コートを駆け抜ける風と香り

 異様な雰囲気のままプレーが再開される。

 もはや萱場と日奈に対する、爽やかな番狂わせペアという印象は消え去り、観客席からは奇異なものを観る視線がふたりの陣地に注がれる。


「タイスケさん・・・」

ひるむな」


 萱場はあくまでも現在のプレースタイルを貫くつもりのようだ。マイク・リーとマーメイ・チェンに通用する限りは。


「さあ、一本・・・・」


 日本の応援団の声援も徐々に音量を落としていった。妙子の声もか細くなったことを日奈は悲しく思う。

 妙子が大きな声で応援しないことをではなく、彼女にそういう思いをさせてしまっている自分たちのプレーを、だ。


「ショウっ!」


 萱場がまた見たことのないフェイントのバリエーションを披露すると、得点されてプレーが途切れた際にマーメイがグリップに滑り止めのスプレーを吹きかけた。


 そしてその動作の後、もうひとつ小さな容器を手に取り、自分のうなじのあたりになにやら吹きかけた。


 日奈はマーメイの一連の動作をとても美しく感じ、うなじに吹きかけたものへの興味が急速にわいてきた。


 空調の風がコートにそよぐ。


 日奈の鼻腔を不思議な香りがくすぐった。


「あ。これって」


 日奈がその香りが何であるかを思い出そうとしていると萱場が背後から呟いた。


「サクラだ」


 そうだ。ほんとだ。サクラの香りだ。


 日奈は萱場の解説と嗅いだままの感想を思いながら、マーメイのことについても思いをめぐらした。


『オリンピックの決勝戦で香水を・・・それも、サクラの』


 とても無機質で高い知能指数と驚異的な身体反応を武器に圧倒的な強さを見せつけてきたそのマーメイが、自分たちの国の花の香りをコートに漂わせる。


 なんだか日奈は胸のあたりがくすぐったくなるような気分になった。


「タイスケさん」

「ああ」

「ワンプレーだけ、わたしに任せてもらえませんか」

「・・・・」

「お願いです。わたしだって、香りたいんです」

「わかった」


 日奈が静かにサーブを放つ。

 身長応じた低い位置からの、弧を描くサービス。


 けれども、シャトルの羽がネットにかするかかすらないかの繊細なタッチのサービスを、レシーバーのマーメイはプッシュではなく、バックハンドで丁寧にクリアする。


 そのまま日奈は自らコート後方へ静かな、けれども素晴らしい最短距離でのフットワークで移動する。


「タイスケさん、任せて!」


 澄んだ声で合図すると、カシュ、というノイズのないガットとシャトルの素直な接触とスマッシュと全く同じきれいなフォームでカットを放った。


 速いカットだ。


 それでも余裕を持ってネット前にフットワークで詰めてきたマーメイはもう一度バックハンドでヘアピンかクリアの態勢に入る。


 しかし、そこで会場がどよめいた。


 さっきまでの異様な気配の反応ではない。


 日奈の放ったカットは、ネットのラインにシャトルの羽の最後尾をかすらせ、そのまま網の部分をなぞるようにして滑り落ちる。

 驚くべきことにマーメイは反応し、ヘアピンで敵陣に返そうとする。しかし、タッチネットを避けることは不可能だった。


 会場のあちこちから拍手があがる。

 人数は多くないが一人一人が手を打つ音は大きい。


『目の肥えたバドミントンファンがいるようだな。日奈のやったネットインは一説では最高峰のプレーと評価されてるからな』


 そして萱場は念のため日奈に確認した。


「まさかとは思うが・・・」

「はい。狙って打ちました」


 萱場は驚かない。

 オリンピック代表を決めた全日本の決勝戦でも集中力が最高レベルに達した最後のプレーで、フレームで打つカットをやってのけた日奈だ。

 萱場が知りたかったのは、どうやって集中力を高めたかだ。


「マーメイへの先入観を捨てたからですよ」

「先入観?」


 日奈は萱場の疑問に端的に答える。


「マーメイが決勝戦の最中にサクラの香水を身にふりかける・・・無感情でIQだけが高い精密機械だと思ってたけど、違いました。彼女は戦う人間の心を知る、レディーです。ならばわたしも『レディー』としてのプレーをするまでです」

「なるほどな・・・で、どうだ。まだ集中できるか」

「同点までなら」

「十分だ」


 ふたりは軽くラケットをクロスさせた。


 まるで武士同士が剣の切っさきで心を通じあわせるように。

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