲子園に連れて行くのが『使命』だと思った。
そこから何もかもが変わった。安芸国虎の野球人生が始まったのだ。
ボールの縫い目を意識した。
バットのグリップを意識した。
練習方法、食事、睡眠、爪もヤスリで削るようにした。
全部が全部、賢一郎という天才と出会ってからだ。
賢一郎のスイングを見て、安芸国虎という野球選手は生まれたのだ。
中学時代の監督は、ただの野球好きだった。
それもスポ根好きの野球好き。指導者の器ではなかった。
走らせるのが好きで、声を出させるのが好きで、送りバントが大好き。泥臭い野球をやらされていた。
勝つのが目的だというのならそれでもかまわない。
そうではなく、泥臭い野球をさせることが目的だった。
どんな相手でもやることは同じ。偵察や研究なんかはない。
がむしゃらに頑張って、戦って、負けて、よく頑張ったって言えばそれで満足するような男だった。
(マジモンのクソ監督だったな……)
練習はきついだけで実りがない。
同じようなバカ中学くらいにしか勝った試しがない。
どこか試合に勝とうという欲すらも毛嫌いしているようだった。
そんな環境で野球が上手くなるはずがない。好きでいられるはずがない。三年間、その監督の下で野球を続けていたが恩などなかった。感謝などするはずがなかった。
(いや――、一つ、あるな)
野球がどうでもよくなって、弱小校の大須にきたから、賢一郎と出会えた。
賢一郎をこの決勝にまで連れてくることができた。
奇妙なめぐり合わせだ。
中学時代の監督が指導者として優れた人物だったなら、明豊とはいかずとも工業や長宗我高校などの強豪で奮闘していただろう。
そうして、賢一郎は人知れず終わっていた。
ホームランを四発ほど打って、ただそれだけ。
クリスと出会うこともなかった。
県大会の決勝になんかくることはなかった。埋もれていたままだった。
現実はちがう。
国虎は賢一郎をここまで連れてきた。腐っているはずだった二年と一年にもやる気を漲らせ、上等の高校野球選手にすることができた。
――俺はここまでやったぞ。
そういう自負があった。
(だが、まだだ)
そう。まだだ。
まだ終わってはいない。
始まってもいない。
ここで大須高校が敗退してしまえば、賢一郎はただの強豪の凄い選手のままだ。
そんなものじゃあない。
そんなところで終わっていいバッターではない。
二年前の春、国虎が賢一郎と出会って脳裏に浮かんだのは、甲子園でのホームランだ。
「まだそいつを見ちゃいねえ!」
○
クリスの十一球目、内角高めのストレート。
顔面を抉るようなキレで、一六〇キロの硬球がすっ飛んでくる。
国虎は自分自身に叫んだ。
――仰け反るな!
首筋が粟立っていた。
顔面直撃のデッドボールを想像してしまう。
よくて頭蓋骨骨折、悪ければ障害持ちになり、さらには死亡する可能性もある。痛いじゃすまない。
――バットを離すな!
痛いじゃすまない。だからどうした。
(俺は、俺はどうしてここまできた……)
――フルスイングを見るためだ!
(野球が、賢一と一緒にやる野球が好きだからだ……)
終わらせられない。
まだまだ続く。続けてやる。
まだ、野球をしたい。
――踏み込め! 振れ!
「――――しゃああッ!」
叩きつけるようなバッティングだった。
打球はクリスの足元を抜けていった。
国虎は懸命に走って、一塁を駆けた。
一回裏のような幸運なポテンヒットではなく、力と執念で奪ったセンター前ヒットだった。
一塁に立って、国虎はわなわなと奮えていた。太陽の眩しさに涙がこぼれてしまう。
ひゅーっと息を吸い込み、力の限り叫んだ。
「賢一、お膳立ては終わったぞ! 総仕上げの時間だ!」
国虎は空を指差し、続いて、バックスクリーンに向けた。
「ホームランを、打ち上げろ!」
○
天国にいるのではないか。
クリス・ロビンソンはそんなことを思った。
アメリカ出身で白人であるため、周囲からは敬虔なキリスト教信者と思われたりするが、実際のところは平均的な日本人とさして変わらない。ほどほどに神や精霊を信じて、ほどほどに神や精霊を信じない。都合よく自分の立場を使い分けている。
いまは、クリスは神の実在を信じていた。
数多の奇跡。無数の執念が絡み合って、最高の場面が彼の人生にやってきた。
九回、ノーアウト一塁。バッターは四番、相良賢一郎。
勝負しかなかった。
球場全体が、高校野球そのものが勝負を望んでいた。
風が、太陽が、観客が、夏の輝きがクリス・ロビンソンと相良賢一郎の勝負を望んでいた。
といっても、拒否する権利はある。
明豊には敬遠という手もあった。いちいち勝負する必要もない。安全策をとってもいいのだ。それも野球だ。
でも、その手は選ばない。
クリスは、クリスたちはすでに決断を済ませていた。
○
明豊監督の十河は、甲子園を思い出していた。
監督として出場した甲子園ではなく、選手として出場した甲子園だ。
いい思い出ではなかった。最悪だった。
最後の守備に入る前に、クリスに伝えなければならなかった。
「これは監督でも教師でもなく、先人としての助言だ。クリス、この機会は二度とない」
「二度とってのは……」
「相良と勝負する機会のことだ」
とんでもない大打者との対戦は、クリスの人生ではこれから先、何度となく訪れるだろう。
日本でもメジャーでも、どこにいっても変わらず戦うだろう。
しかし、この日、このとき、相良賢一郎という天才打者との対戦は二度と巡ってこない。
いつのまにかクリスだけではなく、ベンチ入りメンバー全員が十河の話に聞き入っていた。
マネージャーから冷たい水をもらい、ゆっくりと語った。
「甲子園出場、春夏連覇が学校の目標だ。でもな、そんなものは甲子園がある限り、学校が存続し続けている限り、チャンスはいくらでもやってくる。けど、お前の人生に次はない。相良と対戦するチャンスはこれっきりだ」
「……プロや大学でも、ないんですか?」
「そりゃ、ある。可能性としてはな。でもな、怪我や病気にかかるかもしれない。プロや大学での生活に馴染めないかもしれない。さらにいえば、お前はメジャーで相良は日本に残るなんてのもある。そうなれば十年はかかるだろうな。もう一度対戦するにしても」
「そんなに少ないもんですか?」
「少ない。怪我や病気がなくても結婚して子どもができてたりする。そうでなくとも、国境を越えての移籍には壁もある。言葉はもちろん、文化や人種。加えて、ファン。自分一人で決めることはできなくなる」
しかし、ここで勝負をするべきと十河が主張する最も大きな理由は、後悔だった。
彼は悪夢を思い出していた。現実という悪夢を。
努めて口にだすことはなかったが、十河は、勇気を持って己の恥部をさらけ出した。
「明豊学園が甲子園で、全打席敬遠という大珍事をかましたことは知っているな」
数十年前の甲子園、第二回戦。
明豊学園は後のメジャーリーガーとなる大打者を抱えた高校と対戦することとなった。
当時の監督や世評では、高校生にプロが混じっているとのことだった。
それほどにレベルが高かった。
マスコミやその高校の応援団、世間の野球好きは彼の活躍を心待ちにしていた。
どれだけホームランを打つのか。
どれだけ感動させてくれるのか。
どれだけ相手校のピッチャーを叩き潰してくれるのか、サディズム的な欲求を膨らませていた。
そこに、真っ向から刃向かったのが明豊学園である。
監督からの指示は、非常に優れたものだった。
――相手にすんな。敬遠だ。全打席敬遠だ。
負けるとわかりきっているのなら、勝負をしない。コロンブスの卵である。
続く五番と六番は優れてはいるが、四番ほどぶっ飛んではいない。丁寧にやれば抑えることができる。
単純かつ完璧な作戦だった。
懸念は一つ、そんな屈辱的な行為をピッチャーが実行できるのかどうかだけだったが、やってしまった。
胸をかきむしりたかったが、十河はこらえて、目の前の教え子たちに伝えた。
「その、敬遠をしたピッチャーは、私だ」
メンバー全員が息を呑んだ。
調べればすぐにわかることだ。何人かは、既知だっただろう。
どくんどくんと十河の心臓は早鐘を打っていた。いまでも、あのときの後悔が津波のように彼を呑み込んでいった。
それでも、続けなければいけない。
「去年の秋季大会、私はお前たちに死んでも勝てと命じた。負ければ終わるとも。あれは、覆す。負けたら終わりになるんじゃない。逃げたら終わりになるんだ。私は、あの日、ピッチャーとして終わってしまったんだ」
明豊は全打席敬遠をやった次の試合、ボロ負けになった。
原因は散々な嫌がらせを受けたからではない。心にぽっかりと穴が空いてしまったからだ。
投手とはなんだ。
投げて、打者を打ち取るものだ。
その投手が、戦うことを放棄してしまった。
勝つ権利も負ける権利も捨ててしまったのだ。そんな男にマウンドに立つ資格があるだろうか。
「私には二度となかった。五回、対戦する機会を与えられたが、全部逃げた。その結果、投手としての最高の場面は二度と訪れなかった。
私のエゴかもしれんが、クリス。逃げるな。お前には、勝つ権利も負ける権利も等しく与えられている。古臭い言い方だが、かけがえのない一瞬がお前の手にある。放り捨てたら、二度と戻ってこないんだ」
指導者として、監督としてはみっともない姿である。心の、ありのままの後悔を十河は吐き出したのだ。
歯切りもよくなく、メンバーたちは互いに顔を見合わせておどおどとしている。
そのなかでクリスは――笑っていた。
ニカッと、朗らかに。一点の曇もない。
「監督! 俺な、今日になって改めて思ったわ! 甲子園いきたい! この学校のやつらでな、甲子園で連覇したいってな! でも、やっぱ気持ちよくいきたいわ!」
そこでクリスはメンバー全員に問いかけた。
「我儘やってええか!? お前ら、俺と一蓮托生してくれるか!?」
彼は、逃げない。
勝負をするつもりだった。
賢一郎を敬遠すればそれで明豊の勝利が確定する。奇跡もなにもない。
その未来を放棄する。
それでいいのかと、クリスは問いかけていた。
最初に答えたのはキャプテンの本山だ。
「いいよ。これが決勝だ。県大会のじゃない。これは、甲子園の決勝だ。そういうレベルになっている」
続けて、明豊の四番がオッケーを出した。
「甲子園に進んで、優勝したところで、スッキリしねえよなあ。去年の夏、今年の春、そして今。ぜーんぶひっくるめて、この試合が最高だ。春夏連覇が学校の悲願? 知ったこっちゃねーよ、そんなの」
結局、ベンチ入りメンバー全員がクリスに命を預けた。
クリスは空に指を掲げた。
「俺にまかせとけ! 恨みっこなしやからな! アイムナンバーワン!」
下手な発音で英語を叫び、クリスは野手を引き連れてグラウンドに駆け出していった。
守備位置についたころ、十河はがくりと崩れるようにしてベンチに座り込んだ。びっしょりと汗をかいているが、拭うこともできない。
もう試合は彼の手を離れた。いまは十河も観客たちとなんら変わりなかった。ぼおっと、他人事のようにマウンドのクリスやバッターボックスの国虎、ネクストサークルの賢一郎たちを眺めていって……、最後に、バックネット裏にいるでっぷりと腹の太った男を見た。
(三好、吉秀……。縁というものはあるもんだな)
賢一郎を育てた三好。
クリスから彼のことを伝えられた十河は、心臓を鷲掴みにされた気分だった。
十河は三好と対戦している。
甲子園で四番を相手に五打席連続敬遠をしたが、その次、五番打者が彼だった。
たったの一試合だけだったが、研究に研究を重ねた。四番を返さなくてはいけないというプレッシャーも与えて、全打席打ち取った。
そして、彼を再起不能にした。
彼もまた、五打席連続敬遠の被害者だった。
人づてにだが、教えられたのだ。四番を一度もホームに返すことができない五番打者としてからかわれ続け、ついには耐えきれず、野球から離れてしまったと。
――私のせいだ。
十河は申し訳無さでいっぱいだった。
彼は自分だけでなく、またもう一人の野球人生を潰したのだ。
ああ、でも――、指導者として復活した。
それはほとんど身勝手な思いであるが、どこか、救われたような気持ちになった。
ありがとう、野球をまた始めてくれて。
そして、もう一つ、ありがとう。プロ級のバッターを育ててくれて。
これまた身勝手なものであるが、十河は嬉しかった。
誰かが言ったが『ここが甲子園の決勝』だ。
最高のピッチャーと最高のバッターが対決する場所こそが、甲子園の決勝なのだ。
(あの日、私は最高のピッチャーではなかった。平凡より優れていただけだった。しかし、クリスは違う。最高のピッチャーだ)
キャッチャーの本山も、一塁手も二塁手も遊撃手も、三塁手も、外野陣も全員、最高の野球選手だ。
あの日のように逃げることはない。
いってしまえ。
突き抜けてしまえ。
(相良賢一郎とクリス・ロビンソン。私は、あの日の再現を、やり直しができるのかもという欲求を抱いた)
だから、十河はクリスの独断行動を許した。
野球界だなんだではない。あの日のやり直しを、クリスに代わりにやってもらいたかった。だが、そうじゃあない。そんなんじゃあもったいない。
(そうさ、クリス。お前たちは私じゃあない。勝負をするってなったんだ。別の道をいくんだろう。対戦だって、これ一回じゃなく、何度もするだろう)
突き抜けてしまえ。
十河は、祈るように選手たちを見守った。
○
――すげえ状況だな。
そんな、他人事のように思いながら賢一郎は打席に入っていった。
夏の甲子園出場をかけた決勝であるが、ここは高知県だ。代表校がとんでもない番狂わせを起こすこともあるが、ここしばらくはクリスを除いて目立った成績を残せていない。
そんな木っ端な地方で、いま、史上最高の戦いが始まっていた。
最高のエース。クリス・ロビンソン。
最高のバッター。相良賢一郎。
エースと四番という王道の対決であり、同じ地域ゆえに甲子園では実現不可能な組み合わせ。
初球からストレート。
外角に大きく逸れていく。賢一郎は見送った。
「ボールッ!」
ワンボール、ノーストライク。
球速は、一六二キロ。
もはや驚きはしないが、歓声が上がる。
ただ速いだけではない。ほとんどのボールは打者の手前で速度が落ちてしまう。一三〇キロだろうと一五〇キロだろうとそこは変わらない。
例外は『強い』投手だ。
彼らの球は速度が落ちることがない。ピッチャーの手からキャッチャーのミットまで、速度がほとんどかわらない。直前で減速する球に見慣れている打者にしたら、球が浮いたと錯覚する。これをノビがあるという。クリスの球にも、そのノビがあった。
第二球目、真ん中高め、甘々のストレート。
見逃さない。賢一郎はバットを振った。
フルスイング。
キィンと打球音がして、三塁線に切れるファールとなった。
ワンボール、ワンストライク。
球速は一六四キロ。止まらない。前人未到の領域に入り込んでいく。
賢一郎もついていく。
どっしりとしたパワーヒッターの構えを崩さず、焦らず、落ち着いている。
ふっと、無意識のうちに賢一郎は言葉をこぼしていた。
「楽しいな」
○
「楽しいな」
その言葉をキャッチャーの本山はしっかり聞いていた。
彼も同意だった。
楽しい。九回裏、最後の勝負。クリスと賢一郎の対戦を、キャッチャーという最も近しい距離から眺められて最高に楽しかった。
彼はこの勝負の部外者だ。
バックを頼ることを覚えたクリスには遠慮がなかった。
際どいところに狙って三振を奪うとか、適当なところに転がさせてとか、そんな考えがなくなったのだろう。
ストレート。
最高のストレート。
実は、賢一郎が打席に入った時点で本山はサインを出していない。
出したと言えば出したが、キャッチャーとして失格なサインだった。
(全球ストレート)
クリスは首を傾げた。
(んー、アホかな?)
(アホだよ。でも、これが一番だ。最高のストレートだ。それしかない)
(キャッチャーなら、リードしてほしいもんやけど)
(ここはお任せするしかない)
本山は高校生キャッチャーだ。プロではない。
彼は身の程を知っている。プロになることはできず、大学へ進んでも目立った成績を残すことはできないだろう。クリスの女房役としての価値が認められているだけにすぎない。
でも、譲る気はなかった。
誰にも譲れない。
クリスの球を受ける機会は、高校を卒業すると、もうないのだ。
もっと受けたい。ずっと受けたい。
どんどん成長するクリスの球を、左手のミットで受け止めたい。
(クリス。俺はお前の球をずっと覚えている。最高の球を、投げろ。お前の才能を見せろ)
三球目、内角低めのストレート。
賢一郎は竜巻みたいなフルスイングだが、空振り。
「スットライッ! ツーッ!」
ワンボール、ツーストライク。
球速一六四キロ。
夢の世界だ。
(ああ、野球。俺の野球は、いま、頂点に達している)
本山は目から涙がこぼれていた。感動が全身でスパークし続けている。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
いや、時が止まったらクリスの進化も止まる。
進んでいけ。
どこまでもいってしまえ、クリス・ロビンソン。
○
四球目のストレート。
内角高め。
賢一郎はフルスイング。バットの根本に当たったボールは高く上がり、バックネット裏に落ちる。落下地点は、ちょうど一条と三好が座っている席だった。
避けようとして一条は身体を傾けるが、すっと横の三好が腕を伸ばしてきて補給する。素手なのに見事なものだ。
「衰えてませんね。まだまだ」
「このくらいで驚かれても困るぞ。ただのフライだ」
一条は三好が手にしたボールを見せてもらったが、縫い目がちぎれてしまっていた。賢一郎のバッティングも並外れている。負けていない証拠だ。
どちらが勝つか。どちらが負けるか。
五球目はボール。ツーボール、ツーストライク。
一条は、もうスコアをつけるのをやめてしまっていた。この打席を見逃したくはなかった。二人のどんな僅かな動きも見逃さず、呼吸さえも聞こうとするほどに耳を澄ましていた。
どっくん、どっくんと胸が高鳴っている。
一条は恋をしたような気分だった。
クリスと初めて出会ったのは、彼が入学したとき。アメリカ人のピッチャーが入ったと言うので、取材に出るよう言われたのだ。
といっても、本命は三年である。そちらは先輩が取材にいった。一条は、おまけだった。女だから、高校野球の経験がないから、だ。
気乗りしないものだった。さっさと終わらせて、帰ろう。そう思っていたが、クリスにインタビューをすると、とんでもないことを答えられたのだ。
――右と左、両方で投げるよう練習してます。
呆れたものだった。夏の甲子園を投げ抜くためという理屈はわかったが、絵に描いた餅だ。右と左、両方ともが使えたところで、どちらともが二流になれば意味はなかった。
一条は、どちらかを一流に仕上げるべきではと尋ねたが、クリスは自身たっぷりに答えた。
――なぁに、天才だからどっちも超一流になりますよ。
こういう年頃って、無根拠な自信があるんですよねと、一条は心の中で嘲笑した。
ところが、だ。冬には一軍に上がり、右だけでなく左も一端の投手レベルになっていた。
困惑した。一条は暇を見つけては明豊に通い、見学させてもらった。
めちゃくちゃに、クリスは頑張っていた。
トレーナーの話をよく聞き、食事にも気を使い、走り込みもウェイトトレーニングも、人の倍はこなしていた。
身体の才能と、まっすぐに野球の道を進む心の才能。
努力と努力と努力。超人的な才能と超人的な努力を続け、いまの彼を作った。
ずっと一条は見続けてきた。
ただの取材対象ではない。
ファンだ。
(自分でも気持ち悪い言い方ですが、私が最古参です。ファンの。勝って、勝ってほしい。やっぱり夏の甲子園で、頂点に立ってほしい)
一条は声援を送らなかった。
静かに、祈った。
○
三好は夏の暑さだけでなく、緊張で汗が止まらなかった。
勝負は冷酷だ。
どんなに実力が拮抗していても、栄光は片方にしか与えられない。
どちらかが勝つ。
どちらかが負ける。
(野球ってのは、勝負っていうのはそういう残酷なものだ。特に高校野球は)
だからこそ、熱中してしまう。
度々、高校野球は非難される。ピッチャーの扱いに関してだ。
夏の炎天下にマウンドで連投する。頭がおかしいと。
事実、こんなものは狂気の沙汰だ。しかし、これが最後なのだ。
大学生になってまで野球を続ける子は少ない。続けていたとしても、どうしても将来を見てしまう。大人になってしまうのだ。
子どもでいられるのはこれが最後だ。
三好は過去の、高校生最後の打席を思う。
甲子園の熱気のなか、ピッチャー十河に完全に封じられてしまった夏の日。
(俺は、野球を楽しめなかった。四番を返さなくてはいけないと思い込みすぎていて、十河に手玉に取られた。フォアボールを願ったりしてしまった)
全然集中できていなかった。
(野球は好きだ。しかし、あのときだけは大嫌いだった。四番に頼りっぱなしだったのだろうな、うちの連中、全員が)
三好は過去の自分を思う。
高校生のころ、あの四番のバットに頼り切ってしまっていた。彼が打ったあと、ピッチャーは意気消沈してしまって、投球にノビもキレもなかったのだ。楽をしウギてしまっていた。
そうではなく、もっと張り合おうとしていたらよかった。
あいつじゃない。俺が、俺のほうがすごいんだと、分きしていたら事情は変わっていたかもしれない。
あるいは、国虎のように絶対に四番を高みへと連れていくと覚悟していたら。
(……俺も、彼らに投影してしまうか)
躓き転んだ過去の自分を、どうしても大須の面々に重ねてしまう。
同時に、十年と少し前、賢一郎と出会ったころのことも思い出す。
(親に連れられて、強引にバットを持たされてて、全然楽しそうじゃなかったんだよな。それでも軟球を打ってるうちに顔が明るくなっていって……)
――野球は好きか?
――好きです!
小さく、三好は言葉をこぼした。
「頑張れよ、賢一郎」
クリスが六球目を投げた。ワンバウンドするボール球。
スリーボール、ツーストライク。
フルカウントとなった。
○
八球目。
「ファール!」
九球目。
「ファール!」
十球目。
「ファールッ!」
賢一郎は粘っていた。
クリスも粘っていた。
賢一郎はどんなコースでもフルスイングをする。
クリスもバットが届かないようなところへのボール球は絶対投げなかった。
いい試合だった。
文句のつけようのない、最高の決勝戦だった。
それでも終わる。
終わってしまう。
「終わりたくないな」
「でも終わるんよなあ」
――次の一球で終わる。
理屈ではなく、心で二人は悟った。
賢一郎は自身が最高のスイングでホームランを打つと確信した。
クリスは自身が最高のストレートで三振にすると確信した。
どちらともが口元に笑みを浮かべる。
賢一郎は穏やかに。
クリスは爽やかに。
竹馬の友のように、二人は笑い合っていた。
いや、竹馬の友になったのだ。
去年の秋に出会い、初夏に再会し、存分にこの試合で遊んだ。遊びまくった。野球で遊びまくった。
観客の声など聞こえない。無音の世界で、二人は存分に遊んだ。
大好きな野球を遊び尽くした。
楽しかったが、もう終わり。別れのとき。
――俺が勝って終わらせる。
クリスは大きく振りかぶった。
左足を前に出し、踵から地面につけて、全身をぐんっと前に引っ張っていく。
ボールを握った右腕を鞭のようにしならせて、人差し指と中指を縫い目に引っ掛ける。
クリス・ロビンソンの野球人生で、最高のストレートが投げられた。
賢一郎はクリスの一挙手一投足ではなく、全体を眺めていた。
動き出したところで軸足に体重を乗せ、バットを振りかぶった。
肩を閉じる。打ち気をこらえる。
溜めて、溜めて、溜める。
ずっと溜めてから、フルスイング。
「――――――――」
「――――――」
「――――」
「――」
打席ではどったんと賢一郎がしりもちをついた。
マウンドでもクリスがうつ伏せになって倒れた。
遠くから歓声が響いていた。
グラウンドの選手たちは動かなかった。
風が吹く。
夏場の高知らしく、暑苦しい風。爽やかな風。
ごろんっとクリスが寝返りを打つ。空を見上げて叫んだ。
「負けたああああああああ!」
賢一郎はバットを杖にして立ち上がり、ふらつきながらも一塁に向かっていく。
精魂尽き果てていたが、彼は笑っていた。
九回裏、相良賢一郎のツーランホームラン。
大須高校は三対二で初優勝を決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます