滅私奉公/4-2
戸を開いたその先には、美星が言ったように天音夫妻がいた。
「わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
「いえいえ、それでお話はどこで……」
ここではしませんよね? という意図も込めて美星と天音夫人を交互に見る。天音氏もそれを悟ってくれたようで、短く笑い言った。
「我が家でどうでしょうか。すぐ近くですし、良いお酒も揃えてあります。それに妻が作るものはどれも美味しいですからね」
天音夫人の手料理の誘いは魅力的だ。
「えぇ、ではよろしくお願いいたします」
「では行きますか。美星、また明日な」
天音氏は美星の頭を優しく撫でると、夫人に先に出るように促した。それに夫人は頷き、先に部屋から出る。
「久城さんは明日来てくれないの?」
天音夫人の背中が見えなくなってすぐ、美星はそんなことを言った。
「すまないね。明日も家のことがあるからさ」
「家のことが終わったから来たんじゃないの?」
「今日の家のことが終わったんだよ」
「ふーん……」
そして美星は私に背を向けるようにごろりと寝転がり。
「つまんない」
そう呟いた。
その姿を見た天音氏は嘆息すると、私を見て肩を竦めた。
きっと、「すみませんね、まだ子供なもので」とでも語りたいのだろう。私も「気にしていませんよ」と答えるように肩を竦める。
天音氏はもう一度美星の頭を撫でて、私と共に病室を出た。病室を出てすぐに、天音夫人が院長室から出てくる。夫人の手には天音氏の荷物らしきものがあり、私達を見るとにっこりと微笑んだ。
「良い奥様ですね」
「えぇ、私には勿体ないくらいですよ」
優しい微笑みを浮かべた天音氏に、心が温かくなる。この夫婦は結ばれるべきして結ばれたのだろう。
天音夫人が私達のところまでやってくると、天音氏は「ありがとう」と彼女に言葉を送り、その荷物を受け取った。そして三人でエレベーターに向かう。
途中で猪狩や宮前とすれ違い互いに会釈をしたのだが、宮前は私をぎろりと睨み付けていた。
エレベーターには三人だけで、ドアが閉まったその時に天音氏はふと口を開いた。
「宮前くんは、この病院でもう十年も働いてくれているんです」
「そうなのですか」
「大した給料を渡せるわけでもないのに、ずっと」
「はぁ……」
一階に着いて、ドアが開く。
「美星の看護も最初からしてくれているんです」
「そうなんですね」
天音氏を先頭にし、夫人、私と続いてエレベーターを降りた。天音夫人はぱたぱたと駆け足で受付に向かって、小川さんと何かしら話した後また戻ってきた。
「久城さん、今日は車をここに置いていきなさいな」
「よろしいのですか?」
「いいわよね、あなた?」
「いいとも」
「ね?」
まぁ……ここの病院は深夜であろうと駐車場は解放されているし、飲み終わった後代行で帰れば良いか。天音宅はどこにあるかはわからないが、近くだというのだから歩いていける距離だろう。
「それでは、お言葉に甘えさせてもらいます」
その返事に満足そうに頷き、私達は再び足を動かすことにした。
天音氏の言う通り、天音宅は病院から歩いて十五分程の距離であった。立派な家だったが、豪邸というわけではない。病院の院長ということならば、ドラマのような横に長い豪邸で、白い大きな犬と可愛らしい少女が戯れている……という印象だった。
天音氏は黒い門扉を開き、そのまま玄関へと向かっていく。夫人と私は彼に続いた。
家の中は天音夫妻の性格を表しているように、きちんと整理がなされていた。また数々の調度品はどれもセンスが良く、無駄のないしなやかなものが多かった。
玄関から右に折れてすぐの部屋で、天音氏は足を止め後ろの夫人に言った。
「今日は応接間で飲むことにするよ」
「あら、そう? リビングでも良いんじゃない?」
「まぁ……リビングで話す内容でもないからね」
「……そう」
天音夫人は片頬に手をやり、ふうと息を吐く。二人の空気が急に重くなったように思える。
「あの……?」
「あぁ、いや。すまないね、久城さん。そう言えばどういった話かも言ってなかった。まぁ端的に言うとね、美星の話を貴方には知って欲しいと思いましてね」
「……はい」
やはり美星の話だったか。天音氏と会う前に猪狩と話していなかったら、ここで衝撃を受けていたろう。気が滅入ることには変わりないが、それでも全く知らずにいるよりはマシだと思おう。
「ここに。妻と私もすぐに来ますので、適当にくつろいでいてください」
天音氏は応接間のドアを開けてくれた。私は彼に一礼しその部屋へと入る。
ドアが閉まると、私は深く息を吐いた。そして中央にある黒いソファに腰を下ろす。院長室にあるような革張りのものではなく布製で、座り心地はとても良かった。
「しかし、自宅に応接間か……今の時代にしては珍しい。これなら書斎もあるだろうな」
部屋を見渡してみる。広さは八畳から十畳ぐらいだろうか。毛の長いブラウンのラグが敷かれ、中央には三人掛けのソファと、それに向かい合う一人掛けのソファが二つ。ソファの間にあるテーブルは天板がガラス製のもので、その上にステンドグラスのような色合いをした灰皿と、それと同じ色合いのガラス製のライターが置いてあった。私が座っているのは三人掛けのソファで、その後ろには立派な絵画が飾られている正面には光を取るための窓があった。レースカーテン越しに見えるのは庭だろう。
どうにもこういった……かしこまらざるを得ない空間というものは苦手で、居心地が悪くなって、私は窓に近寄った。レースカーテンを僅かに引いて、庭を見てみる。
夕焼けが温かな陰影をくっきりと残したその庭は、赤と白の薔薇が植えられている。
「天音夫人の趣味かな。あの人ならこれぐらいやりそうだ」
庭はまだ左手に伸びているが、覗き込もうとは思わなかった。ここから見える薔薇と夕焼けの陰影がとても美しく、他の所はどうでもいいと思えたからだ。
ぼうっと、窓を額縁とする作品に見惚れていると。
「美星もね、そこから見える景色が好きなんですよ」
突然声をかけられて、私は驚きながら振り向いた。
「失礼、一応ノックしたのですが」
「いえいえ、私こそすみません。勝手に見てしまって」
「ははは、見てもらうために妻も力を入れてますからね。願ったり叶ったりですよ」
天音氏は着替えており、ポロシャツにゆったりとしたスラックスを履いていた。そして右手にワインを、左手にグラスを二つ持っていた。
「あ、持ちますよ」
手を差し出したが、「こちらがホストですからお気になさらず」と言って机の上にそれらを置いた。
「ワインでよろしかったですか、ビールもありますが」
言いながら天音氏は一人掛けのソファに座った。私は三人掛けの方で彼の正面に来るように座る。
「ワインで問題ございません。ただ舌が貧しいものでして、味の機微に関する感想は……」
「あっはっはっ、久城さん、恐縮しすぎですよ。私だって家で飲むときくらい、うんちくを語られるのは勘弁してほしい性分でしてね。酒というものは誰と飲んで、どう楽しむかです。味なんて二の次三の次ですよ」
「はぁ……」
天音氏は気持ちよく笑いながら、グラスにワインを注いでくれた。赤ワインであった。
「妻はつまみを作ってから来ます。先にやってましょう」
「えぇ」
互いに乾杯して、ワインを一口飲む。
味は二の次三の次だ、などとはよく言ったものだ。私程度でもわかるぐらいに、このワインは上等だった。
苦味や渋味はほとんどなく、葡萄の豊潤さがそのまま口から喉をすり抜け、最後にぴりとした辛みが舌にやってくる。
「これは、その……美味いですね」
「ははは、そうでしょう。私のお気に入りなんですよ」
ワインは口に残るのが好きではないのだが、これはすんなりと飲める。天音夫人が淹れた紅茶といい、この夫婦は本当に良いものを口にしている。
ぐびりと喉を鳴らし、一気に飲んでしまった。
「あ、すみません」
「何を謝ることがありますか。ささ、もう一杯」
天音氏はまた私のグラスにワインを注いでくれた。
「若い人が美味そうに酒を飲む姿は、いつ見ても気持ちが良いものだよ」
言って、天音氏は口の前でグラスを軽く回し、匂いを愉しみつつワインを飲んだ。
なるほど、テレビやドラマ等でよく見る仕草だが、自然とやれるとあそこまで恰好が付くのか。今度川嶋の前でやってみよう。
「これが空いたら白もありますし、ロゼもあります。それとも空ける前に色々飲んでみますか?」
「いえ、さすがにそこまで贅沢は言えません」
そこで、応接間のドアがノックされた。
「妻ですね。久城さんは座っていてください」
天音氏はすくりと立ち上がって、ドアを開けた。
「お邪魔しますね、久城さん」
私は座ったまま体を捻り、天音夫人を見た。夫人は両手で盆を持っており、にっこりとした笑みを浮かべながらそれを運んできてくれる。
盆に乗っていたのは定番のミックスナッツやチーズの盛り合わせ、夫人のグラス、そして明らかに手の掛かっているお通しが入った小皿だった。
「この小皿は自信作なの。鶏を茹でてね、梅ペーストをまぶして……」
「こらこら。そういうのはいいから、君も座って飲みなさい」
「それもそうね」
盆に乗っているものをそそくさとテーブルに並べると、天音氏の隣のソファに座った。
「久城さんは煙草をやられますか?」
「えぇ、少し」
「遠慮せずどうぞ。私も家では時々吸うんですよ」
天音氏は自分のポケットからアイコスを取り出し、私に見せた。
「では失敬して、一本」
テーブルに置かれているライターを使ってそれに火を点ける。天音氏もそれを見て、アイコスを口に咥えて互いに煙を燻らせた。
そうして、私と天音夫妻は一時間ぐらいだろうか、酒を飲みながら今の仕事のこと、互いの趣味のこと、会社や病院のことについて話し合った。その頃には私もすっかり緊張感は失せており、この家に居心地の良さを覚えていた。
「……久城さん」
「はい?」
両肘を両膝に乗せ、顔の前で指を組む姿勢を天音氏は取る。
私はグラスを置いて、背筋を正し彼の目を真っ直ぐに見た。おそらく、ここからが本題ということだろう。
「急に話を変えても良いですかな?」
「構いません。そろそろ本題に、ということでしょう?」
思ったままのことを口にする。これは酒が入っているときの私の悪い癖だ。
「話が早くて助かります」
そして天音氏は少し目を伏せた。そんな彼の様子……いいや心境を察して、天音夫人は彼の左肩に手を置き、私を見る。
「久城さん、貴方は美星のことをどこまで知っていますか」
覚悟していたよりも軽い質問に、思わずがくりとなりそうだったが、当の本人は大真面目だったのでそんなことはしなかった。
「そうですね……今が十六歳で誕生日が三月四日。趣味は読書で、意外な所でサスペンスやミステリーが好き。少し、はは、世間知らずなところのある可愛い女の子、ですかね」
ここまで喋って、自分の気持ち悪さに気付いて酒を飲んだ。
「すみません。決してストーカーとかではないので。えっと、話していたら自然と覚えてしまって」
頬を掻いて彼らを見ると、二人とも辛そうに微笑んでいた。
「家族の話は、どこまで聞きましたか」
天音氏は震える声でそう言った。
「お聞かせ、いただけませんか」
夫人に至っては口元を隠して今にも泣き出しそうである。
どうしたものかとまたグラスに手を伸ばしたが、既に空だった。私は自分で注いで、唇を濡らす。
「ご両親と双子の妹さんが交通事故で亡くなった、と。あとは、その……彼女の見舞いに来る途中の凄惨な事故で、死後の姿も確認できなかった……と」
ぽろりと、夫人は涙を零した。
「そうですか……事故のことだけでなく、美星は
天音氏は額に手をやって、大きく嘆息した。
「あの、何か……私はしてしまったのですか?」
異様な夫妻の様子に私は気が気ではなくなっていた。今まで楽しく酒を飲み交わしていたというのに、夫妻は涙を流し始めてしまったのだ。きっと私でなくとも狼狽するだろう。
「いいえ、久城さん。貴方は何も。ただただ、私達は嬉しくてね」
「それは、どういう意味ですか?」
天音氏は先とは違って、ワインの香りを愉しまずにぐいと一気に飲み干して。
「あの子はね、何も話さなかったんですよ」
「は?」
「あれからずっと、家族のことについて……何も」
「いや、ですからどういう……?」
「ごめんなさいね、私、席を外すわね」
天音夫人は口元を抑えながら応接間から出て行った。
「新しいワインを持ってきます。もう少しお付き合いください、貴方にはちゃんと知ってほしい。あの子のことについて、全部……」
重苦しい空気の中、僅かではあるが私は取り残され、おそらく人生で一番大きなため息をついた。
――思い返せば、この時すでに私は……彼女を愛してしまっていたのでしょう。
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