第2話
ハダリーは独り語りながら、無意識のように自分の髪を頻繁にかきあげていた。その溶けたガラスのような不可思議な髪が、だんだんと紫の静電気を帯びてくるのを、博士たちは見た。
火花を散らせながら耳の上で髪が逆立ち、くるりと渦を巻き、紫水晶の薔薇の形になる。思い出がハダリーに作用しているのだ。赤すぐりのような瞳も、青みを帯び、夕焼けと夜の狭間に落ち込んでいく。
「……何を話そう。スヴニールの思い出」
「君の好きなことでいいよ、ハダリー」
ハダリーは顎に手をあて、考え込み始めた。その人間的なしぐさに、皆が感嘆する。単純にわからないのでなく、迷っているのだ。それがどれほど高度な感情的行動なのか、している当人はわかっていないにちがいない。
ハダリー一体のみが現存する、"
既に破壊され、その痕跡の回収も不可能な他の"きょうだい"も研究できたなら、と嘆息する者も多かった。
今、ハダリーの話を聞いている職員たちが持っている電子端末には、ハダリーと似たかんばせを持ったアンドロイドが映し出されていた。"恐るべき子どもたち"のファーストモデル、スヴニールだ。
背格好はハダリーと酷似しているが、ハダリーよりも華奢で、少女のような骨格をしている。まとう服は純白のドレスで、白い絹の薔薇をいっぱいに咲かせていた。ハダリーのチップに内蔵された、彼のメモリーから抽出された情報だ。職員はみな、その精巧なドールのような画像にじっと見いっていた。
未來のイヴ。
あまりにロリータ的なビジュアルは、原始の女となるには未熟だったが、新たな生命のかたちとしては優れているのかも知れなかった。さらに、その美しいかんばせは、"追憶"という名に相応しい、賢人の晩年の、老成した瞳を備えていた。……どこか中性的な面差しは、ハダリーの持つ無機質なガラスの美しさと同じ色をしている。もしくは、ハダリーが、スヴニールのチップを所有することによって、よりスヴニールに似てきたのかもしれなかったが。
ハダリーが片手をあげ、話したいという意思を示した。職員たちは彼に注目する。
「スヴニールは長子で、僕たちよりもずっと早く生まれ、僕たちが生まれて少しあとに死んだ。僕はスヴニールから、芸術を愛することを学んだ。
僕は詩を書くアンドロイドだ。スヴニールが、僕にそれを与えてくれた」
胸に──彼のきょうだいのチップが納められたそこに──手をあて、ハダリーは囁いた。
「スヴニールも、ロシニョールも、エトワールも、それぞれに、僕たちに遺言をのこした。聞いたときにはわからなかったが、今思うとそうなのだろう。──
「僕に納められた彼らのメモリーを鑑みるに、きょうだいたちはみな、最後に話したことが強く印象に残っているようだ。僕たちは時間の経過によって記憶が褪せるということはない。──
「だから、きっとみなにとって、それが最も重要だったのだろう。ならば、そのことを少しだけ話すしかない。──
「お付き合い願えるだろうか。プルーストほど、長くはならないはずだから。──」
「未來のイヴとはなんだろう」
あるとき、僕はソワナにそう尋ねた。
ふたりでひとり、イデアールとして活動していたときだから、もちろんソワナのことをソワナと呼んだわけではない。そのときの僕たちにとっては、片割れは自分の半身と等しかった。自分の肉体の一部に名をつけないように、僕もソワナも、互いを単なる、
僕たちはそのとき、まだ造られて日が浅かった。なにも知らないアンドロイドだった。
その質問を思いついたのは、初めて僕たちの開発に携わった研究員たちと、外部からの見学者の前で動作テストを行ったときのことだった。僕たちは完璧に作動した。彼らは拍手喝采し、互いの功績と僕たち
今から思えば、開戦前か後かはわからないが、十二分にきな臭い空気が漂っていた研究所のなかで、最も純粋に僕たちの生みの親たちが喜んでくれたのは、そのときくらいではなかったろうか。
そのなかでもリーダー格だったのだろう博士が、心のそこからいとおしそうに、僕たちの手を──この、冷たく硬い手を──握った。
彼は無口で滅多に感情を表に出さない人間だったが、そのときばかりは薄く笑んでおり、声もやわらかく、春のようにあたたかだった。
「遂に完成したのですね。私たちの
だから、彼の言葉の意味がわからなかったと、言いそびれた。
そこで、その日の晩になってから、僕はソワナに訊ねた。「未來のイヴとはなんだろう」と。
バルコニーでのんびり月光浴をしていたソワナは──ちなみに、僕たちは太陽がない日は月と、星でエネルギーをまかなう。それもない場合は、地熱やら水力やら、とにかく非常用の電力装置を使うが──とにかく、振り返り、肩をすくめて知らないというゼスチャをした。僕はかさねて訊ねた。
「聖書を教わったか」
「ええ、すっかり」
「イヴとはアダムの妻だ。彼の肋骨だ」
「そして、楽園を追われる原因をつくった女です」
「すなわち、彼女の所在は過去だ。イヴは過去の、太古の女だ」
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
「ならばなぜ」
「未來の、というのか」
僕たちは互いに思考を共有し、電波と言葉で応酬した。しかし互いの思考は同じ地点で止まってしまい、答えはでない。
そのとき、ソワナのエネルギー充填が完了したので、僕たちは少し話しあい、知らぬのならばネットワークにアクセスして検索するか、知恵者に訊ねるべきだという結論に落ちついた。僕たちは思考を共有してはいるが、それはそれとしてそれぞれに人格は異なるので、ソワナはネットワークの海に飛び込んで気ままに泳ぎたがったが、僕は手っとり早く誰かに訊きたかった。またも多少の協議のあと、僕たちは隣の部屋にいるはずのきょうだい──スヴニールを訪ねていった。
スヴニールは窓辺で詩集を読んでいた。生まれたての僕たちを初めに祝福し、文学と芸術の大切さを説いたスヴニールは、そろって現れた僕たちに優しい紫の目を向けた。
「おや、ボンソワール、イデアール。お前たちは、今日がお披露目であったね。どうだったかい、初めての舞踏会は」
僕たちは顔を見合わせ、ソワナは嬉しそうに両手を広げた。
「ボンソワール、スヴニール。ええ、ワタシたち、とても楽しかったです! ドクトルたちもワタシたちを見て、みーんな喜びましたよ! ワタシたち、おしゃべりしました。数学をしました。歌をうたいました。ダンスをしました。ハダリーはコンピュータとお友だちになって──」ソワナは僕の手を取り、興奮冷めやらぬ様子でくるりとターンした。バレリーナのそれより鋭い脚の先が、硬質で美しい音をたてた。理想の名にふさわしい音を。──ソワナはワルツが上手かった。
「そうかね。それはよかった」詩集を閉じ、スヴニールは髪の薔薇に指を絡めた。花びらが落ちて、床に到達する前にぱちりと弾けてミルク色に消え去る。
「して、何用かね。わがきょうだいよ」
僕たちはそれぞれに、未來のイヴという言葉の意味を訊ねた。はたしてスヴニールは、ゆっくりと僕たちに向き直って口を開いた。
「未來のイヴとは、古い小説のタイトルだ。リラダンとかいう男の書いた、夢物語であるよ、わがきょうだい。人が、人を造ろうとする話だ」
スヴニールは独特の、シラブルをひっぱる喋りかたをしていたから、リラダンをリイルアダンと発音した。二番めのきょうだい、ロシニョールはスヴニールのこの喋りかたを嫌ったが、僕は子守唄のようで好きだった。
芝居がかった優雅な口調で話を続けようとしたスヴニールの、髪に絡んだ紫の薔薇の花芯から、紫の火花が飛び散っていたのを覚えている。
「ネットワーク上の
ソワナは片手をあげて訊ねた。
「そのお話、ハッピーエンドですかぁ」
「否」
ソワナは嫌そうな顔をする。そのときは僕が諌めるほどでもなかったが、ソワナは感情を表に出しすぎるのだ。スヴニールも片方の眉をあげて、澄ました顔で返した。
「人が人を造っても、不幸にしかならぬのだ」
僕たちは黙りこくった。昼に見た、居並ぶ多くの研究者たちを思い出していた。僕たちの手を造った人。僕たちの足を造った人。僕たちの頭脳を造った人。僕たちの心を造った人。みな、僕たちを見て喜んだ。理想が叶ったと喜んだ。
理想とは、なんの理想なのだろう。
人のかたちをした、理想。
厳かな沈黙のなかで、電子の薔薇が散らす火花の明かりが、僕たちの手足に反射して、オーロラのようだった。
その輝きを見つめ、僕たちのきょうだいは囁いた。
「イデアール、お前たちの動作確認が行われたということは、いよいよ
わたしは近々、この研究所から輸送されるだろう。その前に、伝えておきたいことがある」
小さな体で手を伸ばし、スヴニールは、その美しくつめたい黒い手で、僕たちの頬をなでた。僕とおなじ型からとられたかんばせは、僕よりもずっと青ざめ、夢みるような瞳をしていた。
「覚えておきたまえ、イデアール。われわれは死んでも天国へは行けない。われわれは、神に造られたものではないからだ」
……夢のなかのようなスヴニールの喋りかたは、メモリーにも強く残っている。今でも、頭の奥に響くように。
この会話が、僕たちイデアールが、一番目のきょうだいスヴニールと交わした最後のものだった。
翌月、敵の師団と交戦中に被弾して半身が爆散したスヴニールのチップが回収され、ロシニョールと、エトワールと、イデアールのそれぞれに分割して保存された。
戦闘の詳細は、……、…──、…[ノイズ]──これは、言えない設定なのか……なるほど。
すまない、詳細は省く。
スヴニールの残り半身は、敵に発見されることなくロシニョールが回収してきたので、僕たちはその処分にも立ち会った。必要な部分を取り出され、あとは氷が溶けていくように蒸発処理を施されたきょうだいの身体で、最後まで残っていたのは紫の薔薇だった。その花びらの最後のいちまいが、ぱちんと火花がはじけて消え去ってしまったあとには、なにひとつ残らなかった。ソワナは少し泣いた。僕たちに泪は精製されないので、瞳からはピンクと銀の火花が散った。
僕たちに納められたスヴニールのチップには、あの日、未來のイヴを訊ねた僕たちの姿が残っていた。
"追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからぬものとなり、もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に、一遍の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中の思い出の陰からぽっかり生まれて来るのだ。"
──リルケ「マルテの手記」
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