第75話 睡蓮

 お蕎麦屋さんは口コミ通り美味しくて、まさしく口福こうふくだった。

「蕎麦粉が違うのかなぁ」

「つゆも美味しかったしねぇ」

 ぶつぶつ話しながら、来た道を戻って電車に乗る。

「雨、止みそうにないな」

「箱根は振りやすいから」

「そうなの?」

「ほら、窪んでるから雲がたまりやすいのよ」

「なるほど」と彼は感心している。実際、箱根に来ても富士山の見える日は珍しいように感じた。


 ……お父さんが生きていた頃は、毎年のように箱根にドライブに来ていたけど、あのときは晴れていたのかな……。お父さんのことなんてなかなか思い出さないのに、今日は珍しい。

 雨粒が窓を叩いては流れていく。

 明日は晴れるかしら?せっかく透を誘ってきたのに、富士山が見えなかったらちょっとがっかりだ。


「何、考えてるの?」

 電車の中でも手をつないでくれる透がわたしの顔をのぞき込む。

「次に行くところが楽しめるとこだといいなぁって」

「ボクは何処へ行っても凪と一緒なら楽しいし、いい思い出にできると思うけど」

「そうだね。今日は思いっきりふたりきりだし」

 透が少し意地の悪い顔をした。

「そんなこと言っていいの? さすが、凪は旅慣れてるね。ボクは同じ部屋に布団を敷かれてたり、お風呂に入ったり、ドキドキするけどなぁ」

「え? それは……。お風呂は大浴場だし、確かに布団は敷かれてると思うけど……」

 自分で言っていて恥ずかしくなってくる。


 電車は確実に、ふたりを次に降りる駅まで送ってくれる。




「じゃあ、バスに乗って……」

 ひょいと後ろから透が覗き込んで、

「あのバス停だよ」

 と指で案内してくれる。判断が早いのは、若いからなのかなぁ。それともやっぱりわたしがもたもたしてるからなのか……。

 バスに乗って、美術館に向かう。


「ボクは美術館なんて初めてだけど、凪はよく行くの?」

「だね、透とは行ったことなかったよね。以前はちょくちょく、すきな画家の展覧会に上野に行ったなぁ」

「……詳しいってこと?」

「全然。見たことない人よりは知ってるかもってレベル」

 

苦笑して手を横に振る。わたしのすきなのは近現代の日本画と、印象派。そんなにマニアックではない。透は少し緊張した面持ちだ。

「大丈夫だよ。わたしも美術館デビューは大学に入ってからだし。それに、ひとつの展覧会で1枚、すきな絵が見つかるといいなぁって見てると楽しいよ」

「楽しい?」

「うん、楽しい」

 少しだけ、緊張が解れていたようだった。




「あ、モネ……」

 美術館の中を歩いているとモネの睡蓮の絵が目に入る。睡蓮の絵はそれこそたくさん描かれているけれど、これはどれくらいの頃の絵なのか……。

「すごいね、花の輪郭が水に溶けてる」

 後ろからぼそっと透が囁いた。彼はやはり怖がって、わたしと一緒にまるで博物館のように絵を見て歩いた。さながらわたしは引率の先生だった。


「この人は生涯にたくさんの睡蓮の絵を描いたの。光の移り変わりをキャンバスに映して」

「ふうん……どんな気持ちで描いたんだろうね」

 描いた時の画家の気持ちなんて、あまり考えたことがなかった。晩年、目が見えなくなっていったモネ。少しずつうつろう自分の絵をどんな風に感じていたのか……。




 美術館を出て、旅館に向かう。

 お蕎麦を食べた箱根湯本に逆戻りだ。

「ねえ?」

「ん?」

「凪は大人だからそんなことないんだろうけど、……ボクと来て後悔してない?」

「何を?」

「だって泊まっちゃうんだよ?」

 そういうことも、新鮮なのか……。長期の休みに旅行に行くなんて、それも彼氏と行くなんて、当たり前に自分はなってしまったことに気がつく。透の腕にするりと自分の腕を絡める。

「楽しみ。とても」

「それはよかった」

 透は真っ赤になって、下を向いてしまった。


 駅まで迎えの車が来ていて、宿に向かう。

 本当はわたしもドキドキしている。宿を取ったのはわたしだけど、透の気に入るかわからないし……。ロビーで記帳を済ませ、鍵をもらう。荷物を預かってもらってエレベーターに乗る。透は緊張しつつ、男の子のようなわくわくした顔をしていた。


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