第69話 古書店


 会社帰りの夜。

 駅頭を離れて街を歩いていると、一軒の古書店が目がついた。

 古びた店のほんのりとした灯りに引き寄せられ、私はガラス戸に立ち止まった。

 見れば年季のある本たちが棚に収まり、なかには平積みになった本もある。

 少し寄りたくなってスーツ姿でカバンを持ちなおした。そして革靴を前に出して引き戸をカラリとあけた。

 古紙の香り満ちる空間に入り、狭い通路を順繰りにわたって特に目当てもなく本を探った。

 するうち、外箱がひどく傷んだ本が気になった。箱から慎重に抜いたそれは明治の哲学書だった。

 拾い読みしようと思ったが、壁の注意書きを見てとどまった。

 棚から目を移すとレジの老夫は眠っているように見える。しかし近寄れば眼鏡が上がり本が受け取られた。

 会計後、店を出て、紙袋をカバンにしまい家路につく。

 そしてマンションのエントランスを抜け、誰もいない自室にあがって食事をとった。

 風呂から出たあとベッドのふちに腰かけた。紙袋から本を出して膝にそっとのせた。

「少し読んでみるか」

 私は夜の静寂のなか、時計の秒針を耳にページを繰った。

 ……いつのまにか耽読している自分に気づいた。

 百年以上昔の文面が時を隔てて熱く語り掛けてくるのだ。著者の哲学論は興味深く、時間を忘れて引き込まれた。

 残り数十ページになった時だった。紙面を指でつまんでひらくと──

「あっ!」

 突然、何かが羽ばたいた。宙に舞った。微細な粉が降ってきて思わず咳き込んだ。

 一匹の汚らしい茶色の蛾──だった。

 まるで解放感を得たようにひらひら飛び、粉を散らして部屋をめぐる。ようやく出られたといわんばかりの喜びよう。

 私はあっけにとられた。状況が受け入れられず、ただ目で追うしかなった。

 腹がでっぷりとした蛾が不規則に飛んでいる。私はその下で成り行きを見守るばかり。

 やがて気持ちのわるい蛾は天井の角に羽ばたいていった。角の頂点にぶつかると思えば、空気に溶けるみたいにして、すぅっと消えた。

「……」

 しんとした部屋のなかで、秒針の音がコツコツと流れている。私は身動きがとれず背筋に寒いものを感じていた。

 見間違いではない。たしかに本のノドから突然、奇妙な蛾が飛び立ったのだ。

 長らく閉じ込められていたらしいが、ページのぴったり閉じた中でそんなことは不可能なはず……。

 信じられない気持ちにさいなまれた。いくら考えても「ありえない」の一言にたどり着く。

 私は心の乱れが落ちないまま紙面を凝視した。残った粉を見て嫌な気持ちにつつまれた。

 ……この本は明日、店主に返品を持ち掛けたほうがいいようだ。

 こんな不気味な物を自室の棚にしまうわけにいかない。そうだ、必ず返品しなければ……。

 額に脂汗を重苦しく感じ、しかし粉が誘惑してくるのを悟った。強い興味が襲ってきて自制が利かなくなった。

 私は指の腹をページにあてて、指紋の溝ですくい取った。自分が何をやっているのか不思議だった。

 指を上げて、粉をじっとりと見つめた。ややあってから操られたようにして、舌でベロリと舐めとった。

「おおっ!」

 なかなかの美味だった。意想外の感動に心が躍る。蛾の粉がこんなにおいしいなんて知らなかった。

 夢中になってどんどんすくいとった。指をにちゃにちゃ吸って舐めまくった。

 粉を平らげたあと、もっと味わいたい欲求に胸中がはしゃぐ。どうやら私は今、満ち足りた笑みを浮かべているらしい。

 ……やはりこの本はうちに置いておこう。

 こんな素晴らしい物を誰かに渡すわけにいかない。この本は私だけの宝物だ。

 あの美しい蛾と再会できることを願い、日々、肌身離さず大切にしよう。

 そう決意した途端、急激な眠気がやってきた。あらがえず本といっしょにベッドにもぐりこむと、深い眠りに落ちていく──

 翌朝。

 部屋をぐちゃぐちゃに荒らしたあと、いつものように電車で出勤した。だが仕事はあまり手につかなかった。

 ぼんやりと机に向かい、同僚たちの話す言葉も上の空で聞き流していた。途中、上司の罵声が飛んできたが、まったく気にならず、むしろほがらかな笑顔で応えた。

 昼休み、食事を抜いて古書店に向かった。昨夜の出来事を確かめるためだ。

 私は甘く香ばしいパンの匂いただよう店内に入り、カウンターで静かに座っている眼鏡の少女に話しかけた。

「あのすみません。昨日、ここで本を買った者ですが、店主はいらっしゃいますか?」

「……?」

 店主の孫だろうか。

 地味なエプロンをかけて小柄で、まだあどけない顔からして中学一、二年ってとこだろう。陰気で臆病そうで、なんとなくいじめられっ子の印象がある。

 少女は椅子にかけたまま、遊んでいたらしきロボット犬を膝にのせ、警戒したようにあごを引いた。

 黙って目を合わせていると、今度はおもむろに小首をかしげた。頬にかかった髪の毛先もかたむき、唇から弱々しい声が漏れた。

「あの……。本、ですか? 本……?」

 声を出した拍子に、無機質な目をした電子ペットの前足が機械音をたててギイギイ動く。

 少女はそのプラスチックのあたまをおさえた。ペットの垂れさがった耳が揺れて、尻尾がウィンと立った。

 なぜ少女はこちらに対して消極的な反応をするのだろう。もとからこんな性格なのか不明だが、私はふたたび問いかける。

「店主ですよ店主。昨日の夜、カウンターに座っていた老夫の方です」

 少女は動揺した声色で、「わかりません」とかぶりをふった。人馴れしていないのか挙動があやしく、あきらかに心拍数の上がった顔つきになる。

「えっと、うちは、ほ、本は取り扱ってないです……」

「いやいや。そんなはずはないでしょう。だってここは」

「あの、えっと。古書店じゃないので、へ、変なこと言わないで、ください」

「変なことって、ここはどう見たって古書店じゃないですか。焼き立ての香ばしいパンの匂いのする古書店じゃないですか」

「……」 

 少女は困惑した目で唇を引っ込めた。まぶたのふちに涙の玉が浮かんできて、震える手がエプロンのポケットに入った。中で何かを握ったらしく、パキリとこもった音がする。

 どうやら私に酷くおびえているらしい。びくびくしながら頬に赤みがさしてきた。

「こ、こ、ここ、ここは、古書店じゃ、な、ないです」 

「いや、そんなはずはありません。昨日まちがいなくこの店で買ったんです。ほら、これです。見てください」

 私はスーツのシャツに手をさし込み、腹からあたたかい本を出して突き付けた。そして話をつづけた。

「昨日の夜です。会社が終わった帰り道、この店へひとりで来ました。そしてそこに銀髪頭の老夫がいました。最初、お客がいるのに船を漕いでいるのかと思ったのですが、私が近づくと鼻から眼鏡を上げました。本を出すと鶏足みたいなしわ深い手が受け取りました。お金を払えばそろばんを弾いて会計をはじめました。わかりますよね? 要するにあれですよ。私は大事な用件があるので店主の所在を知りたくて今ここにやって来たのです。だから、だからあの人に会わせろ! どうしても訊きたいことがあるんだ早くしろ」

「!!」

「あの綺麗な蛾と再会するにはどうしたらいい! 頼む。天井に消えたきり部屋のどの壁をえぐっても見当たらないんだ。この店に戻ってきたのか戻ってきてないのかはっきりしてくれ! え? え? どうなんだ? おい、蛾の行方を知ってるんだろさっさと教えるんだ!」

 笑いながら歯列を見せて詰め寄ると、少女は突然、顔をおおってわっと泣き出した。ひらいた手から薬のシートが落ちた。犬が床にぶつかり歩行の動作で空気をかいた。

 少女はペットを抱き上げサンダルを脱いで裏に引っ込もうとした。しかし白いソックスを滑らせて転んだ。廊下に身をしこたま打ちつけ、脚を崩したうつ伏せで泣き声をあげる。

 店内に獣のような嗚咽が響いた。犬が横向きで激しく回ってキャンキャンほえた。

 私は笑みをたたえたまま右に左に歩き、どう対処すればいいのか戸惑った。

 奥が騒がしくなり、夫婦らしき二人が駆けてきた。どちらも焦燥した面持ちで少女を介抱しはじめた。男のほうが抱きかかえ、私を睨んで「今すぐ帰ってくれ」と強く叫ぶ。

 私は何事かまったく理解できず、ただ痙攣して泡を吹く少女をうしろ目に飛び出した。外に出て店先を見上げるとベーカリーの看板がかかっていた。

「なんなんだ。いったい……」

 どうやらあの女の子は精神を病んでいるらしい。そもそも平日のこんな時間にあんな年若の子が店番をしているなんておかしいのだ。

 私は不服な気持ちで本をシャツにしまい、きびすを返して店を離れた。そして会社までの道中ずっと、「粉、粉、粉」とつぶやきながら歩を運んだ。

 帰社したあと、部署に入ってすぐに全裸になってラジオ体操をはじめた。なぜか周囲の誰もがア然とした顔つきで眺めてきた。

 私はかまわず手足を元気よく動かした。口で音楽を唱えつつ同僚を次から次へと誘ってみたが、皆が皆、奇異なものを見る目で離れていく。

 

 ──あれから一年が過ぎた。

 私は今日も古書店とその店主を探し求め、ひとり街をさまよっていた。

 冬の夕まぐれの曇った空の下で、ちらつく雪を視界に重い足どりで歩く。通行人のほとんどが私を嫌悪の満ちた顔で避けてゆく。

 それにしても、街のどこを巡ろうとあの店が見つからない。今日も徒労に終わりそうな予感に寒気と空虚感が増してくる。

 はぁ、そろそろ病院に戻らないとまた大変な目に遭ってしまう。脱走したことがわかれば、おしおきされること確実だ。

 何日も拘束具で固められる生活はもうこりごりである。

 だがすでに職員たちにはバレているだろう。しかし帰るマンションはとうに奪われた。

 仕方がない。ここは本を片手にしょんぼり肩を落として病棟の灯りに入るとしよう。

 

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