夢の中で/1-2

 最終出社日となる前日、五月三日の木曜日。美星の病室で昼食を終えた私は、天音夫妻に話を切り出した。


「来週、美星さんとデートをさせていただきたいのですが……」


 言ってから、天音夫人が淹れてくれた紅茶を一口飲む。


 天音夫妻は両目をぱちくりさせながら私を見た。この反応も当然であろう。私が彼らの立場でも同じリアクションを取るに違いない。


「それは、えーっと、どういうことですかな?」


 僅かに眉間に皺を寄せながら、天音氏は私に問いかけた。


「今週のゴールデンウィークを全て出る代わりに、来週全てが休みでして。それで、美星さんと一緒に出掛けられれば……と」


 うん。何とかなるかなと思ったが、やはりおかしいか。これじゃあ礼儀正しい誘拐犯だな。


「あー……ははは、急にすみません。やっぱり無理で……」

「何処までですか? 遠い場所は許可できません」


 完全に否定するでもない問いかけに、今度は私が驚く側だった。


「えっと、ここから見える海まで……とか」


 ほとんど直感的に答えたのだが、天音氏はうんうんと何度も頷きながら「妥当ですね」と呟く。それに夫人も「やっぱり久城さんだわ」などと天音氏と同じように頷いて呟いている。この二人は本当に、結ばれるべきして結ばれたのだとつくづく思う。


「どうやって向かうご予定ですか?」


 睨み付けるような目付きで天音氏は私を見る。


「……車で、ですけど。一応バリアフリーの車を予約して……」

「それはいけないわね、あなた」

「あぁ、いけないね。車ならうちにあるし」


 夫妻は互いの顔を見合って頷き合う。


「私達が二人を海に送りましょう。そこからはお二人でということで」

「それがいいわね、あなた」


 ……何故かよくわからないが、私と美星を置いて話が進んでいく。何でだ。


「美星もいいね?」


 夫妻が美星に声をかけると、美星は俯きながら頷いた。


「久城さんも、いいですね?」

「あ、はい」


 まぁこれもデートの一つだ。


 美星は病人なのだし、彼らがいれば私も安心だ。勿論……天音夫妻も安心だろう。


 その折に、ふと若い頃に流行った小説の内容を思い出した。


「まるで……〝世界の中心で、愛を叫ぶ〟だな」


 あれにも似たシーンがあった。


 白血病に苦しんでいる彼女を連れ出して、オーストラリアに向かおうとしたのだが……途中で彼女が倒れてしまう、そんなシーン。今回はそういうことになりはしないだろう。


「ハーラン・エリスンのですか?」


 予想を外れて、顔を伏せていた美星が私の言葉に返す。


「……それは〝世界の中心で愛を叫んだけもの〟だ。私が言ったのは片山恭一さんの小説だ」

「そう、なんですか」

「まぁ恋愛小説だし、君はあまり興味ないかもね」

「私だって読みますよ、恋愛小説ぐらい。久城さんと趣味が合わないだけです」

「へぇ? じゃあどんな恋愛小説が好みなのか教えてくださいますか、マドモアゼル?」

「〝ノルウェイの森〟です」

「……君がそれを読みにはまだ早いだろ」


 天音氏は額に手をやりながらも苦笑し、夫人はころころと楽しそうに笑っていた。


「とりあえず、天音夫妻がいてくださるなら安心だ。来週の……」


 私は天音夫妻を見た。


 夫妻は少し二人で小声で話し合い。


「では火曜日。八日で」


 天音氏が答える。


「わかりました。細かい日程は日曜日にでも。私が美星の見舞いに来た時にお話ししても良いですか?」

「かまいませんよ」


 天音氏は優しく微笑みながら首肯する。


 それを見た後に、私は視線を美星に向ける。美星は猫のように目を細くしながら胸に手を当て、満足気な笑みを浮かべていた。


「そう言えば久城さん」


 天音氏ではなく、夫人が声を上げる。


「はい?」

「金曜の貴方の送迎会なのですが、我が家で行うことになりましたので」

「え」


 完全に予想外だ。


 猪狩が幹事をやるとのことだったので、すっかりどこかの安い居酒屋だろうと思っていたのだが。


「美星もその時だけは来ます」


 夫人と美星は互いに見合った後に、私へ悪戯っぽい笑みを向けた。


「なるほど、夫人と美星の策略ですか。大変ですね、天音院長」

「うちはね、女が強いのです。怖いものですよ」

「院長も肩身が狭いですね」

「もう慣れっこですよ」


 あちらはあちらで、こちらはこちらで、互いに違った笑みを浮かべる。


 言葉にはしなかったが、今日は笑顔の絶えない日だった。この昼食時も、そして仕事に関しても。本当に穏やかで、幸せな時間だったのは間違いなかった。

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