第99話 太陰三山へ
数日後、頭領は何人かの共を連れて御山を発った。頭領のいなくなった御山では、紫紺の再襲撃の可能性を考慮して連日のように見張り番を立て、いついかなる時でも反撃できるように体制を整えてある。葵も常に錫杖を携え、時折空を仰ぎみては五芒星の陣が浮かびあがっていないかを確認していた。
その日も、葵は木に登って空を見上げていた。その日の空は鉛色の雲に覆われ、青空は見えそうになかった。太陽の光は厚い雲に閉ざされ、下界は薄暗く、どこか鬱屈とした空気が御山を覆っている。今にも雨が降ってきそうではあったが、空は灰色のまま沈黙を保っていた。
「ねえ、葵。降りてきて」
不意に、下から沙羅の声が聞こえ、葵は背中を曲げて木の下を見下ろした。沙羅は葵のいる木の根元に立ち、こちらを見上げている。彼女の右手には大きな弓が握られていた。鬼の国の武器屋から譲り受けた梓の弓だ。きっと稽古でもしていたのだろう。
「よっと」
身軽な動きで枝の上に立つと、葵は瞬く間に木の上から降りた。
「どうした」
要件を尋ねると、沙羅は「頭領さんから文が届いたのよ」と言って、ついてくるよう葵を促した。
「何かあったのか?」
「わからないわ。文を読んだのは平六さんだから。その平六さんが、葵を呼んでこいって言ったのよ。だからこうして迎えに来たの」
「俺のいる場所がよくわかったな」
そう言うと沙羅は笑った。
「もちろんよ。だってあなたはいつも同じ木の上にいるもの。私が見てないとでも思ってたの」
*
沙羅とともに、葵は館の復興作業が続く現場までやってきた。今にも雨の降りそうな曇り空の下でも、天狗達は復興作業に勤しんでいる。
「平六さん」
武装した天狗達になにやら指示を与えている平六の姿を見つけて、沙羅が手を降って叫んだ。平六はすぐにそれに気が付き片手をあげて答える。
「文になにが書いてあったんだ」
平六の大きくゴツゴツした手に握られている文を見て葵は言った。平六は「そんなに大した内容じゃない」と言ってから、文を葵の手へ押しやる。
「お前も太陰三山に来い、だとよ」
平六の言った通り、文には京介たちも連れて太陰三山へ来るようにという旨が書かれていた。どういう風の吹き回しか、人間嫌いであるはずの太陰三山の長が、葵たちに興味を持ち、直に会いたいと申し出たそうだ。
「お前、太陰三山がどこにあるか知ってるか」
心配そうな顔をして平六に尋ねられたが、葵は「知らない」と答えた。平六は
「ま、だろうな」と大して期待してなかったようで、「嬢ちゃんは?」と今度は沙羅へ尋ねる。
「大体の位置はわかります。京介なら多分もっと詳しいでしょう」
「なら大丈夫だな」
平六は頷くと、葵に向き直った。
「と、いうわけだ。お前は準備が整い次第、すぐにここを出て太陰三山へ向かえ。ああ、あと、これを渡すのを忘れるところだった」
平六は懐からもう一枚紙切れを取り出して、葵へ渡した。紙切れには黒々とした文字の上に赤い判が押され、なんだか
「これは?」
「文と一緒によこされた入山許可証だ。ウラの方のな。それを門番に見せないと山には入れない。なくすなよ」
「わかった」
文と入山許可証を懐ろにしまい、葵と沙羅は平六と別れた。今度はこのことを京介と九尾にも知らせなければならない。京介と九尾は、天狗達を刺激しないように割り当てられた部屋にいるはずだった。
「まさか、太陰三山へ行くことになるなんて」
部屋に向かう途中沙羅がぼやいた。
「向こうの山の頭領さんは、私たちに何をそんなに興味を持ったのかしらね」
「さあな。行ってみて確かめるしかないさ」
答えながら、葵も考える。太陰三山の天狗一派を取りまとめる頭領は人間嫌いと聞いたが、自身が興味を持った人間は別なのだろうか。なんにしても、急遽太陰三山へ行くことになったことは御山の守りも心配ではあるものの、葵にとって嬉しくないことではなかった。向こうに行けば五色もいるし、元から気になっていた場所だ。紫紺を討つために、味方となってくれるかもしれない天狗達をたっぷり見てこられるだろう。
*
翌朝、葵達はすっかり旅支度を整えてしまい、御山を出発した。時間の短縮のため、九尾には悪いが大狐姿の彼の背に乗せてもらうことにして、頭領たちの待つ太陰三山へ一直線に向かう。向かう途中、葵は京介から太陰三山について色々と教わることになった。久渡平へ向かう途中も、散々彼から向かう土地について解説を受けたものだが、今回の京介の解説も実に分かりやすく、彼の博識さには舌を巻いた。そんな京介の話をまとめるとこうだ。
——『太陰三山』
「月」の名を与えられたこの山は、百世の国の北部に連なる山脈のうちの、三つの山を指す。古の時代より、霊峰として人々から崇められ、信仰心を集めるこの山々には、あちこちに拝殿が建てられ、参拝人や修験者の訪問が後を絶たない土地である。さらに、年に一度、帝の行幸もあって、その名は天下に轟くほどであった。
久渡平の羽衣神宮とは異なり、太陰三山には、拝殿はあるが神の御神体を祀る本殿は存在しない。山そのものが御神体とみなされているからだ。さすがに山を覆うほどの、巨大な神殿を建てることはできない。
太陰三山には、山の神とは別に、もう一柱の神も祀られている。それは、月の男神。太陰三山の名の由来になった神様だ。百世の国の神話には、「その昔、まだ名もなき山だった太陰三山に、月の男神が降り立った。だから、この山には月を意味する太陰の名が授けられたのだ」という旨の記述がある。ちなみに、この月の男神も、月そのものが御神体とみなされているために本殿はなく拝殿のみである。
「にしても、また神様か」
京介の解説を思い出しながら、葵は頭の後ろに両手を回して空を見上げた。
「神様には何かとご縁があるな……」
言いながら、ぼんやりと山神の言葉を思い出す。
——『森の神、羽衣神宮の神、火の神、みーんな葵に協力的だったでしょう?たまにいるんだよね。やたらと神様に好かれる人間って。まあ、すべての神様にってわけではないけれど』
「神様に好かれるって……。俺は巫女でもなんでもないんだが」
「何か言った?」
京介が訝しげに首を傾げたので、葵は「いや、何でもない」と手を前にやる。
今葵たちは、急峻な山々の上を九尾の背に乗って移動している。空は昨日と同様に曇っていて、昼だというのに太陽の光は閉ざされている。眼下の山々は鬱蒼と木々を生やして、地面を覆っていた。
さっきから景色はずっとそんな調子だった。代わり映えのしない景色に暇を持て余してきた葵は、独り言を誤魔化すのにもこれ幸いと、京介へ尋ねる。
「それより、太陰三山にはあとどのくらいで着くんだ」
すると、京介は「もうほら、見えてる」と前方を指さしたので、「は?」と葵は身を乗り出した。だが、先述したように見渡す限り山ばかり。京介がどの山を指差しているのか判断がつかない。
「どれだよ」
京介は、わからない葵のために、葵の視線に寄り添って指でもう一度指し示した。
「ほら、正面の山のずうっと向こうに、高い山があるだろう。あれだよ」
正面の山。その山の向こうにも、ひたすら山の尾根が連なり、長大な山脈であることがわかる。その山脈の先に、確かにひときわ高い山が見える。ここからでは遠すぎるあまり青みがかって見えるその山は、白い雲をまとい、全貌が見えなかった。
「あのやたらと雲に覆われてる山のことか?」
「そうだよ。太陰三山は、このへんに連なる山よりも抜きん出て大きくてね。そのせいか、ああやって、いつも山頂付近は雲に覆われているんだ。麓のあたりも霧深いから、滅多に山の全貌を見ることはできない。だから多分、あの山がそうだよ」
「……」
九尾は皆を乗せて、京介の指し示したその山へ向かってゆっくりと近づいてゆく。
人々の信仰と天狗の総本山という二つの側面を持つその霧深い山は、己の懐へ、一行を泰然と迎え入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます