第3話 お兄様 と おにいたま

「……」

「――ま?」


 彼女の言葉に頭の中が真っ白になっていた俺。す、少し落ち着いた方がよさそうだな。


「……」

「――様?」


 俺は確かに彼女へ「許してもらえるかな?」と訊ねていた。それに対して条件をつけてきた彼女。


「……」

「――い様?」

 

 その条件が「小豆と一緒に恵美名高校を受験することを許してほしい」と言うこと。

 でも、それって……俺を許しているってことなんじゃないか?


「……」

「――兄様?」


 いや、だってさ? 俺に、小豆と彼女が一緒に恵美名高校を受験することを断る理由なんて存在しない、いや拒否権なんてないんだしさ。むしろ俺から土下座をしてでもお願いしたいくらいだ。

 そもそも……俺が許してほしかったのに、俺に決定権を委ねられているってことだよな。それって、どう言うことなんだ?


「……」

「お兄様?」


 彼女の心意は「どうでもいい」でも、「敵意を向けている」訳でもないってことなのか?

 なんでだ? だって、俺には嫌われる選択肢しか存在していないんじゃないのか? いや、それしか選んでいないんだぞ?


「……」

「お兄様ぁ~? ……むぅ~」


 頭が真っ白なまま、必死で答えを導き出そうとしていた俺。

 だからなのか、目の前で必死に俺の方を見つめながら、何かを言いながら少しずつ表情を変化している彼女に気づいていなかった。その瞬間。


「お兄様!」

「――ッ! ――ははははじめまして、妹さんの親友の兄の霧ヶ峰善哉と申します。べべべ別に人気ひとけのないところに妹さんを連れ込んだ訳ではなくてですね、人に聞かれたくない事情があってむを得ないと言いましょうか……とにかく何も変なことはしていないの……あれ?」  


 突然考え事をしていた俺の鼓膜に大きく響いた、彼女の「お兄様!」と言う単語と。

 少しムクレながら俺の方を向いていた彼女が映し出される。

 だから俺は咄嗟に後ろを振り返り、頭を下げながら『彼女のお兄様』にご挨拶と弁解をしていたのだった。

 うん、俺を見ていたのではなくて、俺の後方。つまり背後を見ていたのだと思っていた俺。

 別に誰かに責められるようなことはしていないんだけど、頭が真っ白だったせいで気が焦っていたんだと思う。

 そんな理由で頭を下げたまま必死に弁解していた俺だったけど。

 途中で違和感を覚えて頭を上げると目の前には……誰もいなかったことに疑問の声を発していた。


「……何をしているのですか、お兄様は?」


 そんな俺の背中に向けて、彼女の呆れた声が降りかかるのだった。


「……え?」

「……ふぅー」

「……」


 俺が驚いて振り返ると、心底呆れ果てたような表情で落胆のため息をつく彼女の姿が映し出されていた。

 そんな彼女の表情を見たくなかったからなのかも知れないが、もう一度だけ後ろを振り返って二度見していた俺。

 だけど二度見しても現実は変わらなかったのである。

 とは言え、ただ俺が見落としているだけなのかも知れない。彼女の視線の先が俺の背後とは限らない。

 もっと遠方を見据えている可能性だってある。


 そうさ。某みてるラノベに登場する男性恐怖症のお姉様は、自分の妹なら「どんなに人混みに紛れようとも、たとえ姿形が変わろうとも、必ずあなたを探し当ててみせるわ」と宣言して。

 とある男子校の文化祭において人混みの中を、とある事情により着ぐるみを着て近づいてきた妹を。

 瞬時に妹だと見抜き、駆けつけて抱きしめたのだ。

 うむ。姉妹とか兄妹の絆と言うものは、時として他人を凌駕りょうがする力を持っているのだろう。


 ……とは言え、当然すべての姉妹や兄妹に当てはまる訳もなく。

 俺のように兄妹スキルを欠如した兄もいるだろうが、目の前の彼女には備わっているのだと思う。

 すなわち、俺の常識で探していても意味がない……もっと広範囲で探さなくては!

 そう考えた俺は見える範囲をキョロキョロと探していたのだった。

 だけど一向に『彼女のお兄様』を見つけられずにいた俺。もしかして「馬鹿には見えないお兄様」なのかと不安になりながら必死に探していたのだった。

 ――こんなことを思いつく時点で俺にはお兄様が見えないんだよな。馬鹿だから……。


「……いえ、どうして、もう一度振り返っているのですか、お兄様は?」

「……え?」


 そんな俺の背中越しに、変わらぬ彼女の呆れた声が響いてくる。

 ほら、冷静さを失っている俺だから彼女の言った「お兄様」が、『俺の行動にかかっている』なんて気づけずにいたのだろう。やっぱり、こんな馬鹿な俺には絶対に『彼女のお兄様』を見つけることなんて無理なのだ。

 いや、そもそも俺、彼女が一人っ子だって知っていたんだよね……アホだな、俺。

 ただただ困惑の表情を浮かべて振り返り、彼女のことを眺めていたのだった。


「……ぅぅぅ……オニイサマ、ミエナイ……」

「え?」

「……あ! もしかして……」


 見えない不安からか、迷子の子供が泣くのを我慢しているような顔で、ボソリと片言の日本語のように呟いていた俺。そんな俺の呟きを聞き取ったのだろう。目の前の彼女が驚きの声を発した。

 その瞬間に俺は、とある答えを導き出して再び振り返る。


「ここで残念なお知らせがございます……」

「――え? ……」


 だけど背中から聞こえてきた彼女の声に再び向き合うことになる俺。

 そんな俺に向かって――


「ご期待に添えられなくて申し訳ありませんが……私は生憎あいにく、亡くなった母の遺伝子を受け継いで周囲の霊と交流を深められるような……そんな『霊感』は持ち合わせておりませんの」


 心底疲れた顔をしながら言葉を繋げる彼女だった。


 彼女の言葉。俺の考えていたことなんだけど。

 これは某四コマ漫画原作のアニメ作品の設定。

 出産時に鬼籍きせきに入ってしまった母親の霊感体質を受け継いだ女子高校生。

 そんな霊のえる彼女と友人達が織り成すハートフル霊感コメディ。

 普通だったら一巻から始まる円盤が、タイトルにちなんで『〇巻』から始まる作品なのである。


 俺がオススメした作品を、彼女も視聴してくれていたようだ。

 うん。俺が思い当たるのは当たり前の話だと思う。だけど彼女が気づいてくれるなんて思っていなかった。

 ごく自然に彼女の口から紡がれた『俺がオススメした作品』の設定を聞いて、心の中で言い知れぬ嬉しさがこみあげていたのだった。


 俺の考えたことを言い当てた彼女は、『霊感』ではなくて『テレパシー精神感応』を受け継いだのではと感じざるを得なかった。

 彼女の言葉で一瞬だけ、そんな考えが過ぎったのだけど。


 ――いや、嘘です嘘です本当に思っていませんし、亡くなっているって部分を肯定した訳じゃないんで許してください、風音かざね奥様! そして雨童うどう旦那様!

 俺は心の中で風音奥様と雨童旦那様――彼女の御両親に慌てて謝罪をするのだった。

 ……うん。だって彼女の御両親はご存命。いや、ご健在なのだからな。



「えっと……」

「なんでしょうか、お兄様?」


 心の中で御両親に謝罪を済ませた俺は、改めて彼女に声をかけていた。そんな俺に優しい微笑みを浮かべて答える彼女。

 さすがに再び振り返る訳にもいかず。と言うより、なんとなくは気づいたんだろうな。うん、さすがにジッと圧力をかけながら俺を見つめて「お兄様」って答えたのだから、さ。

 でも、まぁ、半信半疑だったのかも知れない。うん、信じられないもんな。俺に対して「お兄様」って呼ぶなんて、さ。イミワカンナイ!

 だけど真実を確かめる必要に迫られていた。心意を確かめる必要があったのだ。……変な勘違いだったら恥ずかしいからさ。

 俺は恐る恐る人差し指を自分に向けて訊ねるのだった。


「お兄様……って……お、れ?」

「……他に誰がいらっしゃるのですかぁ?」


 俺の質問に「なぜ、そんな当たり前のことを聞いてくるのでしょう?」なんて落胆の表情を浮かべて答えていた彼女。


「……お兄様?」

「そうですよぉ?」

「……お兄様?」

「……兄上さまの方がよろしいのでしょうか?」

「――いえいえ、滅相めっそうもござらん!」


 それでも信じられずにいた俺は聞き返していたのだけど、突然提示された彼女の代案に慌てて否定していたのだった。って、いつの時代の人間なんだよ、俺……。


「……では、『おにいちゃま』、『おにいたま』、『にぃに』、『おいたん』のどれがよろしいですか? 少し恥ずかしいですけど我慢して――」

「お兄様でお願いします!」

「はぁ……」


 俺の言葉を否定だと受け取った彼女は顔を赤らめつつ、新たな選択肢を提示してきた。って、あきらかに幼児化しておりませんかね? と言うより、別の呼び方が混じっていますし。

 ……うん、はっきり言って彼女レベルの女の子に幼児化呼称で呼ばれた日には「勝ったな! がははっ!」と腰に手を当てて上半身を後ろに仰け反りながら。

 周囲に俺の笑い声を轟かせるほど、勝利に満ち溢れていることだろう。当然周りから「やかましい!」と怒鳴られて、ションボリしながら謝るけどさ。あと、何に勝利したのかも謎だ。

 つまり、俺個人としては非常に切望したいところなのだが、彼女としては「少し恥ずかしいですけど我慢して」呼ぶってことなんだ。俺の願望で彼女を羞恥しゅうちに染めるのは最低だと思う。

 だから「お兄様」でお願いしていたのだった。そんな俺の必死さにキョトンとしながら相槌を打っていた彼女。

 だけど俺って最低だからさ?


「……まぁ、二人っきりの時には呼んでもらいたいかな――ヴェッ!」

「はい? ……ぁぁ……」

「い、いまのなし、いまのなし!」

「……はい♪」


 俺は心の中で押し殺すことができずにいた願望を、口から漏らしていたのだった。耳に届いた言葉に思わず恥ずかしくなって両手で口を塞ぐ俺。既に言葉は彼女の耳にも届いてしまっているんですけどね。

 ボソボソと呟く程度の音で紡がれた願望の言葉に、一瞬だけ怪訝けげんな表情で声を発していた彼女だったが、言葉を理解したのだろうか。頬を桜色に染めながら声を漏らしていた。

 俺的には「周囲の人が聞いている場所では恥ずかしいだろう」なんて考えて漏らしていた願望だったんだけど。冷静に考えれば「俺のことを『そんな風に』呼ぶこと自体が恥ずかしいんじゃないか?」って、思い直していた。どう考えても後者だよな、確実に。

 第一、俺が彼女と『二人っきり』になったことなんて今までないし。

 これからだって皆無だと思っているのに、「何を自惚うぬぼれているんだ!」と恥ずかしくなっていた俺。

 冷や汗を浮かべた顔で必死に否定をしていた。

 そんな俺の姿を見ていた彼女は、嬉しそうな満面の笑みで了解してくれたのだった。

 

 ――余談なのだが。

 彼女は俺の否定を了解してくれていたのだと思っていた。だからホッとしていたんだけど、それが俺の勘違いだと理解したのは、この日から数日後――。

 俺は彼女からお誘いを受けて、一人で彼女の部屋を訪れていた。そう、二人っきりなのだ。

 いや、染谷さんやメイドさん達は屋敷にいるけどね。それでも屋敷の規模的に二人っきりと断言できるはずだ。

 うん、庶民の家で言えば確実に俺達が俺の部屋にいるとして、染谷さん達は永山さん宅……の隣の隣の家に待機しているようなもんだろう。普通に考えて二人っきりだよね。

 いいのかな……お邪魔しておいて今更なんだけどさ。

 俺って女の子に興味のある年頃の男子なんですけどねぇ。

 きっと周囲は俺のことを「腰抜けのヘタレ野郎だから間違いなんて起こせない」とでも思っているのかなぁ。甘いよな……。

 俺って『女性に免疫のない』腰抜けのヘタレ野郎だから間違いは起こさないけど泣き出すよ? 訳もわからずに土下座したり、突発的に宇宙と交信するよ? いきなり部屋の隅で体育座りして床に『の』の字を書きだすよ?

 相手にするのが大変じゃないですか! 彼女に苦労をかけさせてどうするんですか!

 間違いは起こさないけど、ごらく部ばりに大事件は起こりますよっ!

 まぁ、今は……ジャンボ寝そべりクッションのほとりちゃんを抱きしめているので落ち着いておりますがね。


 うん……今、俺が抱きしめているほとりちゃんは彼女の部屋のほとりちゃんである。うちの子は現在、彼女の両腕に抱きしめられながら、俺達をにっこらにっこら眺めているのです。まぁ、俺ではなくて抱きしめているほとりちゃんを眺めているのかも知れませんが。


 えっと、ここで大事件です!

 実はうちの双子のほとりちゃんには生き別れた姉がいたのだ! ……なんて大げさな話ではなく。

 単純にうちの子達は彼女の御両親が三人の友好の証として、三人にプレゼントしてくれたものなのだ。だから本当は双子ではなく三つ子なんだね。

 ――だから、そんな大事な彼女に俺の一日分の燻製されたシャツを着せるとか何を考えているんですかね、小豆さん?

 いや俺達は『里帰り』と称して二人を彼女のほとりちゃんに会わせている。だから小豆のほとりちゃんも彼女は抱きしめることがあるんだ。

 だから抱きしめた時、「小豆さんのほとりちゃん……ちょっと臭うわね?」なんて思われたら凹むだろうが! 俺が……。

 なんか想像したら凹んできたから、先に進めよう……。

 

 つまり二人っきりの時間を過ごせる。それだけでも俺にとっては青天の霹靂へきれきだったのに。

 その際に、顔を真っ赤にしながら膝の上で両手の指を絡ませて、モジモジしながら彼女の口から紡がれた『おにいたま』と言う単語。

 ……本当に「ああ……どうせ俺の妄想による夢オチだろ、これ?」とか思っていたくらいに、目の前の光景が信じられなかった。

 それでも、いつまでも覚めないまま……何度も彼女の唇は俺に向かって『おにいたま』と紡いでいた。

 そんな光景を目の当たりにして、さすがの俺でも「現実なのか?」なんて気づくのだった。

 だけど、あの時俺の「いまのなし!」に了解していたんじゃ?


「……あの時って、俺の言葉に返事をしていたんじゃないの?」


 不安を覚えて恐る恐る訊ねてみたんだけど。


「……そうですけど? 私は『二人っきりの時には呼んでもらいたいかな』って、おにいたまが言っていたので、どれがいいか選んでいたのですけど……普段が『お兄様』なので『おにいたま』にしようと決めたのでお返事をしたのですが……も、もしかして考えている間に、何か話しかけていたのですか、おにいたま?」


 こんな答えが返ってくるのだった。なるほど、俺の却下は役目を果たしていなかったようだ。

 だけど正直に言って、これは俺の願望。彼女が恥ずかしいのを我慢して与えてくれている俺へのプレゼント。

 目の前の小動物のように怯える彼女に訂正なんてできようものか。


「……あー、ううん。あの時思わず『兄君あにくん』って呼んでほしいかなって声をかけたんだけど……今聞いていて『おにいたま』の方が嬉しいかなって思えているよ?」

「おにいたまぁ……」


 俺は苦笑いを浮かべながら嘘をついていた。とは言え『兄君』って呼んでほしいってところも。いや、俺の言ったことは全部本心なんだけどさ。

 彼女のお嬢様気質な雰囲気からか、俺自身が望んでいるからなのか。実際には年下なんだけど、なんとなく対等な立場と言うか。肩を並べられる存在のように感じていた俺。

 だから彼女には『兄君』と呼んでほしかったのかも知れない。

 でも、目の前の彼女の甘えた雰囲気で紡がれる『おにいたま』もまた、普段とのギャップとなって俺に歓喜をうながしていた。


 ――って、俺は何様なんだろう。

 人間って、ある程度環境に慣れてくると麻痺してくるんだよな。欲のかたまりと言うかさ? 

 目の前にあるだけで、与えられているってことだけでは、幸せなんだと感じられなくなるんだよな。

 本当、彼女に兄だと思ってもらえるだけでも幸せなのに、こんな贅沢ぜいたくな考えを持つなんて、な。

 ……本当、小豆に兄だと思ってもらえて、更に溢れんばかりの愛情を注いでもらって。

 小豆の優しさによって色々な人からの愛情も与えてもらえている今。

 俺は目の前にある、すべての『与えてもらえる小さな幸せ』に喜びを感じていなければいけないのに。

 素直に『尊い』と思い、感謝するべきなのに。

 いや、そもそも俺はアニメにさえ与えられた喜びを感謝していないのではないか。当たり前のように贅沢な思考を持っているんじゃないか。

 そんな俺がアニメ好きを語るなんて間違っているんじゃないのか。

 現実世界における厚顔無恥な振る舞いを思い返して。

 愛すべきアニメにすら贅沢な考えを持っていたことに、改めて自分を恥じていたのだった。


 そんな恥知らずな俺の言葉に、安心して嬉しそうな表情をしながら『おにいたま』と呼んでくれた彼女。

 俺は心の中で彼女に謝罪と感謝と、俺に幸せを与えてくれるすべての者達に対して感謝をして、これからは道を踏み外さないように心がけることを誓いながら、彼女に笑顔を送っていたのだった。


 それからは……まるで、その日が呼び水の役割を果たしたように。

 それまでが嘘だったのかと思えるくらい、『二人っきりの時間』が格段に増えていった。具体的に言えば、週一くらいだったと思う。当然、二人だけで外出……ででで、デートだと俺が勝手に思っていることも何度もしていた二人。

 そんな時間を重ねていけば、俺の心が『妹の親友』から『一人の可愛い女の子』に変わるのは自然の摂理なんだと思う。好きになるなって言う方が無理なんだよな。蓋をしていただけですけどね。



 と、とにかく、こんな感じで俺を「お兄様」とか「おにいたま」と呼び始めた彼女だったけど。

 そもそもの話、なんで「先輩」から「お兄様」になったのかが理解できずにいた俺。だって数分前までは普通に「先輩」って呼ばれていたんだしさ。彼女の心境の変化が気になっていたのだろう。


「そ、それで……なんで俺のことを『お兄様』って呼んでいるのかな?」

「え? ……」


 ストレートに質問していた俺。そんな俺の言葉に驚いた彼女だったけど、顔を真っ赤にしながらも言葉を繋いでいたのだった。


「い、いえ……お兄様が私のことを『自分の妹だと思っている』と仰ったのではないですか?」

「え?」

「……もしかして、私の勘違いだったのでしょうか……」

「い、いやいや、勘違いなんかじゃなくて、本当に思っていることだよ?」

「そ、そうですかぁ……」


 彼女の言葉に今度は俺が驚きの声をあげていた。そんな俺に向かい、悲しげな表情で聞き返す彼女。

 だから慌てて本心だと伝えると、彼女は安心したように表情を緩めて返事をするのだった。

 

「なので、私も……『先輩』なんて他人行儀な呼び方ではなく、お兄様の妹として『お兄様』と呼ぶことにしたのです」

「――ッ! ……」

「ど、どうされたのですか、お兄様?」


 彼女の言葉を聞いた俺は全身に鳥肌が立っていた。もちろん恐怖からくるものではなく、感動――そう、まさに『全俺が泣いた感動傑作』と言ったところだろう。うん、俺の思考に全俺が泣いているけどさ。

 つまり、彼女は俺が突きつけた言葉を受けて―― 

「どうでもいい」と感じていた訳でも、「敵意を向けている」訳でもなかったのだろう。

 彼女は俺のすべてを受け止めて、すべてを包んでいたんだ。俺と言う存在を認めてくれていたんだ。

 その上で、俺のすべてを許してくれていたのだと思う。

 そう、俺が彼女を妹だと思っているから、妹の痛みはお兄ちゃんのものだから。妹である自分は妹らしく振舞う。

 だから、俺のことを「お兄様」と呼んでいるし、壁ドン以降の彼女の行動に小豆の雰囲気を感じていたのだろう。

 そして妹の痛みがお兄ちゃんの特権ならば、お兄ちゃんへの痛みを受け取ることはしない。

 だから、その部分は白紙に戻して、俺に許しだけを得ようとしていたのだろう。

 彼女の表情から、そう読み取っていた俺。


 もちろん、自己解釈だから都合よく解釈しているのかも知れないけれど。

 小豆との衝突の全貌を話していた時に聞いた、仲直りの際に小豆が彼女に対して取っていた言動を思い出していた俺。

 彼女はきっと妹の言動に影響されたのだろう。憧れて近づこうとしていたんだろう。妹の真似をして俺を許してくれたのだろう。彼女の言動を、そんな風に思っていた俺。

 結局小豆のおかげなんだよな。小豆がいたから救われたんだよな。お兄ちゃんだとか偉そうに言っていても、肝心な部分じゃ妹に救われるとか、だめなお兄ちゃんだよな……。

 そんな風に、苦笑いを浮かべながら彼女を眺めて自己解釈が正解なんじゃないかって思うのだった。


 ……ははは、そもそも最初から彼女には勝てないって素直に負けを認めていたのにな。

 自爆覚悟なら『どうにかなる』なんて自惚れていたのかも知れないな。

 改めて、俺は彼女と小豆……二人には勝てない。負けを素直に認めよう。

 そう考えながら、雑念を振り払うように頭を振っていた俺。

 そんな俺に驚いて声をかけてきた彼女に向かい――


「ありがとう、時雨院――」

「むぅ~~~」

「え?」


 感謝を伝えようとしていた俺に、これ以上にないくらいに頬をふくらましていた彼女。

 えっと、それは「突いてください」ってことなのかな――って、そんな訳あるかー!

 

「お兄様!」

「――ひゃ、ひゃい!」


 彼女の表情の意図に気づけず困惑していた俺に向かって声をかけてきた彼女。

 思わず情けない声をあげていた俺。


「わ、私はお兄様の、い、妹なのですから……『時雨院さん』なんて他人行儀な呼び方なんて、悲しいことをなさらずに……お兄様らしく『雨音』と呼び捨てにしてくださいな?」

「え? い、いや、時雨院さ――」

「私、お兄様の前では『時雨院』の名は捨てましたの。ですから『雨音』と呼んでいただけないのでしたら返事はいたしませんわ」


 突然こんなことを言い出した彼女。と言うよりも、呼び方変えても他人なのですが。あとハードルが高すぎます。

 そもそも俺の為に苗字を捨てるのは無謀だと思うのですが……実際に捨てる訳じゃないけどさ。


「あ、あのね、時雨院さん?」

「……」

「ほ、ほら、時雨院さん?」

「……」

「だ、だから時雨――」

「……」


 彼女の性格を知っているのだから望みはないんだけど。ひたすらに「時雨院さん」と声をかけていた俺。

 そんな俺に返事はしないけど少しずつ近づいてくる彼女。俺は思わず彼女の圧力に言葉を飲み込んでしまっていた。

 うーん。このままではお礼が伝えられないな。そう言う問題ではないんだけどさ。

 

「……あ」

「――ッ!」

「……あ、あま……」

「ぅ♪ ぅ♪ ぅ♪」


 そんな理由で頑張ってみることにした俺。俺の「あ」に彼女は驚いて俺を見つめる。

「あま」に、軽く握った両方の拳を胸の辺りまで持ち上げて「ファイトだよ! ……うん、ファイトだよ!」なんてエールを送っているような表情をしながらリズミカルに体を揺すっていた。


「……あ、あま、ね……」

「ん~~~♪」

「……さん……」

「ヴェアアアア……」


 そしてゴールまで完走できた俺に向かって、満面の笑みを浮かべながら天高く拳を掲げてガッツポーズを取ろうとしていた彼女だったけど。

 肝心の俺が目の前を通り過ぎたことに気づいて、拳を振り下ろしながら落胆の表情を浮かべて、女の子らしからぬ声を漏らしていたのだった。

 そんな彼女の一喜一憂いっきいちゆうを目の当たりにして失礼ながらも面白いと感じていた俺。

 だけど今は面白がってもいられないのだからと、彼女に許しを得ようとしていた。


「ご、ごめんなさい……やっぱり俺には『雨音さん』が限界なんです! それで勘弁してください!」

「ぅぅぅぅぅ……」


 俺の必死の懇願に納得できないのか、未だにうめき声をあげている彼女。それでも少しずつ声は弱まり、落ち着きを取り戻していた彼女。


「……ふぅ。わかりました……『雨音さん』でも、いいです……」

「あ……」

「……そうですわよね? 旦那さまや恋人でも「さん」をつけて呼ばれる殿方はいるのですから、名前で呼んでいただけることだけでも大きな前進だと思わなくては……ふふふ♪」

「え? な、なに?」

「……な、なんでもありませんわ? それよりも……」


 軽く息を吐き出した彼女は俺に許しを与えてくれていた。

 そんな彼女をホッとした表情で見つめていた俺だったけど。

 突然彼女がクルッと回転して、彼女の背中越しに何かを呟いているのが聞こえてきた。

 俺は彼女が『俺の軟弱でヘタレな精神』をうれいているのだと思っていた。いや、最後に笑い声が聞こえてきたから嘲笑っているのだと思っていた。

 別に憂いていても、嘲笑っていても仕方のないこと。俺が悪いんだと思っている。

 だけど俺も彼女や小豆みたいになりたいと誓った。憧れて近づきたいと願っていた。

 だからすべてを受け止めたかったんだと思う。たぶん聞いたら凹むんだろうけどさ。

 そんな決意をこめて、彼女の背中に声をかけていた俺。

 言葉を受けた彼女は再び俺に向き直ると頬を染めながら「なんでもない」と言っていた。

 これも彼女の優しさによる気遣いなのだろうと感じていた俺。

 

「私の出した条件は、お許しいただけるのでしょうか、お兄様?」

「……あ……」

「……」


 彼女は頬を染めたまま、本題へと話を戻していたのだった。

 そう言えば、そうだった……すっかり忘れて――などおりませぬぞ! す、少し壁ドンした壁のシミが気になっていて意識がそっちに向いていただけですぞ? 

 嘘です。忘れてました、ごめんなさい。あと、ホラー系は苦手なので仮に本当でも絶対に見ないフリしますから。

 ……そう言う意味でも俺が唯一、視聴できた幽霊もの作品だったんだよな。『〇巻』ってさ。

 思いっきり「今思い出しました」オーラを纏っていた俺に、縋るような視線を送る彼女。呆れていなくてよかった。 

 まぁ、最初から答えは決まっているんだけどさ。彼女達に少しでも近づきたいと願った俺は。


「……」

「――え? お、お兄様?」


 彼女の目の前で、おもむろに地面へと正座をしていた。俺の突然の行動に驚いて声をかける彼女。

 地面に両手をついた俺はゆっくりと頭を下げながら彼女に言葉を投げかける。


「……数々の非礼をお許しいただき感謝しています。ありがとうございます。その上で雨音さんの条件……謹んでお受けさせていただきますことを、お許しください……」

「え? ……あ、はい、ありがとうございます……」


 そう、彼女が小豆に対して許しを懇願した言葉。それを俺なりにアレンジして彼女へと懇願していたのだった。だけどこれはパクリではない。自分で考えるのが面倒だからじゃない。

 彼女に近づきたかった。彼女と小豆の関係に憧れていた。だからこれはリスペクトなんだ。

 一瞬既視感に囚われていたのかも知れない彼女は驚きの声をあげて固まっていたが。

 俺の意図に気づいてくれたのだろうか。はたまた懐かしく感じていたのだろうか。

 表情を緩めて柔らかい微笑みを浮かべると、あの時の小豆と同じ台詞を言ってくれたのだった。

 

 ――こうして俺と彼女の間に起きた衝突は、新たな時を刻み、終わりを告げる。

 そんな俺と彼女の頭上からは新しい門出を祝うように初雪が舞い降りていた。どうりで冷えると思ったよ。

 昨日までとは違う。いや、今日出会うまでとも違う「雨音さん、お兄様」と呼びあう二人の関係。

 特に大きな変化があった訳ではないけれど、俺の心には大きな変化が芽生えていたことだろう。

 来た時にはなかった、地面をうっすらと彩る純白の絨毯じゅうたん


「これからの人生……できるなら彼女とも、たくさんの思い出と言う名の足跡をつけていけたらいいな?」


 こんなことを心の中で呟きながら、隣を歩く彼女と一緒に、真っ白な絨毯へと四つの足跡をつけながら家路を目指して歩いていたのだった。


 ……えっと、これは完全な蛇足だそくなんだけど。

 実はさ?

 彼女は壁ドン直後に抱きしめてくれたあと、離れた時には既に「お兄様」と呼んでくれていたみたいなんだ。

 だけど、恥ずかしかったんだろうな。口ごもっていたから聞き取れていなかったんだよ。

 ごめんな?

 テレパシーの使えない、『兄妹スキル』も持ち合わせていない、人生の落第者で劣等生なお兄様で……。

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