第3話 苦しみ と エルダー

「ウサギさんパーカーとヒョウさんパーカー置いてあるけど、ウサギさんパーカーを着ておいで? ヒョウさんはお風呂上りにでも着るといいよぉ~」

「はぁ~い♪ ……」


 智耶の部屋にはウサギさんとヒョウさんパーカーの二着を置いてきた。きっと頭のいい妹は、お姉ちゃんを立ててヒョウさんパーカーを着てくる可能性がある。それだと困るもん……お兄ちゃんに先手を打てなくなるからね。

 私の言葉に疑問を挟まずに了承して踵を返した妹。本当にいい子でお姉ちゃんは嬉しいよ。

 その返事に私も納得して視線を移していたのだった。


「……」

「……」

「……ん? どうかしたの?」

「な、なんでもないですよぉ……」


 だけど聞こえてくるはずの足音が聞こえないことに疑問を覚えた私は、顔をあげてリビングの扉の方向を見つめる。すると、出て行ったと思っていた智耶がジッと私のことを見つめていたのだった。

 私が声をかけると、妹は慌てたような顔をして言葉を紡ぐと、急ぎ足で出て行ってしまった。どうしたんだろう?

 しばらくして、着替えを済ませて戻ってきた智耶には特に変わった様子は見られず、いつものように私の手伝いをしてくれたのだった。

 ……まぁ、私がいつも通りじゃなかったから智耶の様子に気づけなかっただけかもね。


 智耶がいるから、余計に無理にでも平静を装わなきゃって思っていた分、心の痛みは増していたのだろう。もちろん、妹のせいなんかじゃなくて、自分のせいなんだけど……。

 そんな風に少しずつ、また痛みを感じ始めていた頃――

 

『……た、ただいまー』

「あぁ~、よぉにぃ、帰ってきたみた――」

「ッ! ……」


 玄関の方から、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。

 その声に反応した智耶の言葉を待たずに、玄関まで駆け出していた私。その行動自体は日常なのかも知れないけれど。

 でも今日の場合は、少し違っていたのかも知れない。癒しを求めていたんだと思う。口には出せないけど助けを求めていたのかも知れない。

 だから普段なら絶対にしない行動を取ってしまっていたのだった。お兄ちゃんにも、そして智耶にも――。


 私の優先順位はいつだってお兄ちゃんが一番。

 お兄ちゃんが疲れて帰ってきているのに。これから着替えたりするのに。忙しいのに私の我がままに付き合わせる訳にはいかない。

 私はただ、お兄ちゃんに笑顔になってほしいだけ。お兄ちゃんを癒してあげたいだけ。本当に困らせたり怒ったりすることなんて絶対にしない。それに今の私には夕飯の準備があるんだから。

 お兄ちゃんの――もちろん家族全員なんだけど、夕飯の支度を一秒でも早く終わらせることが私の役目なのは理解していたつもりなのに……。

 お兄ちゃんの顔を見たら一気に堰を切ったように溢れ出した心の痛みが抑え切れなくて、我がままを押し通していた私。そう、関係のない智耶までも巻き込んで。


 そんな私を庇って、廊下に背中を打ち付けてしまうお兄ちゃん。鼓膜に響く鈍い音、顔と上半身に走る緩和された衝撃で我に返っていた私。

 そんな私の脳裏に『彼女達の身勝手な行為』が蘇る。  

 ――今の私と彼女達。どこが違うと言うのだろう。ううん。そうじゃないよね。

 全部私が悪いんだ。私が我がままを押し通していただけなんだ。

 お兄ちゃんを。智耶を。雨音ちゃんを……そして、彼女達だって同じだよね。

 私が『全員』を振り回していただけなんだ。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「……」


 私のせいで、私が巻き込んだから、私の為に、みんなごめんなさい……。

 私はお兄ちゃんの首にしがみついて、掠れた声で何度も何度も謝っていた。それは腕の中のお兄ちゃんだけじゃなくて……私が巻き込んだ全員に向かって謝罪の言葉を送っていたのだった。

 そんな私の耳に、智耶の遠のいていく足音が聞こえる。そして扉の開閉音が聞こえたかと思うと――

 

「……今だけだからな?」

「……ふぇ?」


 私の耳元でお兄ちゃんの恥ずかしそうな声が奏でられた。理解できずに戸惑いの声をあげる私。

 その瞬間に、私の背中に優しくて暖かい感触が伝わる。

 そう、はじめて、お兄ちゃんが、私のことを、抱きしめてくれた。私のことを、優しく、包み込んでくれていた。

 背中に伝わるお兄ちゃんの両手の温もりが、私の体内に染み込んでくる。

 心から溢れる痛みを。心に吹き荒れる冷たい風を、和らげてくれている。

 もう少しだけ、我がままを許して? もう少しだけ、私を和らげて? もう少しだけ、もう少しだけ、もう少しだけ……。

 私はそんな願いをこめて、お兄ちゃんの首に回している両手に力をこめていた。縋るように抱きついていた。

 そんな私の想いに応えるように、背中へ回すお兄ちゃんの両手に圧が加わる。

 それからしばらくの間、私はお兄ちゃんに包まれながら、心に溢れる痛みを癒していたのでした。


「……」

「……おっ、も、もう平気か?」

「う、うん……」

「そ、そっか……」


 すっかり痛みもやわらいで、心が「ぴょんぴょん」と軽くなっていた私。だけど、その代わりに今の状況が恥ずかしさをいざなっていた。


 だだだだって、おおおお兄ちゃんが、ははははじめて、だだだ抱きしめてくれているんだよ?

 いつも自分でしていることだし、いつも自分が望んでいたことではあるけれど。本当に抱きしめてもらえるなんて思っていなかったもん。

 ……なるほど。抱きしめられるのって、嬉しさを通り越して恥ずかしいものなんだね。


 顔に火照りを感じながら視線を合わせずに体を離そうとしていた私。

 その動きに気づいて、お兄ちゃんも両手をそっと離していた。そして恥ずかしそうな声色で声をかけてくる。

 私は俯きながら曖昧に答えると、お兄ちゃんを見ずにリビングの方へと歩き出していた。

 特に声をかけるでもなく、お兄ちゃんもリビングに入ってくるのが足音でわかる。

 凄く恥ずかしくてギクシャクした雰囲気だったけど、お兄ちゃんは私に円盤のことを伝えると、着替える為に自分の部屋へと向かっていった。

 リビングを包む雰囲気が、普段とは違うことを肌で感じていた私。

 それでも決して悪い雰囲気なんかじゃない。少なくとも私は嬉しかった。ただ、恥ずかしかっただけ。


「……さぁてと、夕飯の支度しよっかなぁ……」


 感謝の代わりじゃないけれど、私は急いで夕飯の支度を済ませようと、微笑みに赤ら顔を含ませた表情でキッチンに向き直るのだった。



 そんな風に嬉しさと恥ずかしさが支配していた夕食前。お兄ちゃんから見れば、私ってかなり挙動不審だったのかも知れない。……普通の言葉でさえも噛んじゃっていたしね。

 だけど、お兄ちゃんだって恥ずかしそうだったし、お互いさまだよね。


 お兄ちゃんに抱きしめられたからって、心の傷口が塞がった訳じゃないけど。

 これは私の問題。お兄ちゃんを巻き込んじゃいけないんだ。

 だから、お兄ちゃんの前では普段の私でいよう――そう決意していた私。

 幸か不幸か。そんな悲しい決意が、いつのまにか、恥ずかしさを忘れさせていた。大事な『はじめて』の余韻にすらひたらせてくれなかった。

 ただひたすらに、お兄ちゃんに不穏な空気を感じさせないように、普段の私をよそおっていたのだった。

 

 そんな装いにばかり気を取られているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していく私。

 それ以前に、お兄ちゃんに接している間だけは、不安を忘れることができていたんだと思う。

 そう、しばらくは穏やかな心で過ごせていた。夕食を済ませて、後片付けや入浴を済ませて。

 その後はいつものように、お兄ちゃんとの楽しい時間を過ごせていた。

 だけど――やっぱり私の心には不安がみついている。忘れていられたからって、取り除けている訳じゃないんだから。

 そんな不安が存在を示すように、お兄ちゃんといる間にもチクリチクリと傷口を刺激する。

 もちろん苦しい顔なんて見せられないから我慢していた私。無理にでも笑顔を作っていた私。

 だって、お兄ちゃんとの時間に水を差したくなかったから……。


 でも、お兄ちゃんが「眠くなったから寝る」と言い出したので、私はおやすみの挨拶をして自分の部屋に戻ってきた。


「――ッ! ……」


 月灯りに照らされた室内に入り、扉を閉めた途端、私を悲しみと苦しみが襲う。一緒の時間が楽しい分、反動で重く私に圧し掛かってくる。

 視線の先の薄暗い室内を照らす淡い月灯りが、一瞬にして私の心を冷やしていた。

 薄暗い室内が夕方の光景を思い出させて、私を覆う優しいお兄ちゃんの温もりを取り除き、うっすらと視界を潤ませていた。

 でも、まだだめ……だって、お兄ちゃんがまだ起きているんだから。

 私はベッドに潜り込み、枕に顔を埋める。

 そして、そっと瞳だけを窓の方へ移して外を眺めていた私。


 しばらくすると、窓から差し込む隣の部屋の蛍光灯の灯りが消える。そう、お兄ちゃんの部屋の蛍光灯が消えた。

 

「……。……ぅぅぅ、おにい……ちゃん、ぅぅぅ……おに……い、ちゃん……ぅぅぅ……お……い……ん……」


 真っ暗な外を眺めて、頬を伝う雫を感じていた私。もう……泣いても大丈夫だよね。悲しみを我慢しなくても平気、だよ、ね。

 私は携帯プレイヤーのイヤホンを耳につけて、震える指先で再生ボタンを押す。

 そして、顔を枕に押し当てながら瞼の裏の――優しい微笑みを浮かべるお兄ちゃんに想いを馳せるのだった。


 誰にも頼ることはできない。これ以上、誰も巻き込む訳にはいかないから。

 お兄ちゃんにはお兄ちゃんの、雨音ちゃんには雨音ちゃんの生活がある。私の為に無駄にする時間なんて存在しないんだ。

 それに、私はお兄ちゃんと雨音ちゃんに救ってもらった――二人のおかげで私は今、幸せに笑っていられるんだと思う。

 だから今度は私が二人を守らなきゃ。ううん、違う。

 守られてばかりの私が偉そうなことは言えないよね。

 せめて、二人の重荷にだけはならない。足かせにだけはならないようにしなくちゃ。

 一人で立ち向かわなくちゃいけないんだよね。自分で踏み出さなくちゃいけないことなんだ。

 私は三人の、あるべき姿の為に『ある決意』を胸に秘めるのだった。


「……いやだよぉ……ぅぅぅ……つらいよぉ……ぅぅ……おにい、ちゃん……たすけてよぉ……」


 だけど恐い、悲しい、苦しい現実。

 真っ暗な闇を彷徨うような、行き着く先の見えない現実。

 もう二度と味わいたくないと思っていた現実を前に、尻込みをしそうになる私の心。

 それでも二人の為に踏み出さなくちゃいけない現実。これが私の贖罪しょくざいなんだろうから……。


 ――二人の為なんだからと、悲しい決意をした私。

 だけど心では、そんな自分の決意を拒否する自分がいる。恐くて泣き出している自分がいる。

 そんな板挟みの心に押し潰されそうになっている自分にあらがいつつも、耳元で囁くお兄ちゃんの声を聴きながら――

 枕に押し付けた状態の、くぐもった誰にも聞かせられない自分の泣き声をBGMにして、一緒に聴き続けていたのでした。


◇4◇


 あの日から数日ほど経過して――

『十月革命』と呼べるような、周囲をおびやかすほどの大層なできごとなど起こることもなく。

 ただただ、毎日の生活を平穏無事に過ごしていた俺達。

『目立った不穏な空気』など一切感じることもなく……アニメの次話が気になる程度で頭を悩ませていられるほどには、穏やかでゆっくりとした時間が流れている、そんな今日この頃。

 小豆も相変わらずなアニオタぶりを発揮していた。普段通りに接してくれている。そして俺はオタオタする毎日。うむ、通常営業だな。いや、それもどうかと思うけどさ。


 だから油断こそできないものの、俺の杞憂きゆうに過ぎなかったのかも知れないなんて、彼女達の存在を風化しかけていた頃。

 そんな――先日めでたく『ていおん!』のあずにゃんも一つ歳を重ねた、ある日の昼休み。

 

「……いつもながら美味しいわよね~」

「香さんのおかずも美味しいっすよ?」


 いつものように、俺達は小豆の作った弁当と、香さんの持ってきた弁当を机の上に広げて舌鼓を打っていた。

 いや、違うな。この場で舌鼓を打っているのは俺と香さんの二人だけ。小豆は来ていないのだ。

 とは言え、別に学校を休んでいる訳ではない。


 ただ、『あの日』の翌日――。

 朝食を食べようと席に座った俺に向かい――


「き、今日から、私……雨音ちゃんと一緒に、お、お昼を食べるから……お兄ちゃん達とは食べないけど、いい?」

「……そ、そっか……まぁ、俺は別にかまわないぞ? あとで香さんにも伝えておくな?」


 何故か深刻な表情で、小豆は俺に弁当を差し出しながら、こんな申し出をしてきたのだった。


 小豆の言葉に少し寂しさを覚えていた俺。それまでの昼飯は三人が普通だったからな。

 だけど、本来それが当たり前なんだろう。あまねると親友なのに、彼女と昼飯を一緒に食べない方が変だと思う。それは入学当初から感じていたことではあった。

 だけど、小豆との昼飯は俺自身も望んでいたことだったので、何となく言い出せなかったのだ。

 とは言え、あと数ヶ月もすれば小豆は俺達と食べることはなくなる。それは当たり前のことなんだ。

 それに、そろそろ教室の雰囲気も変わってくる頃だろうから、空気を読んでのことなのかも知れない。

 香さんはきっと余裕があるだろうし、俺は逆に諦めモードなんで気にしないけどさ。クラスの大半は進学組なんで、妹はクラスメート達に気を使っているのかも知れない。

 まぁ、そこまで気を使う必要はないんだけどさ。たぶん大半の人間が『小豆ロス』に陥る程度には歓迎されているであろう我が妹。……実際に「小豆なら来ないよ?」って教えてあげたら陥ってましたけどね。

 でも、クラスの連中も理解しているようなので、何も言わないでくれていたのだった。 


「ぁ……う、ううん……ありがとう」


 そんな俺の言葉を聞いた小豆は一瞬だけ何かを言いたそうな表情をしたが、苦笑いを浮かべて首を横に振ると、悲しみを含んでいるように思える微笑みを浮かべて、俺に礼を伝えてきた。

 微妙な表情が気にはなったが、俺達との昼飯を小豆も望んでくれていたのだろうと。

 あまねるとの昼飯は楽しみだけど、俺達と昼飯を一緒にできないことを悲しく思ったのだろうと考えていた。


「……ま、まぁ、そ、その、なんだ……卒業前に四人で飯が食えれば、いいかも、な……」

「そ、そう、だね……」


 何となく恥ずかしかった俺は、熱を感じる顔を横に向けて小豆の頭に手を乗せながら、こんな言葉をかけてやった。

 顔は見ていないが、小豆も恥ずかしそうに答えていたのだと思う。

 そんなことがあり、最近の昼休みは俺と香さんの二人で飯を食っているのだった。


「ふぅ……そう言えば、昨日も……いたみたいね」

「……ほうっふか……」

「……」


 そんな中、小豆の作った『里芋の煮っ転がし』を頬張った香さんが、飲み込んでから一息をつくと、周りに聞かれないように小声で俺に話題を振ってきていた。

 そんな彼女の言葉に神妙な顔で……里芋の煮っ転がしを頬張りながら答える俺。

 いや、目の前で美味しそうに食べる姿を見せつけられたら食べたくなるでしょ。実際に美味しいからさ。

 俺の言葉を受けた彼女は、少し困ったような苦笑いを浮かべていた。

「食べ物を口に入れたまま喋っちゃいけません!」とでも言いたそうだな。だけど先に食べていたのは香さんなので俺は悪くないのだ。嘘です、ごめんなさい。


 彼女の言う「昨日も……いた」の意味するところ。

 未だに高校付近で小豆とあまねるのことを聞いてくる連中がいると言うこと。その連絡が入ったということなのだろう。

 あの日から平日だけではあるが、ほぼ毎日のように情報が香さんの元へと入ってくるらしい。

 それを知っているからこそ、油断はできないんだけどさ。


 彼女は一つ年上。二年生の生徒にすれば今年もそうだけど、同学年とは言え俺達三年生にとっても去年の彼女は先輩にあたる人だ。

 今でこそ、小豆とあまねるが入学して、彼女の人気は半減しているのかも知れないけれど、去年までは明日実さんと香さんの二人だけ――つまり、生徒の中では断トツの人気を誇っていた彼女。当然、人気だけじゃなくて人望も厚いのだろう。

 親しみやすく誰にでも親身に接してくれる彼女。どんな些細なことでもイヤな顔一つせずに、本当に真剣に向き合ってくれる。

 ……正直、うちの学校の男子共が「俺に気があるのかも?」なんて、勘違いを起こすくらいにはな。ソースは俺。あと、女子共も変な勘違いを起こしているように思えなくもない状況なのだった。

 ――それはそれは彼女をたたえて……我が校にも『エルダー制度』を導入し、彼女を「お姉さま」と呼ぼうなんて、とある首謀者が躍り出て盛り上がるくらいには。


『エルダー制度』とは、とある美少女ゲーム原作のアニメにもなった作品。そこに登場する学校に存在する制度なのである。

 エルダーとは、エルダーシスター。一番上のお姉さんと言う意味。

 つまり、その年度で最も「全校生徒の頂点に立つ生徒」として称される言葉なのだ。

 だから首謀者は、香さんが「お姉さま」と呼ばれることを望んでいたし、周囲も大いに賛同してくれていた。 

 まぁ、事態を察して真っ赤な顔をした当事者に、首謀者が後頭部を張り倒されて、あっけなく事態は収束しちまったがな。……あん時の張り手は尋常じゃないほどに痛かったと記憶している。

 うん。俺のことはどうでもいいが、絶大な人気を誇っている彼女なのである。


 それに、彼女の家は高校の近所の商店街にある和菓子屋だ。よく店番もしているし、誰にも聞かれたくない話なんかは校内でするよりも西瓜堂に行った方が話しやすいのだろう。

 そんな彼女だから、頻繁に生徒が相談などを持ちかけたりしているのだ。

 たぶん俺を含めた我が校の生徒達にとって香さんは『頼れる優しいお姉ちゃん』なんだと思う。


「ほら、やっぱり香さんは『お姉さま』で問題ないだろ――」

「……ん、ん~?」

「……。なんでもないです……」


 口に出していないのに真っ赤な顔の香さんが睨んでいますけど?

 冷や汗まじりに視線を逸らした俺の視界に、かなり焦った表情で「いや、お前口に出てるぞ?」と言うジェスチャーをするクラスメートが見える。

 俺、またやっちゃったの?

 恐くて彼女の顔が見れない俺は、俯きがちに言葉を濁していたのだった。


 俯いたままの俺は、背中に走る冷たい感覚を覚えていた。

 実は、『お姉さま』この話は彼女の前では禁句なのである。

 と言うのも、元ネタの作品には本来ならば『卒業しているはず』の先代エルダーが在籍していた。

 彼女は前の年に入院をしてしまい、その年のエルダーを空席にしてしまう。そして出席日数の都合上、留年してしまうのだった。

 そう、『お姉さま』この話が収束した直後。香さんはとある事件に巻き込まれて……いや、正確には俺が巻き込んでしまったと言えるのかも知れないが。

 その結果――入院を余儀なくされて留年することになる。

 つまり、作品の先代エルダーの彼女のような展開になってしまっていた訳だ。

 特に作品との因果性はないんだけど、俺達の間では暗黙の了解として、禁句になっていたのだった。


「ふぅ、まぁ、別にいいんだけどねぇ~。……ところで、よんちゃんの方はどう?」

「……。いえ、何も……」


 軽く息を吐くと、香さんは「気にしていない」と言いたげに、ぶっきらぼうな口調で話を切り上げてから本題に入ってくれていた。

 その言葉にホッと胸をなでおろして顔を上げた俺は言葉を返していたのだった。

 俺の方には透達からもだけど、聞かれたはずの生徒達からも特に情報はなかった。

 とは言え、彼女が小豆やあまねると親しいことを全員が知っているから、そうしているのかも知れないけどな。

 俺に話すよりは彼女の方が話しやすいだろうし、さすがに俺へ直接話せる内容でもないのだろう。

 もちろん、「香さんに伝えれば俺に伝わることを知っている」から、全員が彼女に話しているのだと理解している俺なのであった。


「そう……それで――」

「あっ、すみません。電話が入ったみたいなんで……」


 俺の言葉を聞いた彼女は返事をすると、数秒ほど何かを考えるような表情で黙り込んでいた。

 だけど意を決して声をかけようとした瞬間、机の上に置いてある俺の携帯が小刻みに震えたのだった。

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