超ベストを目指せ!

 日奈は今、ベストの走りをしている。野田との差は10mほど縮まった。けれども、このままの走りでは残りの距離の内に抜き去ることはできない。日奈はベストを超える走りが必要だと判断する。

 日奈は仮にも実業団といういわば‘プロ’の世界に身を置いた。日奈は合理的・かつ熱く、自分自身に‘超ベスト’を瞬時に課す。それはいわば‘本業’ではない陸上競技にも応用できる、と自信を持っていた。

 後ろへの腕の振りを2割増しにする。骨盤の前傾を5度大きくする。ストライドを一気に10cm広げる。

 これらのことを頭で考え、冷静に体に伝える。瞬間、日奈の体の動きが歯車がかみ合ったまま数段ギアが上がり、眼を見張るような勢いで加速していく。

 観客全員が魔法のようなスピードアップと日奈のフォームのあまりの美しさにどよめく。

「おおーっ!!」

 そのどよめきに気付いた野田が後ろを振り返ると、日奈が猛スピードで自分に迫っているのが分かる。

「そんなバカな!」

 野田は焦る。野田自身も自分なりに‘超ベスト’を試みる。

 ここからが2人の違いだった。

 野田はその‘がむしゃらさ’をむき出しにする。力を込め、苦悶の表情になる。観客も野田が渾身の力で走っているとはっきり分かり、「おお、さすが野田だ!」と声援を大きくする。しかし、スピードはそのがむしゃらさの程には上がらない。ベストをほんのちょっとだけ上回っている程度だ。

 それに対し、日奈は、‘根性’でがむしゃらさをむき出しにするのを抑えていた。

 ギアを上げた瞬間から日奈の体中が悲鳴を上げていた。

 肩甲骨と背筋がみしみしいう音がはっきり聞こえ、腕を振る毎に鋭い痛みが走る。そして、走る際のアクセルとなるお尻の筋肉が痙攣寸前の状態で踏ん張っているのが分かる。

 何よりも心肺が極限までに苦しい。でも、息継ぎをしない。しないというより、息継ぎをする余裕すらないのだ。今、息をすると一気に体が弛緩して、関節がばらばらと崩れ落ちるような恐怖さえあった。

 本当はがむしゃらさをむき出しにしたい。苦しい表情をしたい。体を投げ出すようにして走りたい。その方が楽だ。

 けれども日奈は根性でそれを抑える。がむしゃらになりそうになる体を押さえつけ、美しいフォームを保つ。そして、表情も苦しさが増せば増すほど涼しげにしようとした。

 そうしないと全てが一気に崩れ去る。

「常に息が上がった状態で打つことを当たり前に思っとかないと、最後の一本は取れないよ!」と叩きこんでくれた東城トランスポート女子バド部の先輩の言葉が思い出される。

「汗をかくのを、我慢してた」と平然と呟いた萱場の試合後の表情が思い出される。

 それが、実業団で日奈がつかみ取ったものの一つだ。日奈の美しさ・涼しさは、バラバラになる一歩手前のきわどいバランスがあって初めてでき上がったものなのだ。それは決して観客には分からない。分かっているのは萱場だけだ。

 同じ高校生でありながら、日奈と野田の住む世界は違うものだった。

 日奈が涼しげな美しい走りですぐそこに迫っている。けれども、日奈自身も苦しいということに野田は気付かない。野田はフォームを完全に崩し始めた。本当は野田が‘相手も苦しい’という当たり前の事実を冷静に捉えて自分の現時点での‘ベストのフォーム’に徹すれば逃げ切れるかもしれないのに。自爆せんとしている。

 ゴール3m手前で日奈が完全に横に並んだ。

 日奈は前だけを見ていたのだが、野田のぜいぜい言う声が聞こえその横顔がちらっと視界に入った。

 野田は臨終のような鬼気迫る形相をしている。無言だが、

『負けたくない!』

という心の絶叫を発していた。

 日奈はそのままの加速でゴールすれば勝てたはずだった。だが、野田の心の叫びが‘見えた’瞬間、つい、息継ぎをしてしまった。

 僅差で野田が勝った。

 日奈は弛緩した途端に体がぐにゃっとなり、立っていられない状態になった。静かにしゃがみこむ。

 リレーのチームメイトたちが寄って来る。

「日奈、大丈夫?」金田が声をかける。

「ごめん、負けちゃった」

 日奈がそういうと、河内が朗らかに言う。

「いや、僕たちはやったよ!なあ?」

 伊藤さんが言う。

「みんな、ありがとう。俺はこの高校の生徒だってことが、嬉しくてしょうがない!」

 伊藤さんの言葉にみんな、じーんとする。

「白団、ファイッ!」

 4人で円陣を組み、敗れはしたものの鬨の声を上げた。応じて白団の応援席からもエールと拍手が4人に贈られる。

 そして、日奈は、‘まだまだ甘いな’と呟きながら、倒れ込んでいる野田の所に歩み寄って行った。

 寄って来た日奈を見て、野田は無理して立ち上がった。

「野田くんの気迫に負けた。ありがとう」

 日奈の方から右手を差し出す。

 野田は慌ててこう言う。

「いや、タイムでも負けてるし、後1mあったら抜かれてた・・・

 来年も勝負しよう!」

 アスリート同士らしい、からっとした軽い握手を交わし、二人は背を向けて歩き出す。

 けれども、野田は、「もうちょっと、手を握っていたかったな・・・」と、振り返って日奈の後ろ姿をしばらく見ていた。

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