第5話 ムール貝バターガーリックソース

 ――辞めます。


 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、代わりに自分の手のひらを強く握りしめた。スカルプで長く伸ばしたジェルネイルが深く手の肉に沈み込んでいく。痛みが私に我慢を思い出させてくれた。

「わかりました」

 後ろからうっすら聞こえる嘲笑に耳をふさぎ、突き返された返品衣服を抱え込んで奥のバックヤードへ戻る。

 私が対応したのかもわからないお客様からの返品商品を丁寧に折りたたむ。鮮やかなマスタード色のカシミアニット、薄手のホワイトスキッパーシャツ、麻素材のカーキジャケット、ジャラジャラシルバーアクセサリー。一つひとつ、どれも愛着を持って並べている商品だ。

 私だったら、返品をさせるような売り方はしない。

 自分の中だけでそう呟いても、この気持ちを理解してもらえる人間なんていないだろう。誰よりもこの店と、この店の服を愛しているのに。中途半端な気持ちで売っている人間と横並びにされることが悔しくてたまらない。

 店の棚の中に服を在庫としてしまいながら、鼻の奥がツン、と熱くなった。だめだ、職場では絶対泣けない。ふ、と息を吐き出して、私は目を瞑る。

 切り替え、切り替え。そう呟きながら心を店頭の方に移動させていく。大丈夫、私はまだまだ頑張れる。自分にそう言い聞かせてから、バックヤードから表に出ていった。キラキラと目を輝かせているお客様に接することが出来る時間こそ、私の最大の喜びなのだ。



 ***



 久しぶりの早上がりに高いヒールが心地の良い音をする。仕事靴でもある七センチヒール。高いヒールに慣れすぎて、もはやヒールのない靴を履く方が、足に負担がかかるようになった。

 男が混じる飲み会よりも、女性同士の食事会の方が服装に入れる気合が違う。彼氏や男友達、合コンなんかに着ていく服なんてそんなこだわることもないけれど、女の子同士であれば、ほんの小さな差が「おしゃれ」になる。

 面倒臭いけれど、時折そうして細かいところまで気を使ったおしゃれをするのはやっぱり楽しい。いつもよりほんの少し赤いリップが気分をさらに持ち上げる。

 待ち合わせ五分遅れ。ラインには連絡しているけれど、一緒に飲む二人はもうお店に入っているらしい。奈央はともかく、広美が遅れずに待ち合わせにやってきているのは珍しい。

 カジュアルなカフェイタリアン。店を選んだのが奈央であることはすぐにわかった。広美だったら、もっと大衆居酒屋みたいなところを選んでいるはずだ。重たい木の扉を引けば、スン、とトマトみたいな甘い匂いがした。

 あ、いいかも。

 基本的に壁や床、天井は白でおおわれているが、入って左側一面の壁は全て黒板になっているらしい。メニューやらおすすめやら、よくわからないイタリア語みたいのがおしゃれに書きなぐられている。机や椅子は基本的に全てダークブラウン一色で統一されていて、これもまた、おしゃれ。

 こちらの姿に気が付いて、広美が手を持ち上げた。お店の人がそれに気が付いて小さく頷いてくれる。慌ててそのテーブルへ向かう。

「遅刻。罰金だよ、かなえ」

「百円なら払うけど」

 薄いメガネをかけた奈央が、楽しそうに歯を見せながらそういって笑った。軽口で返せば座ろうとしていた椅子を足で軽く小突かれた。相変わらず足癖が悪い。

 ゆるいオーバーニットにワイドパンツなんてラフな格好の奈央の横で、広美はいつものように上から下までばっちり決めたグレーのパンツスーツだった。パンツスーツも嫌いじゃないけれど、毎日着るのを想像するとやっぱり飽きる気がする。

「とりあえずボトル頼んじゃったけど、よかった?」

「ああ、なんでもいいよ」

 広美がメニューを覗き込みながらそう呟く。気が付けば二人の目の前にはワイングラスが二つ並んでいる。だがまだ注がれてはいないらしく、きれいに透明のままだった。

 と、私が椅子で落ち着くのとほぼ同時に、お店の女性店員さんが私の目の前にも同じようにワイングラスを置いてくれた。白いシャツに黒のジル、腰で縛られた足元までの長いエプロン。こういう衣装も嫌いじゃない。

「久しぶりにこういうお店もいいでしょう」

 視線を回していた私に奈央がヌーディな唇を緩めながら笑う。眼鏡とニヒルな表情のせいであまり気付かれないが、目の前の奈央は案外男好きがする甘い顔をしている。幅の広い二重と厚い唇、若干色素の濃い皮膚すら色気を漂わせているのだが、残念ながら着ているものに色気がない。まったく、素材を生かし切れていないとはこのことだ。

「いいけど、私はやっぱり落ち着かないな。とりあえず生、って感じじゃないし」

 へへ、と少し肩をすくめた広美は、たぶんこの中で一番の稼ぎ頭だ。毎日スーツを戦闘服に会社と会社を渡り歩き、男性相手に営業で戦いに明け暮れているのだから尊敬するところしかない。まあ、この中ではもっとも酒が好きで、ついでに飲むのが親父臭い店ばっかりっていうとこ、どうにかした方がいいと思うのだけれど。

「でもさすが奈央だよね、相変わらずお店博士」

「ありがとう。そういうまっすぐな誉め言葉嫌いじゃない」

 奈央が少し照れたように歯を見せて笑う。長い黒髪がさらりと耳から落ちるのを見て、なんとなく、いいな、と思ってしまう。好きで金色に染めた自分の髪が、なぜか心苦しく思ってしまうのだ。

「食べ物はもう頼んだ?」

 自分の気持ちを切り替えるように、広美が覗いているメニューを見ながら空気を換える。二人は何も気が付かなかったのか「一応ね」とすぐに広美が返す。

「やっぱり、白には海鮮」

 その言葉にうっとりしながら、広美が両手を合わせる。それと同時に「お待たせしました」と背後から声がした。首だけで軽く後ろを振り向けば、先ほどの女性と同じ格好をした男性が、ワインと皿を持って立っていた。

 それを見た奈央が「待ってました!」と店に似合わない声をあげる。広美は姿勢を正し、しかし目はワインボトルに釘付けだ。

「お待たせいたしました。本日のワインと、ムール貝バターガーリックソースで御座います」

 ことん、と机の中央に皿がおかれた。その瞬間、ふわりとにんにくの強い匂いが鼻の奥に刺さる。あ、と思うよりも早く、胃がきゅうと縮んだ。口の中に唾液がたまる。

 にんにくの匂いはずるい。それだけで、こんなにも胃を刺激する。店員さんが一人ひとりに白ワインを注いでいくのを見ながら、三人でもう一度その皿の中を覗き込んだ。

 たくさんの殻付き貝が並んでいる。空は黒だが、中からちらりと見える身の色はあざやかなオレンジ色。ニンニクの匂いの奥にからふわりと浮かぶ潮の香り。

「おいしそお」

 そう言いながら、広美がごくりと唾液を飲み込んだのがわかった。早く飲みたくて仕方ないのか、黒のボブの髪をかき上げる。それを見て奈央が楽しそうに声をあげて笑う。

「とりあえず」

 笑いながらワインの入ったグラスを持った奈央に合わせ、私の広美もグラスを持った。薄いワイングラスの中では、薄く色のついた白ワインが小さく揺れる。

「久しぶりの女子会に」

「乾杯」

 奈央の掛け声に合わせて、いつものようにグラスを合わせる。ぶつけあわず、少し持ちあげるだけ。

 ワイングラスに口を付けた瞬間、甘いワインの香りがふんわりと揺れる。それを堪能しながら、するりと口の中に滑り込ませた。冷たくて、ちょっと甘い。そのあとにやってくるワイン特有の酸っぱさと苦み。けれど残るのは、優しいぶどうの味だった。

「んん」

 おいしい、と言おうとする前に、広美が小さく眉を寄せて唸る。それから、ふ、と息を吐き出しながら頬をほんの少しだけ染める。それからきっと無意識なのだろう、ふにゃりと目と口元を緩ませた。

 どこからどう見てもわかる。本当に、酒が大好きなのだろう。

「相変わらず、おいしそうに飲むね」

「だっておいしいんだもん」

 頬の赤身は興奮によるものなのだろう、すぐに冷め、だが表情の緩みは消えない。幸せそうにグラスを見つめる広美を見て、昨日の弟との会話を思い出した。思い出すと、ちょっと恥ずかしくなる。

 頭から追い出すようにワインをもう一口流し込む。冷えたワインが頭の奥を刺激する。

「冷める前に食べちゃおう」

 奈央がそう言いながら、手早く私たちそれぞれの皿の中に殻ごとムール貝をとりわけていく。いつものことなのでそれを任せながら、にんにくの香りをつまみにもう一口ワインを飲む。

 これだけで、結構幸せかもしれない。

「いいよ」

 奈央はそういうと、貝を手でつかんで、そのまま口の中に放り込む。じゅ、と吸い付くように中の身を食べた。もぐもぐと咀嚼するその瞳が緩むのを見ながら、私は貝からフォークで身を外してから口の中に放り込む。

 塩辛い。ブイヨンの香りもしっかりと聞いているが、何より残るのは強いにんにくの香り。けれどそれ以上に、ムール貝の潮の香りと苦み、そしてうまみが口の中全てを覆いつくす。内臓のうっすらとした苦みと、ぷりぷりとしながらぐにゃりと崩れていく身の感触すらおいしい。

 すん、と鼻から息を吐き出すと、にんにくと潮の香りが混ざり合ってひどくここちのいい気持ちになる。ギリシャ、イタリア、ここはどこなのか、地中海の幸せの味がする。

 残る内臓の生臭さが消えないうちに、冷えたワインをもう一口飲み込む。酸味と苦みがまじりあって、なんとも言えない味になる。ああ、大人の味。

「……おいしい」

 広美が、深く弾んだ声でぼそりと呟いた。ちらりと見れば、やっぱり幸せそうに表情全てを弛緩させている。相変わらず、この子は本当にごはんをおいしそうに食べる。

「本当においしいね」

「うん」

 奈央が驚いたように目を見開いているのを見て私も反射的に深く頷いた。さすが奈央の見つけた店。相変わらずはずれがない。もう一切れのムール貝にフォークを伸ばしながら、私はボトルワインの残りを確認した。


 二杯目のワインも空になるころには、野菜料理も運ばれてくる。一つ一つを堪能しながら、落ちてくるのは仕事の話だった。が、不意に奈央が口を開く。

「そういえば、かなえの弟くんって就活中じゃなかったっけ」

「よく覚えてるね」

「記憶力はいい方なの」

 ふひひ、と不思議な笑い方をしながら、奈央がグラスを空にする。広美がまあまあと言いながらそこにワインを継ぎだしていく。最初の一杯以外、注がれるワインの量はワイングラス並々だ。このペースなら二本目もすぐだ。

「苦労してるみたいだよ。あいつ容量以外はだめだから」

「不良姉ちゃん持つと、弟は妙にこざかしくなるっていうけれど」

「不良って私のことー?」

 そうだけど、と言いながら奈央が歯を見せて笑う。広美が「確かに! 金髪だし!」と声をあげて笑うのを聞いて、なんだかおかしくなってきた。酔いが回りはじめているのかもしれない。

「でも私、結構かなえのことうらやましかったんだよ」

 広美が、ワインを傾けながらそう呟く。え、と小さく呟けば、ちょっと照れるように広美はワインのグラスを見つめた。

「だってかなえっていっつもおしゃれじゃん。高校時代からずっと、私服で会うときは緊張したくらいだよ」

「そうだっけ。……まあ、好きだから、今もその仕事してるんだけど」

「そういうの、なんか、いいよね」

 広美がに、と口元を緩める。アルコールが入るといつも以上に人をほめたがる広美の言葉はあんまり気にはしないが、それでも高校時代のことをふんわりと思い出した。

「そうだ。奈央ってあのときゴシックパンクみたいな恰好してたよね」

「忘れて。本当に忘れて」

 話に混ざらなかった奈央が、私の言葉を皮切りに頭を抱えた。思い出されたくなかったのかもしれない。

 高校時代、奈央と私と広美は結構仲良しグループで休日もよく遊びにいったことを思い出す。広美は中学生みたいな中途半端な格好でメイクもまだしていなかった。逆に奈央は行き過ぎた白ファンデーションを塗りたくっていたのが忘れられない。

 そして思い出す。この二人に並びたいって思っていたことに。

「奈央は当時から凄かったよね。音楽作ったり、絵を描いたり」

 広美が懐かしそうに目を細める。奈央は今、フリーのアーティストという何でも屋デザイナーをしている。実際インターネットで名前を検索したときには想像以上にずらりと作品が並んで驚いた。

 高校時代から、奈央は自分の世界を持っていた。それが私はうらやましくて、私もそういうなにかがほしかった。

「広美は頭よかったよねぇ。いっつも先生に指名されててさ」

「高校まではねえ」

 照れるように広美が返す。広美も生きている軸があった。高校時代から飢えるように「稼ぎたい」と言っていた。あのときから明確に今のビジョンを持っていたから、きっと広美はこうなっている。

 そして私もあのとき、自分だったら何になれるかって、考えた。着替えることでほんの少し強くなれる自分が好きだった。

 だから、そういう服を、売りたいって考えたんだ。

「ああ、そうだった」

 すとん、と落ちてきた。もやもやしていた何かが晴れていく。自分が何をしたいのか、ようやく思い出したような気がした。

「なしたの、かなえ」

「ううん、二人のおかげで思い出したくない仕事思い出しただけ」

 私の言葉に奈央は笑って、広美は眉を下げた。こういうでこぼこの二人が大好きで、そして今でも、私はこの二人に並びたいって考えている。

 そうだ、それでいいんじゃん、私。

「二人とも明日も仕事?」

 広美と自分のグラスに、ボトルに残ったワインを注ぎながら二人に聞けば、二人ともおっくうそうに小さく頷いた。そりゃあ平日ど真ん中、奈央はともかく、広美が仕事じゃないわけがない。

 でもなんだか、私は今すぐにでも働きたい気持ちになった。やっぱりたまにはこうして気持ちをリセットしなきゃいけない。

「明日も頑張る我ら社畜女子に」

 奈央が笑いながら、再びグラスを持ち上げた。広美が疲れたように、でも楽しそうにグラスを持ち上げる。

「かんぱい」

 声は重なる。その声は、リプトンで乾杯していた高校時代となんら変わりがなかった。

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