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 人の気配がまったくない大学内を歩いていく。


 風が吹き抜けていって、ほんの少しの冬がまじったような乾きを顔に感じた。

 それにしても肌寒い。上着を着てきて正解だった。

 ポケットから蓋付きも懐中時計を取り出すと、蓋を開いた。現在時刻を確認した後、蓋を閉めて、ポケットにしまった。

 他のポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイを確認する。

 『ごめん! 遅れる!』

 携帯電話をしまった。


 ちょうど良いから、少しぶらぶらしよう。

 こんな機会でもないと、大学の中を意味もなく歩くことは少ない。

 こうして歩いていると、大学は、まるで一つの世界のように感じる。大きいようで小さい世界の中に、いろいろな建物が存在している。

 知らない場所ばかり。窓のたくさんある高いビルのような建物の中には、何があるのか想像するだけで、頬が緩む。今度、上がれるところまで上がってみても良いかもしれない。もしも、最上階まで行くことができたのなら、そこにはきっと、知らない世界が待っているだろう。

 普段なら、いろいろな年代の人が校内を歩いているのだと思うのだけれど、今日は人を見かけない。

 そのせいか、管理するものがいなくなって、寂れていくだけの場所を歩いているような気分になっている。

 人がいないと、余計に寒く感じてしまう。図書館は開いているはずだから、後で寄らせてもらおうかな?

 大学が始まったら、また人が、大勢行き来するようになるだろう。新入生も入ってくるだろうから、しばらくは新しい風が通り抜けていくはずだ。

 四月になったら、テラス席やベンチに座って、空と人の流れを見るのも良いかもしれない。きっと、楽しいだろう。

 歩き続けていると、視界の中にコンビニが入った。シャッターが下りている。

 大学に人が大勢いる期間のお昼や夕方にここを覗けば、レジの前には長蛇の列ができているはずだ。

 幅広い年代の人、日本人もそれ以外の国の人、いろいろな人が皆一様に作られた列に並んでいる光景を思い起こした。

 そしてその列の一番端には、レジにいる店員さんがいる。

 いろいろな人が一つの空間で、それぞれの理由で立っている。それを見ると楽しい。

 一人一人、それぞれの時間を生きている。

 偶然が重なり合って、それぞれの道が交差すると、ほんのひと時、関わり合う。

 瞬間の奇跡。

 それを見たり、聞いたり、感じたり、経験するのが楽しい。

 どんなものだって、想像もできないような日々を歩んでいる。

 日常も非日常も、すぐ隣で、当たり前のように歩いている。


 重いドアを身体を使って押し開けると、大学の喫茶店兼休憩スペースに入っていく。

 辺りを見回したけれど、人っ子一人いない。喫茶店も今は閉まっている。

 静かなのは、本を読むのには好都合。

 適当なテーブルの席に座った。

 誰もいない。静謐。

 平日だったらスーツを着た人達がいるのかもしれないけれど、休日だから、流石にいないか。

 この場所は、夏は比較的涼しいけど、冬は暖房が入っていても寒い。日があまり入らないことで、なんというか、夜の世界という印象を受ける。

 リュックから水筒と本を取り出して、テーブルに置いた。

 水筒のコップに紅茶を入れると、一口飲んだ。体の隅々を通っていく感覚があった。

 静寂。白い世界。一人の空間。

 ニヶ月くらい前は、ここは、テスト勉強をしていると思われる人達でいっぱいだった。不特定多数の声や音が反響し合って、お祭り騒ぎだった。

 こうして誰もいないと、すきま風でも吹いてきそうな気持ちになる。

 今は影だけがここにいる。すべてが止まったように見える世界。祭が終わった後に残る、たしかにそこに何かがいたという、目に見えない残滓。

 目を、閉じた。


 世界の中を漂うきせきが渦巻き始めて、景色をそうぞうした。

 眼前の暗闇の中に、無機質に佇むものの存在を感じる。

 黒い空間に光が当てられるともに、黒衣のいとで人形が動き回り始めた。

 そのうち、吊られたいとが切られていく。少しずつ崩れ落ちて行きながら、規則と不規則の間を、繰り返し動き続けていく人形。

 最後のいとが切られ、人形は、刹那の答えとともにガラガラと倒れ落ちて行く。

 通り過ぎるように現れて、瞬く間に消え去っていく意があった。

 人形の動きは止まり、空間に当てられていた光も、ゆっくりと消えていく。

 刹那ゆえに心惹かれる。須臾の跳躍。その偶然の一瞬にこそ、すべてがある。いちとぜんがある。しとせいがある。

 目の前には空間が広がっている。

 人形は横たわっているのだろうか? 起き上がっているのだろうか?

 光り輝くものがいないことで現れる、ありのままの形。

 陰と陽。静と動。流れていく。止まることはない。

 流れて循環する。小さな欠け。変化の兆し。切り開かれた路を流れていく。欠けの向こうに見えた世界には、幾つという概念の先にある可能性を予感させられた。


 目を、開けた。

 残っていた紅茶を飲み干すと、コップを置いた。

 テーブルの本を手に取って、ページを開いた。

 今は春。今年は、どんな桜が見られるだろう?

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