第7話 ご注文 と あんこサンド

 おばさんの言葉に、俺は一瞬だけ背筋が凍る感覚に陥る。

 今でこそアグレッシブに動き回れる彼女も、去年の約一年間は自分の意志とは反して、まったく動き回れなかった。いや、動くことが彼女に苦痛を与えていたのだろう。そんな、辛くて苦しい一年間だったと思う。

 ――「もしかして、再び?」なんてことが脳裏を過ぎっていたのだが。

 一番言葉に出すのを苦しむはずのおばさんが暢気のんきに言葉にしている状態から、俺の勘違いなのだと思い直していたのだった。


「まぁ、色々と問題もあると思うし、卒業後でどうかしら?」

「……どう言う意味っすか?」


 そんな俺の不思議そうに眺める顔など気にもせず、言葉を繋げるおばさん。

 と言うよりも、会話のキャッチボールが成立していない気がしなくもないので、俺は疑問の声をあげていた。

 すると、平然とした顔でおばさんは言葉を紡ぐのだった。


「あら? ご注文は香なんでしょ?」

「……いや、娘さんは売れないと思うのですが?」


 なるほど。どうやら、おばさんの「何かしら?」は注文を聞いていたようだ。まぁ、店に来てるのだから注文なんだろうけどね。俺も普段なら会った直後に何か注文しているし。

 だけど俺は、ちゃんと「香さんは?」と聞いていたはずだ。まぁ、だから「ご注文は香なんでしょ?」なんておっしゃっているのですがね。

 普通売れないでしょ、大事な一人娘は。売られても困るけどさ。

 そんな意味を込めて聞き返したんだけど、何故か頬を微かに膨らませて俺に文句を言ってきた。


「うちの香はちゃんと賞味期限内に売れます! と言うより、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘ですから、すぐにでも売れます!」

「――だからって今、売っちゃだめでしょ!」


 香さんレベルの女性なら確かにいつでも売れるでしょう。それこそ引く手あまただと思いますけどね。

 だけど和菓子みたいにお店で売ってはいけません。と言うよりも商品じゃないので、香さん無視して勝手に俺なんかへ売ったら大変です。絶対に怒られちゃいますよ……俺が香さんと小豆に。

 なので抵抗の意味で反論したのだけどさ。


「それなら……ウチの和菓子を定期的に買ってくれるのだったら、香をつけるわよ?」

「――もっとだめでしょ! ……お願いですから、お店の商品だけ売ってください」


 まさかの購入者特典になっていた娘さん。いやいや、新聞勧誘の洗剤じゃないんですから。もう少し娘さんを大事にしないと老後が大変ですよ?

 俺は許容きょようできない申し出を、断腸だんちょうの思いで否定するのだった。


 正直に言えば、おばさんの言葉は俺にとって甘い誘惑である。和菓子屋だけに。

 小豆には「あんこに飽きていなくちゃだめなんだ!」などと言ってはいるが、大の甘党な俺。洋菓子も好きだけど和菓子も大好きなのである。

 たぶん西瓜堂のおかげなんだと思う。小さい頃から慣れ親しんでいたんだしな。

 つまり当然ながら、俺の和菓子欲を満たしてくれている大半の和菓子が、西瓜堂の和菓子たちなのだった。

 ある意味、定期的に購入することをおばさんに頼まれずとも、俺の方からお願いしたいくらいなのだ。

 それに、香さんは俺の初恋の女性であり、未だに色あせない恋心を抱いている女性。

 控え目に言って、売っていただけるのならば、親に借金をしてでも買っておきたい人生だった。

 とは言え、それは俺の気持ちなだけであり、香さんは俺なんかに買われる人生など望んでいない。当たり前だけどな。

 だから、俺が変な考えを起こすのは彼女に嫌われるだけなのだ。

 平行線な今の関係を「悪くないな?」と思っている自分がいる。

 だけど「いつかは絶対に……」なんて、見えない未来を夢見ている自分も存在する。そう、結果はどうであれ、わざわざ彼女に嫌われるようなことをする気はない。

 ……なんて、真面目に考える必要なんてないんだけどな。


 そもそも、おばさんの言ったことは『ウィットに富んだセールストーク』なのだろう。

 つまりはユーモアトーク。平たく言えば、場をなごます為の俺への世間話と言うやつだ。

 まぁ、ウィットに富みすぎて俺の背筋がウェット――びしょびしょになりましたけどね。

 要は、おばさんは別に本気で俺に香さんを売ろうとしていたのではなく、からかって楽しんでいただけなのだと思う。

 俺って周りの女性陣にからかわれる人種なのかも知れない……。

 まぁ、綺麗な女性や可愛い女の子達にからかわれるのは悪い気がしないけど、そこに身内が含まれているのが腑に落ちないところだな。いや、智耶には何も問題はないんだけどさ。あるのはスイカな二人のことである。

 ただ、目の前にぶら下げられたニンジンに目の色を変えていた俺が愚かなんだろう。

 嘘だと理解していても『香さんをもらえる』なんて言われて舞い上がらない訳もなく。ただただ、おばさんの冗談に翻弄ほんろうされていた俺なのであった。

 

「……うちの娘に何か不満でもあるの?」

「……それはないですけど」

「それなら香を――」

「……私がどうしたの?」

「――いっ! ……か、香さん」


 そう、この会話は冗談のはずだ。それなのに、突然表情を曇らせて訊ねてきたおばさん。え、演技うまいな。本気に思えるじゃないですか。

 そんなおばさんの迫真の演技に本気で困る俺。「それじゃあ、お願いします」って、言いたくなるじゃないですか。でも自分から伝えるように頑張るんで少し待っていてください。

 気持ち後ずさりしながら苦笑いを浮かべる俺に詰め寄って、更にセールスするおばさん。

 押し売りはご遠慮いただきたいところですね……スイカの。


 だけど、おばさんの言葉を遮るように俺の背後から突然声がした。

 驚きの声をあげて振り返ると、そこには袋を両手で持った香さんが立っていたのだった。


「お、おかえり……」

「ふふふ♪」

「……」

「どうかしたの?」


 俺の背後に立っていた彼女。手には袋を持っている。その袋から、和菓子ではない美味しそうな香りが俺の鼻腔をくすぐっていた。

 つまり、俺の家に料理をおすそ分けに行って、小豆から料理をおすそ分けされて帰ってきたのだろう。

 労いの意味で「おかえりなさい」と伝えようとしていた俺。自分の家じゃないんだけどさ。婿養子に入ったみたいだな。

 そんな俺の言葉に満面の笑みを送ってくるおばさん。もう、からかうのは終わりにしてください……。

 俺はおばさんのからかいの笑みに、恥ずかしくなって言葉を失っていた。 

 俺の態度を不思議に思った香さんがキョトンとした表情で聞き返してくる。


「い、いえ、なんでもないです。……おかえりなさ――いっ!」

「あらあら~? はいはい、ただいま。よんちゃんと……お腹ちゃん♪」


 未だに笑みを送り続けるおばさんを無視して、彼女に挨拶を続けようと思っていたのだけど。

 鼻腔をくすぐる美味しそうな香りに、当初の目的を思い出したように腹の虫が自己主張を始めていたのだった。

 よりにもよって、好きな女性の目の前で腹が鳴るとか最悪だろ……。

 おばさんのからかい以前に、自分が嫌われることをしていたら話にならないよな?


 なんで今? 空気読もうぜ 俺の腹――霧ヶ峰善哉。


 ……まぁ、言うほど深刻な話でもないのだけどさ。ある意味テンプレな日常シーンなのかも知れない。

 それこそ、どっかで補給しておいて腹が膨れていると「どこか具合が悪いの?」と心配されるくらいにはテンプレなのだろう。

 要は、頻繁に腹の虫リサイタルを公演しているのだ。香さんとしては聴きたくないだろうけどね。

 そんなテンプレよりも、天ぷらが食べたい今日この頃。関係ないけどね。ないんだけどね。

 タイミングよく同時に鳴ったもんだから、腹の虫も「おかえりなさい」なんて言ったのだろうと思われて。まぁ、からかわれているんだけどさ。

 笑みを浮かべて声をあげると、途端にニヤニヤ顔に変わり、俺に向かって声をかけてから、少し屈みながら顔を近づけ、俺のお腹に向かって声をかける香さん。

 こともあろうか、そんな香さんの言葉に「くぅ~」と返事をしていた俺の腹。

 当然、新川親子のツボに入ったのだろう。大爆笑が俺を襲う。

 テンプレではなくテンプル――寺院ではなく、こめかみ。

 ボクシングでテンプルにフックをもらったような衝撃を覚えていた俺。

 何故ならば、こんなことは初めてなのだ。挨拶する腹の虫なんてさ。

 たぶん、おばさんが言った『ウィットに富んだセールストーク』に過剰に反応して、「俺も俺も!」なんて自己主張していたのかも知れない。腹なんだから引っ込んでいてください。

 この、わがままボディめ……。意味違うけどな。


「ぅぅぅ……」


 かくして俺は、親子の絆を感じるコンビネーションフックに、KO寸前のボクサーよろしく……ただただ顔を赤くして、俯きながら声を漏らすことしかできなかったのだった。


「……まぁ、少し我慢してね?」

「え?」


 笑いを抑えた香さんは俺に向かって苦笑いを浮かべると、こんなことを言ってから奥へと消えていった。

 突然去ってしまった彼女の背中に声をあげていた俺。


「……まぁ、簡単なものしかないけど? はい……」

「はい……あっ……ありがとうございます!」


 しばらくして戻ってきた彼女は、優しく微笑みながら紙に包まれた何かを差し出していた。

 受け取った俺が紙を開くと手作りのサンドウィッチが視界に入る。パンの間の色彩は、あんこの黒とマーガリンの白。俺の大好きなチョイスである。

 家に帰れば小豆の夕飯と香さんの料理が待っている。だから腹持ちする惣菜パンよりもお菓子感覚で食べられる方が好ましい。まぁ、がっつりと食べても食べられないことはないんだけどさ。

 わざわざ俺の為に作ってもらったのだから、厚意に甘えておこう。

 俺は香さんにお礼を伝えると、おばさんの方へ向き直る。


「……おばさん、夕食後のデザート用に家族と明日実さんの分で、何かお菓子見繕ってもらえますか?」

「お買い上げ、ありがとうございます……ちょっと、待っていてね? ……」 

 

 そして和菓子を見繕ってもらうようにお願いしていた。

 おばさんは俺の言葉に笑顔で答えると、奥へと消えていくのだった。


 別に店先の商品でもいいんだけどね。懇意にしてもらっているからって、わざわざ厨房で、おじさんに頼んで新しい和菓子を作ってくれるのだ。

 時たま、まだ店に出ていない新作や試作品も出してくれることもある。それに。

 おばさんには『そんなつもりはない』のだろうけど、こうして香さんと二人っきりで話ができる時間は非常に嬉しく思っている。別に何か目的や用事があるからじゃない。ただ、こうして一緒にいられることが幸せなのだ。

 そんな意味で二重にありがたい話なのだと、心の中で感謝をする俺なのであった。


 そう、手元にあんこサンドがある以上、お店の売り上げには貢献できない。いや、お金取ってくれないんですよね、香さん。

 たまにこうして商品じゃない手作りの品を恵んでくれるんだけど、やっぱり悪いと思うから「お金払います」って言うんだけどね。必ず、「商品じゃないからタダでいいわよ♪」って笑って返されるしさ。

 そう言う時は、持ち帰りで何か買うようにしているのだ。

 余談だけど、買い食い用のお金とは別に『西瓜堂貯金』なるものを持ち歩いている俺。

 和菓子って高いから、お金足りないと恥ずかしいからね。それ用にお金を別で残してあるのだった。

 とは言え、お金が足りなくても「あとで持ってきます」で通用しちゃうんだけど。それは極力したくないのである。


 まぁ、香さんの好感度に店の貢献は付属していないんだけどさ。別に頻繁に和菓子を買ったところで俺のことを好きになってくれることはない。

 これは女性声優さんへのアプローチと同じだろうと感じているから、俺にも理解していることだ。

 だけど自分自身もそうだけど、霧ヶ峰家御用達の和菓子なのには変わらない。

 好感度を抜きにしても、普通に買うことにはなるだろう。

 だったら……好きな女の子に少しでも好印象を与えたいと願うのは男として当然なのだと考える。まぁ、意味ないんだろうけどね。それでいいのだ。


「あ……ほっぺにあんこついているわよ? ……うん、美味しい♪」 

「……」


 香さんの手作りのあんこサンドを夢中になって頬張る俺。

 そんな俺の姿を嬉しそうに眺めていた香さんだったが、唐突に気づいたらしく、こんな言葉を紡いでいたのだった。


 どうやら。


『あんこサンドうまー! あんこの甘さとマーガリンの塩加減。それは一進一退の攻防戦。パタンパタンと移り変わるような味のせめぎあい……まさにサンドウィッチのオセロ大会やー!』


 なんて、彦●呂さん状態の俺は目の前のあんこサンドに夢中になりすぎて、頬にあんこがついていることに気づいていなかったようだ。恥ずかしすぎます。

 ……うん。どちらかと言えば、マーガリンよりも盤面であるパンの方が白いってことも含めてな。


 言葉とともに彼女の人差し指が俺の方へ向かってくると、頬についたあんこをすくう。

 そしてそのまま、あんこを自分の口に含んだ彼女は笑みを浮かべて舌鼓を打つ。

 これもひとえに「和菓子を買ったことへの好感度の上昇によるサービス」なのだろうかと勘違いする俺。いやいや、だから好感度なんて上昇しないんだけどさ。

 呆気あっけに取られつつも、そんな嬉し恥ずかしサービスに、こそばゆさとドキドキと幸せを覚えている俺なのであった。


「……それで、お母さんが言っていた話なんだけど、私がどうしたの?」

「――んぐっ! ~~~ッ!」

「ちょっ、大丈夫? ……はい、これ飲んで?」


 笑顔で俺を眺めていた香さんが、突然声をかけてきた。

 さっきのおばさんとの会話を思い出した俺は思わず、口に入れていたあんこサンドを飲み込んでしまう。

 まさに昼休みの香さん状態に陥っていた俺は、苦しそうに胸を叩いていた。

 すると慌てた様子で俺にペットボトルを差し出してきた香さん。


「――んっ! ……ぷはぁー。ありがとうございます……あれ?」


 俺は何も考えずにペットボトルを受け取ると一気に飲み込む。

 そして、何とか難を逃れた俺は口を離し、大きく息を吐き出していた。

 だいぶ落ち着いたことで、俺は礼を言いながらペットボトルを返そうとしたのだが、ペットボトルを見つめて疑問の声をあげていた。

 いや、緊急なことなので一心不乱に飲み込んでいたんだけどさ……俺、こんなに飲んだかな?

 そう、手に持っているのは500ミリリットルのペットボトルなんだけど、ほとんど中身が残っていないのだ。いくら何でも飲みすぎだと思うんだけど。

 そんな風に疑問の視線でペットボトルを眺めていると、香さんが受け取りながら、当然のようにとんでもない答えを伝えてきたのだった。 


「あぁ、中身の量よね? ……元々だから、半分くらいしか残っていなかったし……飲み干しても問題ないわよ?」

「……は?」

「さっき小豆に『帰り道に飲んでね』って渡されたから、飲みながら帰ってきたのよ。だから残りをよんちゃんが全部飲んでも大丈夫なの」

「……」


 と、言うことらしい。つまり俺的には、まったく大丈夫ではないと言うことだ。

 うん。間接なんだけど、たぶん彼女はまったく気にしていないんだろうな。いつもそうだし、男としては少し凹むよね。


「あら、まだ少し残っているわね……」

「――ッ!」


 そんな少し凹んでいる俺など気にせずに、持ったペットボトルに少しだけ中身が残っていることに気づいた香さんは、俺の目の前でボトルに口をつけて中身を飲み干していた。

 更なるショックが俺を襲う。まぁ、わかっていましたけどね。異性として扱われていないことくらい……。

 だって、すごく嬉しそうに満足そうな顔しているしさ。からかわれただけなんでしょうね。

 なんか顔が赤いけど、歩いて帰ってきたから暑いのかな。だから喉が乾いているだけなんだろうね。


「……ふぅ。……そ・れ・で、さっきは何を話していたのかな?」

「そ、それは、え、えっと――」

「よんちゃんが香を買いたいって言うから売ろうとしていたのよ?」

「――いっ!」

「――お、おばさんっ!」 


 飲み干して一息ついた香さんは、再び俺に尋問じんもんを始める。さっきのおばさんみたいに近づきながら。だからスイカの押し売りはご遠慮ください……。

 ニヤリ顔の彼女に後ずさりしながら冷や汗まじりで言葉を言いよどんでいた俺。

 だけどサラッと爆弾……まぁ、真実なのですけどね。別に俺が買いたいとは言っていませんけど。

 そんな言葉があさっての方角から飛び込んでくるのだった。

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