第3話 二人きりの砂漠
ヴェン・ラッカードは、夜の砂漠を移動していた。正確に言うと、自分が乗っている砂鳥を、アシャが誘導し移動している。生き延びるためには、砂漠の都のラッカードの屋敷を目指すのが一番いい選択だ。盗賊から逃れるために、明るい間は隠れ場所に身をひそめ、日暮れ近くから月が沈む前までと、夜明け前から朝焼けの頃だけ、西に向かって移動していた。オアシスを通らず、直線的に西へ向かっている。このペースだと、砂漠の都に戻るまで、まだ数日必要だろう。盗賊たちからくすねた物資は豊富だったが、水だけが足りない。もって、あと二日。ペースを変えれば、ぎりぎり足りるだろうか。
「アシャ、何か見えるか」
アシャがヴェンの右腕に軽く触る。それから、指をずらして手を取り、方向を指し示す。柔らかで細い指が甲を包む。微かに震える指先。ふりほどいて、逆に包んでやりたくなる。
「ヴェン、あそこに、岩場が見える。距離は、今日ここまで歩いたのと同じくらい。いつもより長くなるけれど、岩場までたどり着きたい」
「わかった」
暗闇の中は、平衡感覚が鈍る。ヴェンはふらついてアシャにぶつかった。
「大丈夫か、ヴェン。傷にさわるから、明日は、もう移動しないで休もう」
「いや、岩場まで行こう。それから、アシャ、夜の移動は今日までだ。明日からは早朝出発して、日中移動しよう。もう、盗賊に見つかる心配はないだろう」
「だったら、もう休む方がいい」
「いや、岩場まで行こう。その方が安全だ。頼んだぞ」
「わかった」
歩き出してすぐに、アシャは立ち止まった。
「何か動物の気配がする。砂漠狼ではなさそうだ。群れじゃない。一頭、もしくは数頭」
突然、生き物が駆け抜ける音がした。
「アシャ、何が起こった?」
「ヴェン、ウィキが走りだしてしまった。綱を振り払って。このまま追う、走るよ」
二人が砂丘の頂に着いた時、ウィキの足音は砂丘を下り切ったあたりで止まった。
「ウィキが何か見つけたようだ。行こう」
アシャは速度を落としてウィキの元まで向かった。ウィキがくちばしで触れているのは、一抱え程の生き物だった。浅い呼吸を繰り返し、背中が上下しているのが、ぼんやりと見える。
「卵守(ヤイサル)だ。ヴェン、オスの卵守がいる、卵を抱えている」
「卵守?砂漠の真ん中で?」
「ウィキ、ありがとう。よくやった。卵を助けるためだったのね」
アシャがなにかしている音がする。水の音、衣擦れ、小さな息遣い。
「アシャ?」
「衰弱している、今、水をやった」
「飲んでいるか?」
「うん。たくさん飲んでくれる」
「そうか。でも、先を急いだ方がいい」
ヴェンは何とか砂鳥から降り、アシャの肩に手を置いた。今、砂漠狼に襲われたらひとたまりもない。
ヴェンは手探り足探りで、卵守の尻を確認して持ち上げた。卵守は抵抗しなかった。アシャも手伝い、ウィキの背中に乗せた。アシャが懐に入れていた鞭で、落ちないように固定した。ヴェンは自分のマントを卵守に被せ、ウィキの腹の下で端を結んだ。砂漠狼から卵守を隠すためだ。一番のご馳走だから。
「目的の岩場から、方向が逸れたか?」
「いいえ。もう、目の前」
「それはありがたい。だが、走るのはもう避けたい」
アシャはもう一度手を取って、ヴェンに方向を教えた。砂丘の陰で、痩せた月の光はさらに弱く、周囲は闇に沈む。
岩場に着いた時、ヴェンも砂鳥もぐったりしていた。卵守はしっかり目を開けるようになっていた。
「火はわたしが」
「いや、俺がする」
アシャは、ヴェンの手から、袋ごと道具を奪った。
「今は光が無い。私がするべきだ。へまはしないから」
ヴェンは袋を取り返そうとした。アシャの手元を目指したつもりが、ヴェンの指先はアシャの帯のやや上に着地した。ヴェンは驚いて手を引っ込め、身を引いたためによろめいた。
「ほうら、見えてないから、転びかけた」
アシャがからかう。
「そうじゃない」
道具を奪えて満足したアシャは、楽しげに火をおこし始めた。アシャは、火起こしも上手い。火が付き始めたら、ヴェンはアシャを押しのけた。
「ガル・ラッカードの娘に、やけどをさせるわけにはいかない」
「しないって」
「しているだろう?」
ヴェンはアシャの右手の甲を指さした。今は、燃える火の光で、ヴェンにも十分周囲が見える。
「ちょっと火の粉が飛んだだけ」
「すぐに香油を塗っておけ。もう、俺に任せろ」
その後の作業はヴェンにも楽にできた。火が安定すると、ヴェンは砂鳥達の、アシャは卵守の世話をした。
この卵守は何処から来たのか。爪が全部はがれている。歩きすぎたのだ。
卵守は、砂漠を歩いて旅する事などできない。四足は太く短く、太い首の先に、丸くて大きな目のついた頭がある。五本目の足のように太い尻尾。背中は体に似合わず大きい。背中に育児嚢を持っているからだ。卵守の飼育は簡単ではない。涼しい場所で、環境を整え、手をかけて飼育しなくてはならない。か弱い有袋類だ。卵を抱えている時期は、特に気を付ける必要がある。
有袋類の子供は、未熟な状態で生まれる。その中でも、卵守は一番未熟だ。子供を受け入れた母親の育児嚢は、入り口をしっかり閉じ、子供が食べ物を取れるようになるまで開かない。まるで、哺乳類の胎内と同じ環境に再度包み込むかのようだ。オスも育児嚢は持っているが、オスの育児嚢に卵守の子供が入る事はない。そのため、オスの育児嚢は別の方向に進化した。鳥類の卵を孵化させるための、保温と保湿に特化した進化だ。
つまり、鳥類と卵守とは共生関係。長い年月を経て、共生相手の鳥類の抱卵能力は退化した。最たるものは人間だ。人間は、卵守を保護する工夫をするうち、脳が大きくなり知能が発達した。不要な体の羽は退化した。卵を温めるための羽毛を失った人間は、卵守が居なくては、卵を孵すことができない。だから、人も家畜も、卵守を大切にする。
アシャは卵守の育児嚢を撫でていた。
「きっと、人間の卵よ。ヴェン、水をわけてくれない?かわりに、何を分けよう?」
「人間の卵にしては、大きすぎる。それより、お前の水筒はどうした?落としたのか?」
「落とすわけない。中身は全部、卵守にあげた」
「じゃあ、今度は、お前が飲むのか?」
「ちがうよ。もっと、卵守にあげたい。まだ欲しがっている」
「だめだ」
短い答えに、アシャは息を飲んだ。
「明日になったら、メンツークの実をやる」
アシャは顔色を変えた。
メンツークの実を使うのは、非常時だけだ。メンツークの実は、とても固い。固くて厚い皮の内側にはコクのあるゼリー状の実の層があって、栄養があり美味しい。さらに、実の中心には、甘い果汁がたっぷりある。砂漠の旅人は、非常時用にメンツークの実を取っておく。一つで半日分の水分と栄養を満たす。
メンツークの実は十しかない。
「もう、水がないのか?だから、明日は、朝から出発する・・・・・・ごめん、気づいてなかった、ヴェン」
アシャは、不安げに見上げた。
駄々をこねればいいのに。
もっと頼って、我儘を言ってくれれば、子ども扱いできる。できるものなら、水でも何でも、全て差し出したい。ヴェンはため息一つ吐いた。
砂漠の真ん中で動けなくなっても、抱えた卵を育児嚢から出さず、ずっと耐えていたオスの卵守。その姿に、自分を重ねた。
「明日まで待ってね」
卵守を撫でるアシャの隣に座り、ヴェンも卵守を撫でた。アシャはヴェンを見上げて笑った。二人は無言で卵守をねぎらった。
何か思い出した顔をして、アシャは、盗賊から奪った袋の中を探った。香油が入った壺を取り出し、乾燥した卵守の唇に指で塗り込んだ。
「ヴェンも」
ヴェンに向かって細い指を差し出してきた。近づいたアシャの華奢な右手を、ヴェンは左手で掴んだ。
アシャを止めるつもりで掴んだはずだった。
なのに、その手を思わず自分の方に引いた。アシャは、呆気なくヴェンの胸に倒れ込んだ。甘い香りがする。
「ヴェン?」
その幼い響きに、我に返った。
「急に手が来て、驚いた。なんだ?」
言い訳にもならない。分かっている。
「ヴェンも唇が切れている。香油を塗ってやろう」
アシャは、ヴェンの胸でごそごそと身をよじり、左手に持ったままの小さな香油の壺を、良く見えるように、目の前に差し出した。無邪気ににこにこと笑っている。
アシャは、胸にもたれたまま、香油の付いた人差し指をヴェンの下唇に乗せた。華奢な指が、ゆっくりなぞっていく。吐く息が、微かに鎖骨にかかる。睫毛が上下する度に、微かに揺れる空気が届く。何かがせりあがる。
乱暴にアシャを押しやり、香油壺を奪った。
「自分でやる」
唇にざっと香油を付けると、すぐに壺をつき返した。アシャはきょとんとした顔のまま、壺を受け取った。指に残った香油を、首を傾げて見つめてから、勿体ないとでも思ったのだろう、自分の唇に付けた。
ヴェンは服に着いた砂を払い、荷物をまとめ直した。なるべく時間をかけて丁寧にした。
それが済む頃には、いつも通りの短い会話を始められた。
食事を分け合い、結局、少しだけアシャに水を分けた。代わりに香油壺を受け取った。これなら、砂漠の竜も、掟破りとは言わないはずだ。
明日の朝は早い。火の前で、背中を預け合い眠った。底冷えする砂漠の夜。体を温めるのは、熾になりつつある小さな火とマント。そして、互いの体温だけ。
小さな寝息が聞こえる。吐く息は白くても、心は温かい。
愛しさを背負いながら、ヴェンも眠りに落ちた。
アシャはもうすぐ大人になる。ずっと、幼生のままならいいのに。
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