第6話 精神という不思議なものを

「やあ」


 すぐに意識が戻ると、聞いたことのある声が待っていた。視界に広がるのは、先ほどまでと同じ暗闇の公園だ。


「十秒くらい意識を失ってたぞ」


「たった十秒……?」


 僕はじんじん痛む頬を摩りながら首を据える。どうやら彼女の肩に頭を乗せていたようだ。


「注文通り思いっきり叩いてくれてどうも」


 予想をはるかに超える衝撃に皮肉った。


「どういたしまして。どうだ、落ち着いたか?」


「ああ、なんとか」


「よかった、まだ足りなかったら水責めでもしようかと思ってたから」


「ははは、冗談はやめてくれ」


 容赦ないビンタを経験した僕には苦笑いしかできなかった。


「少し一人にさせてほしい」


「ご自由に」


 僕は席を立ち、公園の隅で煙草に火をつけた。吐き出した煙が空に向かって昇り、やがて消えていくその過程を、繰り返し眺める。


 煙は消えたわけではなく、薄まっただけなのに、人には消えたようにみえる。そんな当たり前のことについてふと考えてから、ゆっくりと席に戻った。


 夢か現かはまだわからないが、今あるこの世界を受け入れようと、僕は大きな器を錬金した。


「おかえり。少し顔つきが良くなったな」


「ただいま。誰かさんのおかげでな」


 僕も倒れるように座り込み、背もたれに体を預ける。


「にしても、その煙草という発明品もよくわからないのだが、その話はやめておこ

う。えーと、どこまで話したっけ」


「君ら宇宙人は人間を観察してるんだろ?」


 僕は平然とした顔で指摘した。


「おお、そうだ。ビンタ一つでここまで変わるんだな」


「ああ。もちろん君の話を信じたわけではないけど、聞く価値はあると、なんとなく感じただけだ」


「それはありがたい」


 横の宇宙人は足を組み、手の甲に顎を乗せた。まだまだ話は続くらしい。


「私は地球人の精神的な弱さ、特に鬱について研究している、そしてそのサンプルとして君は選ばれた」


「ああ、それはもう、よくわかったよ。じゃあどうしてわざわざ僕と接触したんだ? こっそり観察していればよかっただろう」


「よく聞いてくれた。私が本当に話したかったのはそこにあるんだ。私は君を観察していたけど、理解不能な行動があまりにも多かった。理解不能というのは研究者を惹きつかせる。そう、私は君に興味を持ったから、観察するだけでは飽き足らず、こうして接触したんだ」


「顔を合わせるとバイアスが働く。それじゃ研究者失格だな」


「そうかもしれない。でも、すでにデータは十分とれた。君の観察は終わったから、こうして最後に会いに来たんだ」


「お役に立てたようでなにより」


「君のおかげで助かったよ。しかし、自殺しようとしたのは本当に驚いた。私が会おうとした矢先だったからな」


「今の時代そこまで珍しいことでもないけど」


「……そうだな。でも、自分の目で見るとやはり衝撃が強い。我々からしたら自分で死ぬなど考えられない。生まれるとすぐに親を殺して食う生命体を見たことがあるが、それと同じくらい仰天したよ」


 彼女は大きくため息をついた。


「で、僕を観察した結果はどうなった?」


「結果は簡単だ。病原菌は人間そのものだった」


「それだけ?」


「それだけだ」


「拍子抜けした」


 季節外れのモスキート音が静寂を漂う。どこかあほらしい響きが僕らの邪魔をする。それでも宇宙人は、おかまいなしに話を続ける。


「鬱のメカニズムなんてそれだけわかれば十分だ。我々にとって害がないとわかるだけでな。未知のウイルスではなく、人間自身が作り出した病気なら、我々には関係ないだろう?我々は人間よりも社会的な生物だから、個人の心の変化というのがあまりない。心の病なんてほとんど存在しないんだ。つまりは、鬱がウイルス性じゃないとわかりさえすれば、安心して地球で過ごせるってわけ。そもそも我々がこの星を観察しているのは、もちろん好奇心のためだけじゃない」


 宇宙人は目に見えぬ速さで蚊を片手で握り、手のひらの中に収めた。


「一番の目的は侵略だ」


 そういってゆっくり手を開くと、生きた蚊の羽だけを丁寧につまみ、自分の腕の血を吸わせる。


「侵略か、そうか、……宇宙人だもんな」


「ああ、遊ぶためにはるばる地球にきたのではない。侵略に先立ち、地球において我々に何が有害なのか事前に調べる必要があったんだ」


 宇宙人が蚊を潰すと、人差し指と親指には白い液体がついていた。


「マヨネーズみたいだな、それは宇宙人の血か?」


「よくのんきなことを……まあその通りだ。我々の血は人間と違い白い。ただ人と近いところもあって、蚊はタンパク質目当てで血を吸うが、このように私の血も吸う。それもごくごくとね」


 僕は白い血をまじまじとみる。この血こそが、彼女の異常な白さをつくっているのだろう。B級映画の敵性エイリアンが白い血を飛び散らせて死ぬシーンが頭に過ぎった。


「まるで作り物だ」


「我々からみたら赤い血が作り物にみえる」


「そういうものか……、しかしそれはそれとして話を戻すと、侵略が本当なら、それはいつ頃になるんだ? 目的も知りたい」


 宇宙人は腕を組んで考え込む。


「侵略は明日かもしれないし、一週間後かもしれないし、一年後かもしれない。一研

究者の私には詳しくはわからないが、とにかく近いうちだ」


「意外とルーズなんだな、宇宙人も。でも、そうか、そういう意味でも最後だから、会いに来たってわけか」


「そういうことだ。侵略の目的は単純明快、地球の資源がほしい、ただそれだけ」


「妥当すぎる回答だな」


 僕はスマホを取り出して、時間を確認した。朝五時前、もうそろそろ夜が明ける。辺りはまだ暗いが、後十分もしたら健康的な人々が活動を開始するだろう。


「それで時間がわかるのか?」


「ああ」


「何時だった?」


「もう五時前だ」


 それを聞いて、宇宙人は立ち上がる。


「明るくなるとまずい。そろそろ戻る」


 僕は座ったまま上目遣いをして言う。


「なかなか面白い話だったよ」


 彼女は嬉しそうに微笑む。


「それはありがとう。私も君のような人間と話せて楽しかった。人間は愚かなところもあるが、同じくらい面白いところもある。我々よりもっと壮大な心の世界に生きている。人間のそういうところが好きだ」


 彼女のまっすぐな微笑みに思わず胸が高鳴る。人類代表として素直に受け止めよう。


「とにかく私が言いたかったのは、鬱病なんて病気が蔓延してる人間はおかしいが、それも含めて面白いということ、あとはもうすぐ侵略が始まるということだ」


「おいおい、敵に侵略を知らせるあほがいるか」


「ここにいる」


 そう言い放ち、彼女は両手をフライトジャケットのポケットに入れたまま、颯爽と去る。


 数歩歩いて振り返ると、


「我々は紫外線が苦手だ。だから暗いうちに戻る。我々の技術力を持ってすれば太陽を隠すことなど造作もないが、それでも苦手なものは苦手だ」


 宇宙人は突然告白した。


「敵に弱点を教えてどうする」


 そんな突っ込みは無視して、宇宙人は再び歩き始める。


「……私は人間が好きなんだ」


 最後にそうつぶやいたのを、僕は確かに聞いた。


 宇宙人の背中をみながら、煙草に火をつけ、上っていく煙を目で追いかける。


 東の空から洩れる朝日に気づいた時、彼女はすでに姿を消していた。

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