第37話 水色

 アルミニウム製、ステップ二段。小清水の部屋に準備されているのは、そんな何の変哲もない脚立である。もともと実家にあったのを持ってきたという経緯だから何年ものなのかはよくわからないが、用途といえば棚の上のものを取るときくらいなので、今までのところはさしたる問題も起こらなかった。蛍光灯を交換する時期までには新しい脚立を買おうと、小清水はひそかに思っていた。


「じゃあ、まず私がお手本見せるから」


 琴音が両手に力をこめてバケツを持ち上げる。バケツには既に水が汲まれていて、水面にエキスパートホースが突き刺さっている格好だ。


 琴音がステップに足をかけようとして、


「――って、何してるの小清水さん」


「えっ?」


 まさかそこで質問が飛んでくるとは予想だにしておらず、小清水は反射的に当惑する。


 何をしているのかと訊かれれば、答えは「琴音の傍らにしゃがんで脚立に手をかけている」ということになる。


「巳堂さんが登るなら、わたしが脚立押さえてようかなって」


「や、いらないだろ。支えてもらわなきゃ水換えできないようじゃ話にならないぞ。私はいつも一人で水換えやってるし、小清水さんだってこれから何度も一人で水換えするんだし」


 大袈裟なことしなくていいよ、と逆に戸惑ったような声を出す琴音。


 その言葉は正しい。


 正しいが、彼女の認識からはきわめて重要な情報が抜けている。ここは小清水の部屋であり、つまりクローゼットから取り出された脚立は小清水の私物なのであって、特徴を知っている者はこの場に小清水しかいない。


 琴音がステップに足をかける。そのまま天板へと登って、


「巳堂さん、だめ、待っ――」


 かたん。


「――は?」


 脚立が、揺れた。


 アルミニウム製の四本の脚のうちの一本。先端に取り付けられているはずの滑り止めが外れ、そのぶんだけ他の脚と長さが違ってしまっているのだ。


 それでも琴音は堪えようとした。


 水のたっぷり入ったバケツさえ手にしていなければ、彼女の努力は実を結んでいたかもしれない。


 バケツの中の水が揺れに合わせて「ぎゅるり」と動く。琴音は何とか溢すまいとあがいて、その瞬間、ただでさえ厳しかったバランスが見るも無惨に崩れた。


「わああっ!?」


「ひゃうっ!」


 脚立の天板を踏み外した琴音の体が大きく傾いで、小清水めがけて倒れ込んできた。


 そこからは、何がどうなったのか覚えていない。


 小清水が目を開けたとき、琴音はちょうど床で身を起こそうとしていた。よく見ると脚立が反対方向に蹴り飛ばされている。


 ――巳堂さん、わたしを巻き込まないようにしてくれたんだ。


 もっとも、琴音の気遣いが奏功したのかと問われれば微妙なところだ。琴音の持っていたバケツは傍らで横倒しになっていて、ぶちまけられた中身がフローリングと琴音自身をずぶ濡れにしていた。


「っ痛……」


 琴音が呻いた。


 小清水はほとんど反射のように動いた。床についた尻から染み渡ってくる冷たさを無視して立ち上がり、琴音のもとへと駆け寄る。


「だいじょうぶ!? ごめんね、わたしがもっとちゃんと伝えてれば……」


「……いや、こっちこそごめん。今のは話聞かなかった私が悪い」


 そんなことはない――小清水は否定しようとしたが、それよりも早く琴音が起き上がった。前髪からぽたぽたと雫が落ちる。


「床拭かなきゃいけないね……雑巾か何かある? なんなら古い新聞紙とかでもいいけど」


 雑巾ならある。


 が、小清水は答えなかった。


「いいから、そんなの!」


「え」


「床くらいわたしが拭いとくよ。巳堂さんはそれどころじゃないでしょ?」


「それどころじゃ、って……」


「服!」


 自分はいい。琴音が咄嗟に身を捻ってくれたおかげだろう、濡れたのはせいぜい床についていたスカートと靴下くらいだ。かかったのはカルキ抜きを入れただけの水なのだし、この程度ならドライヤーとアイロンを当てればどうにでもなる。


 しかし、琴音はそうはいくまい。


 彼女はほぼ全身が水浸しだった。ぺたりと額に張りついた髪はカラスの羽みたいな色になっているし、スカートに染み込んだ水の量だってこちらのそれの比ではなかろう。一番ひどいのがセーラー服の上着で、すっかり濡れた白い生地が肌にまとわりついているのが一目でわかる有様だ。


「水色」


「ちょっ……!」


 呟いた一言は、琴音に己が惨状を理解させるには充分な威力を秘めていた。シャープな輪郭を描く頬にさっと朱が差す。


 小清水はタンスの棚に手をかける。


 すっかり押し黙ってしまった琴音に向かって、ひょいとタオルを投げてやる。


「シャワー貸すよ。服も用意しておくね」


「え……待って待って、いいよそこまでしてもらわなくても」


「だーめ。いくら暖かくなってきたっていっても、そんなんで外に出たら風邪ひいちゃうもん。黙って見過ごすわけにはいかないよ」


 座ったままの琴音の手を引く。


「わ、わかったよ、わかったから。自分で行くから」


 流されるままに立ち上がった琴音は、なおも困惑した表情だ。


「うんうん。バスルームはこっちだからね~」


 小清水は聞く耳を持たない。転ぶ間際にまで気を遣ってくれるのは嬉しいが、気を遣われるばかりではこっちだって居心地が悪いのだ。


 身を翻して後ろに回り、琴音の背中を押してゆく。

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