新生物
「妻と会ってくれませんか」という電話が掛かってきたのは、俺が彼女と別れて四年後のことで、名前を聞かされても、しばらくは誰だか思い出せなかった。
「あなたに会いたがっています」
受話器の向こうから聞こえてくる男の声には決然とした響きがあり、とても断ることなど出来なかった。
その翌日、教えられた病院の駐車場に車を止めて、俺は腕時計を見た。約束の五分前だった。
微かに吐き気がした。帰りたいと思った。
当然だ、と俺は自分の感情を肯定してやった。
でも、いま終わらせたほうがいいだろ?
「そうだな」俺は自分に返事をした。
そして車を降り、病院の入り口へと向かった。
受付で彼女の名前を告げ、病室の番号を訊ねた。
「面会ですか」
「はい」
「申し訳ございませんが、ご家族以外は面会謝絶となっております」
「ご主人から特別に許可を取って戴いているはずですが」俺はそう言って受付の女性に自分の名前を教えた。
「少々お待ちください」女性は席を立って、奥へと姿を消した。
俺は手持ち無沙汰になって、待合室を見回した。
平日の昼間なのに閑散としているのは、ここが専門病院だからだろうか。病院というよりも、むしろ研究所のように見える。そしてそれは、ある意味で事実だった。
「群発性悪性新生物?」
昨夜、耳慣れない病名を聞かされ、俺は電話口で問い返した。
「はい。中枢神経系の癌だそうです」彼女の夫と名乗る男は、淡々と答えた。
受付横のドアが開いて、さっきの女性が出てきた。
「こちらです。どうぞ」
俺に背を向けて、さっさと廊下を奥へと歩いていく。
「あ、はい」俺は数歩遅れて後を追った。
「面会は三十分以内でお願いします」
「わかりました」
俺はドアを開けて病室に入った。背後で足音が遠ざかっていく。
彼女は眠っていた。
もしこの病室が一人部屋でなかったら、そこに眠っているのが彼女だとはわからなかっただろう。わずか四年で、彼女は変わり果てていた。
あの頃、人目を忍んで逢瀬を重ね、淫らな愛を交し合った、若く美しい人妻とは別種の生き物が、そこにいた。
「まさに新生物だな」
小声で呟いた瞬間、それが眼を開いた。
「来てくれたの」
か細く、しわがれてはいたが、確かに懐かしい彼女の声だった。
「ああ」俺の声は震えていた。
三十分間、俺はベッドの脇に跪き、ずっと彼女の手を握っていた。
その間、俺たちはほとんど話をしなかった。
あの頃と同じように、いまも俺たちの間には、肌を重ねるよりほかに出来ることは何もなかった。
「じゃあ、そろそろ行かないと」俺は立ち上がった。
「ありがとう」彼女はそっと手を離した。
「また来るよ」つい、そう言ってしまった。
彼女はうっすらと笑って、静かに首を振った。「さようなら」
「さようなら」俺は病室を後にした。
トイレで念入りに手を洗った後、病院の外に出たところで背後から呼び止められた。
声のほうへ振り向くと、一人の男性が近づいてくるところだった。
「今日はありがとうございました」
彼は立ち止まり、俺に向かって深々とお辞儀をした。
俺は相手が誰か覚った。
「ご無理を言って申し訳ありませんでした。ひと目あなたに会いたい、という妻の最後の願いを、どうしても叶えてやりたかったものですから」
「いえ」俺は何と答えればいいのかわからなかった。とても相手の顔を正視することは出来なかった。
とにかくその場から一刻も早く立ち去りたかった。
俯いたまま二こと三こと話をした後、俺は堪らず切り出した。
「ではこれで失礼します。仕事を抜け出して来たものですから」
「本当にありがとうございました」彼はもう一度頭を下げた。
俺は彼に背中を向けて駐車場へと向かった。
歩きながら、よくやった、これで終わりだ、と俺は自分を労った。
ポケットから車のキーを取り出そうとしたとき、背後から何かが、ドン、とぶつかってきた。
背中に激痛が走った。
キーが地面に落ちた音を、ひどく遠くに感じた。
「もうひとつお願いがあります」耳元で男の声が聞こえた。
「私が行くまでの間、あちらで妻の相手をしてやってて下さいませんか?」
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