その3

「ご両親とも教育に携わるお仕事だから、あなたも立派なお嬢さんになったのね」

 目の前の初老の女性が微笑みながら、アペリチフのグラスに手を掛けた。その指には、ぎょっとするくらい大きなキャッツアイの指輪が光っている。

 私は緊張しながらも、必死になって話をあわせようとしていた。

「いいえ、教諭といっても片田舎の中学校と高校で……」

「あら、そんな。人間の価値は、お金があるとか、恵まれているとか、そんなんじゃわからないのよ。奨学金をもらって苦学して、親を越えるなんて、本当に立派に育てられたお嬢さんじゃないとできないことですもの」

 そう言って、女性はむらさきに染められた頭を、私の隣でしかめっ面している男に向けた。

「うちの子なんて、親がこんなにがんばっているのに、遊んでばかりで留年してばかり。やっと卒業できて、大学病院のインターンとして働けて、ほっとしているけれど、ホント、一時はどうなることかと思ったくらいで……」

 女性の息子である私の恋人は、小さなため息をついている。

「それより、せっかく真奈美さんがきてくれたんだ。そろそろ食事にしよう」

 話の腰を折るように、はげ頭の男性が合図した。女性の夫で、恋人の父親である人だ。

 控えていたメイドが、食事を運んできた……。

 私は、お金持ちではないけれど、いい家庭のいいお嬢さんという好印象で、未来の家族に受け入れられた。

 恋人・剛のお母さんは、帰りがけににっこりと微笑み、

「剛のこと、これからもお願いね」

 と、言った。


 剛とは、大学で知り合った。

 高校卒業後、私は本州の医大へ進学した。

 北海道の学校でもよかったのだけど、何よりも両親とは距離を置きたかった。

 お金がない……と言うので、奨学金を申請した。

 在学中はアルバイトをしながら、必死で勉強した。将来は、田舎で医者をやりたかったのだが、両親のいる故郷には戻りたくなかった。

 剛のほうは、個人病院を経営しているお金持ちのおぼっちゃまで、真面目とはかけ離れた遊び人だった。

 最初は親のすねかじりだと思っていたのだが、なぜか惹かれた。

 私たちの付き合いはどんどん深くなって、結婚しようという話になり、剛の実家に挨拶にいったというわけだ。

「おふくろ、ちょっと癖あるんだ。悪かったな」

「うううん、いいお母さんじゃない」

 と、言いつつ、あの家に入ったら、ちょっと苦労するかも? などと不安になった。


 私の両親は……というと。

 あの後、しばらくは仲良くしようと努力してくれた。

 だが、一度嫌だと思ったら、人間はなかなか変われないらしい。

 その後も喧嘩が絶えなかった。

 彼らの口癖はこうだった。

「真奈美、あんたのためを思うから、我慢しているんだ!」

 そう言われるたびに、私は嫌な気分になった。

 確かに、私は別れて欲しくないと願った。でも、仲良くして欲しかったのだ。

「何であんなのと仲良くできるの! 最低な男だよ!」

「ひどい女だ! あんな女になるなよ!」

 私は、家のストレスを勉学にぶつけた。

 医大を目指したのは、深い意味はない。両親のような学校の先生にはなりたくなかった。たまたま学校の先生が、医大にでも行って、地域医療に貢献してくれたらな、などと、冗談まじりで言ったからだ。

 私が大学に進むと、ついに両親は別居した。


「え? お父さんが故郷にいて、お母さんが今は札幌なの?」

「はい、実は母の体調が思わしくなく……田舎では病院が少ないので。今は、札幌の大学病院に入院中なのです」

「あら、それは大変ね。心配でしょう?」

 剛のお母さんの満面の微笑みを思い出す。

「真奈美さんは偉いのね。それで地域医療に興味を持たれたのね。でも、その夢は剛のために諦めてね。お嫁にきたら、ぜひとも剛といっしょにこの井上医院を支えてもらわなくっちゃ」


 私は、ぐったり疲れていた。

 田舎者で勉強ぐらいしか知らない。金持ちの生活なんか知らない。

 私には、剛の家庭も、この都会の空気も、何もかもあわない。息が詰まりそうだった。

 一人暮らしの小さなアパートに戻ると、電話にメッセージが入っていた。

 珍しいことに、父からだった。

『もしもし、真奈美か? 母さんが危ないんだ。戻ってきてくれ』

 私は慌てて折り返し電話をしようとした。だが、普段から電話しない父の番号は、なかなか見つからなかった。


 慌てて北海道に飛んだ。

 札幌になれていない私は、かなり迷いながらも地下鉄を利用し、その後、ケースを地下鉄駅のコインロッカーに突っ込んで病院に向かった。

 母は胃癌だった。

 病室には、父の姿はなかった。

「あれの顔を見ると、具合が悪くなる……」

 やっと開いた母の口から出てきたのは、やはり父の悪口だった。

 母の見舞いと称して札幌へもよくきていた父の行き先は、愛人のところだった。

 母の話では、相手の女はかつての教え子で、もうかなり長い付き合いなのだそうだ。

「だから、アイツは私が死ぬのを待っている」

「お母さん!」

「離婚なんかできやしない。でも、私が死ねば愛人と結婚できるだろ?」

「お母さんやめて!」

 私は母をたしなめた。だが、母は言い続けた。

「真奈美、お母さんはね、あんたのためだけにがんばってきたんだよ。あんたが世間様に恥ずかしくないようにね。結婚の話、よかったね。お母さん、がんばったかいがあったよ」

「お母さん!」

 まるで、自分の人生悔いはない……とでも言いたげな母の言葉。

 でも、私にはちっともうれしくなかった。

 あんたのため。あんたのため。あんたのため。

 この人は、そればかりを言い続けて人生を終えようとしている。


 そんなの、私のためなんかじゃない!


 それから三日後、母は死んだ。

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