脛の傷
——殺害の動機についてですが、刑事さんのおっしゃる通り十四年前の出来事に関係していることは間違いありません。ええ、イジメの主犯格の渡辺美優紀、そうですね、今は結婚をして伊藤美優紀さんでしたね、確かに私の娘は彼女に殺されました。
いえ、分かっております。法律上、あの事件は殺人とは認められていないということを。でもそんな事は、私にとってはもうどうでもいいのです。彼女の犯した罪の名前が殺人であろうと過失傷害致死であろうと、あの女の悪意がひなたを殺したことには変わりはないんですから。
復讐、というわけではないんです。いえ正確にいえば復讐があの女の娘、穂花ちゃんを殺した動機の全てではありません。むしろほんの一部です。殺人という一線を越える為に復讐という感情を利用した、というのが本当のところかもしれません。
私は苦しかったのです。
殺されたひなたが毎晩のように夢に出てくる、それも辛いことのひとつではあります。マスコミの方々が頼みもしないのに、どのようにひなたが死に至ったかこと細かに報道してくれたお陰で、私はその時の状況を克明に思い起こすことができます。中学二年生の女の子が氷点下10℃の寒空の下、素裸にさせられて遊水池に落とされる、あの女を含む同級生達が一部始終を撮影している。
助けて、寒いよ、お母さん、叫びながら溺れる姿を彼女らはただ笑いながら眺めている。そんな夢を見るんです。そしてそれは現実に存在した光景なのでしょう。
私はひなたと過ごした地を離れ故郷に帰り、塾の講師をしながら生計を立てていました。事件も風化して私もひなたも世の中から忘れ去られ、ここ数年は穏やかな日々でした。それでも私は苦しかった。穏やかな絶望とでもいうのでしょうか。ひなたのいないいち日。日めくりを捲るように、寿命というノルマをただこなしているような日々に意味を見出すことができませんでした。
何故、私が苦しまなければならないのか。シングルマザーであったとはいえ、ひなたには愛情を注いで来たつもりです。人様に後ろ指刺されるようなことなどしてこなかったし、真っ直ぐ、正しい子に育ってくれたと思ってます。それなのに何故? 毎日そんな事を考えていました。
私の前に美優紀が現れたのは去年の春のことです。女子少年刑務所を模範生として出所し、結婚をして子供も産まれた、と風の噂には聞いていました。でも私の住む町に居たなんて夢にも思いませんでした。小五になったばかりの穂花ちゃんを連れて、私の勤める塾を見学に来たのです。
私はひと目で渡辺美優紀だと気付きました。忘れる筈もありません。見学会の為に記帳した美優紀の文字、かつての美優紀の面影を存分に残した穂花ちゃんの顔。これらのことが私の気付きを確信に変えました。
運命の悪戯、というと陳腐に聞こえますがやはり私は運命というものを感じざるを得ませんでした。
それでも、この時までは殺人などといった大それたことを考えてもいませんでした。けれど私が穂花ちゃんを殺そうと決意したのは、この親子の幸福そうな笑顔を見たときでした。
何故、この女はあんなに幸福そうに笑えるのか、おまえ達にその権利はあるのか。
それが最初の想いでした。何故? 何故。
何故私は笑顔を失い、何故この女は笑顔を取り戻しているのか。何故私はこんなに苦しいのにあの女は幸福そうに笑えるのか。
考えがここに至った時、私は穂花ちゃんを殺そうと決意しました。
あの女に有って私に無いもの。それに気づいたからです。
つまりそれは罪と罰。それがあの女に有って私に無いものでした。だから私は苦しいのだと理解をしました。
私には悔い改めるべき罪も、負うべき罰もない。償うべき何かも。
だから私は生まれ変われないのだ、だから私は苦しいままなのだ、ならば、罪を犯せばいい、苦しみ、穏やかな絶望のなか人生を浪費するのをやめ、勇気を持って穂花を殺すのだ。
そうすれば私は刑期を終え、罪を償ったあかつきにはきっと笑顔を取り戻すことができるのではと——
「山さん、何読んでんすか?」
「ああ、シゲか。いやな、四年前俺が担当した殺人事件、判決が確定したからちょっと昔の調書を、と思ってな」
「新潟の女子中学生殺害事件のやつですよね。あれ、意外でしたね。地裁で無罪確定、遺族側は控訴せず、ですからね」
「ああ、心神喪失ってやつか? 精神鑑定が認められてな、一審は無罪。高裁で覆って、最高裁へって流れが普通なのにな。違和感しか感じないぜ、今回は」
「遺族側が復讐の連鎖を止めたって意見もありましたけど、どうなんすかね」
「どうだろうな。ひなこちゃんの母親は罰が欲しくて罪を犯した、と調書に書いてある。まぁ、ちょっと頭がおかしくなっているといえばいえなくもない。しかしそう考えると穂花ちゃんの遺族側は『罰という救済』を取り上げることで復讐をしたかった、とも捉えられなくもない。復讐の連鎖。人間の業。どっちにしろなんかだかやり切れねえなって感じだわ。なあシゲ、今日は一杯付き合ってくんねえか。たまには飲みに行こうじゃねえか」
「もちろんすよ、山さん」
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