第22話 なんだか顔赤いけど……
琴音の飼っている個体は体長およそ十六センチメートルと、最大サイズに育つまでにはまだ遠い。それでもヒレをいっぱいに広げた姿には迫力があって、雑誌に載っているブルームーンギャラクシースネークヘッドと同種なのだと一目でわかる。
「わぁー……名前はつけてるの?」
「ギンガ」
「ギンガちゃんかぁ。写真で見たときもちょっと思ったんだけど、雑誌に出てた子よりも青いよね?」
気付いたか、と琴音は微笑む。
スネークヘッドの発色は個体の素質によるところが大きい、というのが琴音の持論である。もちろん輸送などによる色飛びはあるし、環境になじむにつれて色が乗っていく点では他の魚と変わらない。だが、そこからさらに鮮やかになるか否かという意味では、飼い主にできることは――青系の魚に赤系の砂を合わせているなどでない限りは――ほぼないと琴音は思っている。
その点、ギンガは「あたり」だった。
家に迎えてから今の色合いになるまでに要した期間はせいぜい三日。水槽の引っ越しを行った際にはさすがに少々色が飛んだが、それとライト点灯直後とを除けば鮮やかな発色が翳ったことは一度もない。
ショップに足を運んで自分の目で選んだのが良個体であったことは、琴音のひそかな自慢なのだった。
「涼しそうな色だよね。ブルーハワイとかみたいな」
――って、なんじゃそりゃ。
せめてそこはサファイアとか言ってほしいところだ。
「ブルーハワイはむしろ暑いときのイメージだけど……まあいいか。実際、普通の熱帯魚よりも低めの水温にしてるのは確かだよ」
「え、なんで?」
「スネークヘッドの中にはちょっと水温低いほうがコンディション安定する奴がいて、ブルームーンギャラクシーもその一つなんだ。棲んでるのが山の高いとこらしいから、そのせいかも」
琴音は水槽の側面に貼り付けてある温度計を剥がし、表示されたデジタル数字を小清水に示す。
二十五・一度。
「あれっ? 普通の水温じゃない?」
「……一応、ヒーターの設定水温は二十二度なんだ」
「あ、そっか。ヒーターは加熱しかできないから、」
「そもそもの水温が二十二度より上だから、いまヒーターの仕事はない。ベストの水温にしようと思ったらクーラー用意するのが一番いいんだけど、高すぎて手が出なくてさ……」
「どのくらいなの?」
「モノにもよるけど、諭吉が五枚は飛ぶかな……」
これまで琴音は夏になるたび、バイトをしなければならないと考えては年齢の壁に阻まれてきた。まさか五月の時点でそれを意識させられるはめになるとは思わなかったが、しかし、高校生になった今年であれば……!
「――あ! と、ところで巳堂さん」
話題が行方不明になりかけていることを察してか、小清水がぱちんと両掌を打ち合わせる。
「この子は60cmで飼えるの?」
そうだった。目的はあくまで小清水のペット探しだ。
琴音は咳払いして気分を切り替え、
「飼える」
簡潔に断言した。
「最大二十五センチだし、そんなに泳ぎ回るタイプじゃないから60cm規格で充分。私が90cmにしたのはレイアウトと両立させたいってのが理由」
「スネークヘッドの仲間で、他にも60cmで大丈夫な子はいる?」
「もちろん」
琴音は鞄を下ろすと、月刊アクアキューブを取り出した。
ベッドに座り、脚の上に雑誌を置く。スネークヘッド特集のページを開いたところで、意図を汲み取ったらしき小清水が隣に腰掛けてきた。
琴音は小型スネークヘッドの項目を指し示して、
「まず、レインボースネークヘッドだね。たぶん一番有名な種類だと思う」
「わ、すごいカラフル」
小清水が目を留めた一枚の写真には、まさに極彩色としか言いようのない魚が写っている。緑の背ビレの先端にはオレンジが乗り、臀ビレは青と黒のツートン。尾ビレには赤い斑点。胸ビレは付け根の青から黄色に変化し、さらに赤へと至るグラデーションで彩られている。
「それと、ドワーフスネークヘッド」
琴音は隣の写真へと指を移す。
一匹あたりの派手さはレインボーに及ばないものの、こちらの面白さは体色に著しいばらつきがあることだ。うっすら青みがかった個体もいれば、ヒレ先の鮮烈なオレンジで主張している個体もいる。パターンは産地の数だけ存在し、そのことがためにドワーフ専門に蒐集している愛好家さえいるという。
「レインボーとドワーフは育ちきっても二〇センチくらいだから、60cmに一匹じゃきっと物足りないと思う。45cmが適正かな」
「じゃあ、60cmにお迎えするとしたら、水草とかでレイアウトを整えながら泳がせてあげるのがいいのかな? 巳堂さんの水槽みたいに」
「だね。――でもまあ、素直に『60cmから飼育できます』って奴を選ぶなら……このへんかな、っと」
琴音はページを捲った。
紹介されている魚の名前が、小清水の口から音を伴って発せられる。
「スチュワートスネークヘッド、インディアンスネークヘッド、ガロ……あ、このアイスファイヤーって子面白いね、別名『カブキ』だって」
「ああ、そいつか。目の周りが隈取りみたいに赤くなるから『カブキ』。けっこう人気のある種類だけど、そういえば最近あんまり出回ってるの見かけないな」
「へぇ……レアなんだ。たしかにきれいだもんね」
「ブルームーンギャラクシー以外の中型だと、私はオルナティピンニスが好きかな。二階にこれ以上水槽置くの怖いから買わないけど」
うっすら水色がかった氷を思わせる魚体に、燃える炎のようなヒレのオレンジ、そして顔の赤い模様――アイスファイヤースネークヘッドは紛れもない美種で、小清水が目をつけるのも頷ける。
一方で、チャンナ・オルナティピンニスも負けてはいない。
透明感のあるグレーと淡いオレンジとが織物のようなパターンを描く体色の上に、あちこち黒い斑点が入ったスマートなボディ。透き通った胸ビレは白黒の縞模様で、その名――オルナティピンニスとは「綺麗な羽飾り」の意だ――に恥じない優雅さを醸し出している。
「オルナティ……え、どれ?」
「オルナティピンニス。ほら、こっちの下のとこ」
琴音は誌面を押さえる手元をわずかに開く。たしかにチャンナ・オルナティピンニスの写真は琴音の側のページに載っていて、小清水の位置からでは見づらいだろうと気がついたのだ。
誓って言う。他意はなかった。
「ん~っと……あっ! この子だね?」
「――え、」
ふわり、と。
部屋の空気が柔らかく動き、ミントの芳香剤の匂いに慣れた鼻腔を別の香りがくすぐった。
小清水がまた体を寄せてきていた。
シャンプーの香りだと直感的に理解した。
――うわ、
すごく女の子っぽいな、と思う。よく「フローラルなにおい」なんて表現を見るけれど、あれはきっとこういう香りのことを言うのだろう。
つくづく人種が違うと実感する。自分が使っている安物のリンスインシャンプーとは大違いだ。
「――うん、上品なフンイキの魚だね……って、どうしたの巳堂さん?」
「う、や、べつに……どうもしない、よ」
「ほんと? なんだか顔赤いけど……もしかして体調が、」
「いや、大丈夫! 本当に大丈夫だからっ」
とっさに否定するものの、小清水の表情は晴れない。心配げに眉根を寄せて、こちらの頭のすぐ下から真っ向目を合わせてくる。その仕草がまずいのだということは、彼女には思いもよるまい。
参った。
もともと最低限の人付き合いで済ませてきたせいだろうか、自分がこんなにも対面に弱かっただなんて今まで全然意識したことがなかった。
――どうしよう、いったい何て言えば、
琴音が進退窮まったそのとき、突如バシャリと水音がした。
「――あ、ギンガが……」
つい声が出た。
それは小清水も一緒だったようで、
「暴れてる!? 巳堂さん、あれまずいんじゃ……!」
琴音は思わず噴き出してしまった。自分よりも慌てふためいている奴がすぐ傍にいると逆に冷静になると言うが、まさに今がそれだ。
なるほど――この魚を見慣れていないとそういう感想になるのか。
「違うよ。あれは餌くれダンスだ」
「えっ?」
「前に話したでしょ、人間を見ると餌をよこせってアピールすることがあるって。朝に冷凍アカムシを食べたきりだから腹が減ってるんだよ」
小清水が目を瞬かせる。
「なあんだ、びっくりしたぁ」
会話に自然な調子が戻ってくる。
ほどけるように頬を緩ませる小清水は、琴音の胸中が激しく波立っていたことなど知るまい。それでいい。知られたが最後、自分は今度こそ顔を合わせられなくなるだろうから。
――ナイスだ、ギンガ。
落ち着いてゆく鼓動から逆説的に寸前までの乱れを感じて、琴音はスネークヘッドに心の底から感謝する。
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